277 「再投資」

 1932年春からアメリカでは大統領選挙の予備選が始まり、与党共和党、野党民主党がそれぞれの候補選びに精を出していた。そして夏には、かなり大勢が見えてきていた。



「魔王登場かあ」


「まおう? なんだそれ?」


「閻魔様の魔に王様の王。後は宗教の資料から探して。読んで字の如し。日本にとって厄介な人」


「誰がだ? 今日の教材だよな」


「うん。この人」


「大統領候補のルーズベルトさんか。悪い人なの?」


「うーん、掲げている選挙公約が社会主義的かな」


「じゃあアカと同じね」


 平日の午後、夏休み前の鳳の本邸での英語の学習会は、英字新聞を教材とするので、それを鳳の子供達と眺めていた。

 新聞は、民主党候補選びでフランクリン・ルーズベルトが優位に運んでいると書かれていた。共和党の方は、現職のハーバート・フーヴァーに決まるだろうとの事だ。


「で、玲子は、その魔王が選挙に勝つって考えているんだ」


「そりゃあそうだろう。現職のフーヴァー大統領の政策は、最悪だ。アメリカの景気後退、所得の下落、失業率、どれも歴史上最悪とか言われているじゃないか」


「でも、社会主義的だから魔王なの?」


「それより魔王って悪いやつなの?」


 オタク的には魔王イコール悪の親玉だけど、瑤子ちゃん、虎士郎くんには通じないらしい。


「仏教だと、正しい教えを邪魔する存在。キリスト教だと魔物や悪魔の王ね。英語で直訳したら、確かサタンだし」


「サタンって、向こうの歌や歌劇で聞いた事あるよ。聖書にも出てくるよね」


「社会主義政策するなら悪い人なんだろうけど、その人が選挙に勝つの? アメリカって変な国」


 瑤子ちゃんの言葉は、この時代の感覚ではごもっとも過ぎたから、思わず苦笑が浮かんでしまう。


「そうよね。けど日本でも、国債を沢山出して公共投資を拡大しているでしょ。これも社会主義的な政策って言われるわよ」


「そうなんだ。政治ってよく分からないわ」


「ほんとそうね」


 今度は心から賛同してしまう。しかも大魔王召喚の儀式は、この秋には完成してしまうとなれば、さらに溜息も出そうになる。けどその前に、私の目の前に別の新聞が「バッ!」と掲げられた。


「なんで玲子が載っているんだ?」


「エッ? あぁ、ニューヨークの時の写真ね」


 新聞が目の前に来て少し驚いたけど、内容自体はさっきも見たし、驚くには当たらない。それに日付は少し前のもの。

 けど、みんなは初見だったらしく、全員がその新聞に群がる。


「『不死鳥の帰還!』?」


「株式市場の救世主現る?」


「ダウ・インデックス株?」


「アメリカ経済の復活の狼煙?」


 4人全員が、違うところを見てから私に視線を向ける。しかも同時に。お前ら息ぴったりだな。


「アメリカに置いてあるお金で、鳳グループのフェニックス・ファンドが株を大量に買い始めたのよ」


「確か3年前に鳳が株で大儲けしたけど、関連があるのか?」


「玄太郎、聞くことが違うだろ。なんで玲子の写真が載っているんだ?」


 龍一くんは、私が新聞に掲載されている事が、かなり気になっているご様子だ。ただ掲載写真自体は、私にもいつ撮られたのかは分からない。背景からして、ニューヨーク証券取引市場だと分かるだけ。


「その3年前にニューヨーク証券取引市場に行っていたから、その時に偶然撮られたものでしょ。で、フェニックス・ファンドに関係があるから、掲載したんじゃない?」


「それなら、載せるのは時田さんじゃないのか?」


「それはそうだろうけど、写真を選んだ新聞社にでも言ってよ。私は知らないわよ」


「まあ、写真はそれで良いとして、今度は何をした?」


 玄太郎くんが、「メガネクイッ」モードに入った。勉強に専念するとか言いつつも、結局は世相がえらく気になるところがまだまだお子様だ。


「セバスチャンがいないでしょ。6月から渡米して、この7月に入って向こうで株の売買を任せているのよ」


「株を買っただけでこの騒ぎか? おかしいだろ」


「まあ、金額がおかしいからね。最低でも3億ドルは買う予定だから。もう2億ドルくらいは買ったんじゃないかな? 最新報告はまだ見てないけど」


「3億ドル? 9億円もか?!」


「うん。その3年前は、もっと運用していたわよ。あっ、この話は、絶対に外でしないでね」


「あ、あぁ」


 完全に毒気を抜かれた表情になってしまった。ちょっと悪い気はするけど、もう知っても良い年齢だろうと、気にしない事にした。

 なお、アメリカ株は、私にとって少し嬉しい変化を教えてくれるものだった。


 私の前世の記憶のチャートによれば、1932年7月8日、アメリカ、ダウ・インデックスは41ドル22セントという最安値を記録する。

 けどこの世界では、私が30年の夏くらいからアメリカで買い物をしていた影響だと思いたい変化で、最安値は42ドル22セント。ちょうど1ドル高かった。最安値の日時に変化はなかったけど、私にとっては日本に関わる歴史の捻じ曲げ以外で、初めての目に見える変化だった。


