218 「満州事変前夜(9)」

「大変お待たせ致しました。それでは、こちらが鳳からのせめてもの心尽くしになります。どうぞ、お納め下さい」


「感謝する。この恩は決して忘れないと誓おう」


「勿体無いお言葉。ですが、気遣い無用にてお願い致します。この程度しかご用意できず、非常に心苦しく思っている次第です」


「何の、誰も彼も口だけだ。手を差し伸べるのは、そこな土肥原と石原くらいだった。鳳には感謝しても仕切れない」


 そう言って川島さんが右手を差し出してきたので、ヒシと握手を交わす。これで茶番劇は完成だ。政治の水面下のお話なので新聞記者がいないけど、ニコリと笑顔で記念撮影の一つでもしたいくらいだ。

 場所は、川島さんがこちらに出向くと言う事なので、私が宿泊する大和ホテルの一室。お客も川島さんとその随員、それに土肥原賢二と石原莞爾。

 そして遣り取りが終わったので、にこやかな表情を浮かべていた土肥原賢二が口を開く。


「それでは殿下、予定通り活動を開始して頂けますか」


「勿論だ。既に準備も十分に進めさせている。8月中には、陛下をお迎え出来るだけのお膳立てを整えて見せよう」


「心から成功をお祈り致します」


「うむ。では石原、お前の言う『乙案』前提で動いて頂けるのだろうな」


「成功さえすれば、間違いなく。その方が我々も余計な一手間をかけずに済みます。それに私個人で言えば、作戦はともかく大東亜主義実践の為にも、殿下らの行動が成功する事をお祈り申し上げております」


 そう言いながら、それぞれとも川島さんが握手する。

 『乙案』とは、満州党が一気に勢力を拡大後に溥儀を出迎え、その上で満州に出来た民族自決政府が、関東軍に治安維持要請を出す段取りの方だ。

 ただ私は『甲案』を知らない。川島さんも聞いていないので、知る事が出来なかった。鳳の情報網も、軍事行動の準備の兆候以外は掴んでいない。

 私が知っているのは、私の前世の歴史の『柳条湖事件』だけだ。


「『乙案』と言うからには『甲案』がお有りなのでしょうが、どのようなものかお聞きする事は出来ますか?」


「鳳玲子さん、それはあなたの為に聞かない方が良い」


 土肥原賢二にピシャリと言われてしまった。まあそうだろう。石原莞爾もニヤリと歯を見せ続く。


「そういう事だ。それに『乙案』が実働したら、二度と陽の目を見る事はないから知る必要もない。それとも『鳳の巫女』様は、何かご懸念でもお有りかな?」


「いえ、単なる興味本位です。私が見た夢と同じなのか、この目で見る事がなくなったのでお聞きできる唯一の機会かと思いまして。ですが、土肥原様のおっしゃる通りですね。余計な事を申しました」


「つまり、『乙案』は夢には無かった事か」


「はい。知らない景色が見られるので、今からドキドキしています」


「ドキドキ? 妙な表現を使われる。いや、それはともかく、こちらの方こそ見たという夢についてお聞きする事は出来ますか?」


「それこそ聞かない方がよろしいですよ。一族や一部の方にお話した事はありますが、大抵は聞かなければ良かったというお顔をされます」


「そりゃあそうだろうな。俺でも、あの日の夜は悪い夢を見た。それと、鳳大尉の論文と嬢ちゃんの話の方は、興奮して眠れなかった」


 日蓮宗をキメている石原莞爾でもダメだったらしい。

 確かに、かなり酷い事を伝えた気はするから、まともな神経をしていたら悪夢の1回くらいは見ても不思議はない。

 何しろ私は、体の主の置き土産込みで毎夜とまではいかないけど、「またか」と思うくらいには見ている。もはや飽き飽きしてきた程だ。


「そうでしょうね。私など、毎夜のように悪夢を見ておりますもの」


「毎夜ですか。その、平気なのですか?」


「子供だからでしょうね、もう慣れました。もっとも、語って聞かせた方が慣れた、というお話は聞いた事はありません。ご覚悟があるのなら話は別ですが、お聞きになりますか?」


「いや、やめておきましょう。こちらも単なる興味本位です。ただ、一つだけ聞いても宜しいでしょうか」


「何なりと」


「石原からは、3年前にお会いになった時の話は聞き及んでおります。その上でお聞きします。『乙案』ではない行いの先には、本当に破局しかないのでしょうか」


(話したんだ。ウワッ、メッチャ悪い顔してる)


 チラリと見た石原莞爾は、土肥原賢二の横で一瞬私に悪い顔をわざと見せる。悪夢を見るお仲間でも欲しかったんだろうか、それとも単なる嫌がらせか。この人の場合、相手がどういう反応を見せるかを見たいとかの興味本位からかもしれない。

 けど、だからこそ『乙案』が関東軍の側から動き出す切っ掛けになったのかもしれない。

 そう思うと、結果として石原莞爾は私の言う事を聞いてはいたと言う事になるのだろう。


(それとも、単に悪ぶっているだけで、一生懸命頑張ってくれ……たりしたら石原莞爾じゃないか)


 最後に自分の中で納得いく結論に達したので、気持ちを切り替え土肥原賢二への言葉を紡ぐ。


「夢は必ずしも現実になるとは限りません。むしろ、ならない事の方が多いとお考え下さい。現に満州での動きは、私の知らないものです。ただ」


「ただ」


「石原様にも一度申し上げましたが、軍人が政治を蔑ろにした上に、政府に外交の後追いをさせるような事をすれば、日本にとって悪い結果しかもたらしません。その事は、決してお忘れなきようお願い致します」


「心しましょう。いや、軍人である私が心するなどと言う時点でおかしな話だ。ご忠告、確かにお聞きしました」


「いいえ。とんでもありません」


 とそこで、手を「パンっ!」と叩く音。意外に静かに聞いていた川島さんだ。


「さて、辛気臭い話も済んだようだな。私は玲子と、辛気臭くない話をして息抜きといきたいのだが、お二方もご一緒されるか?」


「大変嬉しいお誘いですが、これから軍務が御座います。またの機会にとはいきませんが、お二人はどうぞごゆっくりご歓談ください」


「そうさせてもらう。石原もか?」


「はい。自分も軍務にて、失礼させて頂きます。ただ、最後に一つ伯爵令嬢にお伺いしたい」


「はい。お答えできる事でしたら」


「昨日内地より連絡を受けたのだが、あなたの叔父上が動き始めているご様子。何かご存知か?」


「龍也叔父様だけでなく、お父様ももう動いていますよ。何しろ、私が知っている事は、鳳の中枢に位置する者で知らぬ者はおりませんから」


「それはそうだろうな。だが鳳閣下、いや元閣下は中央の誰を動かす?」


「龍也叔父様の事はお聞きにならないのですか?」


「聞くまでもない。あれ、いや失礼、龍也君は正道を歩む者だ。俺とは決して合わない。利害一致の場合のみ共に歩けるかもしれないが、長期間は無理だろう。議論するだけなら面白いんだがな」


(よく分かってらっしゃる。自分の事も)


「それが分かるのに、お父様の動きまでは分からないのですか?」


「頭の切れる方だし、俺もあの方の年の功にはまだ及ばない。その程度は自覚している」


「だから、仕方なく私に聞いたのですか?」


「一番の近道だからな」


「ごもっとも。じゃあ、一つだけお教えします」


 二人のやりとりを見るともなしに見ていた土肥原賢二が、極わずかに興味を増す仕草を