 勿論、最安値の日時が後ろにズレているのかもしれないけど、動くと決めて動いた以上、もうどうでも良かった。

 セバスチャンは、私が事前に指示していた通り、最安値を付けた次の瞬間から猛然と買い始めた。


 当然だけど、その一年以上前から色々な噂をばら撒いてある。

 特に日本で政権が変わり積極財政に転換した事で、鳳グループがさらなる拡大傾向に傾くという話は、実際その通りだから信ぴょう性もあった。

 そしてアメリカの王様達にも、近々一部の資金をゲームに戻したいという話は通してある。


 王様達には、32年春からのさらなる株価下落は流石に看過できないから、下半期に入るまでに一時的にでも回復しないようなら、大規模な買い支えをしたいと書き送ってあった。

 当然、下半期の始まる7月頭が底値だと、私の前世の記憶があるからだ。


 そして市場全体は、フェニックス・ファンドが約3年ぶりに帰ってきた事、しかも反転大攻勢と言えるほどの猛烈な買いに好感触を受けて大幅な上昇に転じ、1日で5ドル跳ね上がった。5ドルだとそれほど凄くなさそうにも思えるけど、10%以上の上げ幅と表現を変えると大きな変化なのは誰の目にも明らかだ。

 新聞は、その翌日のアメリカ市場の喜びを伝えるものだった。

 私の元にも、祝電が幾つも届いたほどだ。国際電話やネットが無くて良かったと思えるほどに。


 その後フェニックス・ファンドは、インデックス株を中心にして買い進めた。株価が40から50ドル程度で、3億ドルの買い。さらにレバレッジによって買い増す予定。一定程度のまとまった額で仕掛けないと、揺り戻しでの暴落の危険もあるし、長期的に見ても意味がないからだ。

 最大想定の場合、合計6億ドル、18億円分買う事になる。そして株価は小幅な下落を挟みつつも、大きく上昇に転じた。

 株価はすでに60ドル以上を示しているから、既に買った3億ドルは1億ドルほど時価総額が増えていた。


 そして、秋から来年の春にかけてレバレッジ分も買い進めるけど、本年度中に当座の買いは終了。株価がもう少し上昇すれば、日本の国家予算ほどに膨れ上がるかもしれない。

 さらに私の前世の記憶による直近だと、ニューディール政策が成功したと見られた36年には一時的に200ドル近くまで上がる。だから、さらに買いやレバレッジを進めれば、再び20億ドルに達する事になるかもしれない。

 この先は半ば妄想でしかないけど、私が覚えている限りの時代まで塩漬けしておいたら、20兆円くらいの時価総額になっているかもしれない。ダウ・インデックス、侮り難し。


 まあ、そんな妄想はともかく、この春くらいからアメリカでの大きな買い物を加速させているから、鍋底経済のアメリカ経済界は鳳グループ様様モードに入っている。

 向こう2年で10億ドルのお買い物に、アメリカ産業界は歓喜に震えていた。しかも全額即金のお買い物で、鳳の買い物で叩かれた各銀行も、最低でも半分は現金決済の約束に変更したから、喜ばないわけがない。なんだか、餌を持って公園に行き鳩にたかられている気分だ。


 株への再投資と合わせて、『フェニックス攻勢』や『フェニックス景気』と揶揄されているという噂も耳にした。

 ただ、株への復帰と合わせてあまりにも騒がしいから、対応は全部他に任せていた。

 それに株価以外のアメリカ経済には、結果としては雀の涙ほどの影響しか与えていないので、徒労感の方が大きい。アメリカ経済に恩を売った形になるし、感謝してくれた人達もいるけど、私としては「やっぱりダメだった」くらいにしか思えなかった。

 だから、現実に対してあまり関心も持てないでいた。

 そして半ば分かっていた事だから私自身は渡米もせず、こうして日々を淡々と過ごしている。



「アラ? 自主学習しているんですか? 熱心ですね」


 そう言って今日の英語講師のトリアが入ってきた。

 今日の雑談もここまでらしい。



__________________


英字新聞:

戦前の日本だと、「ジャパンタイムズ」が東京で、「ジャパンアドバタイザー」が横浜で発行されている。

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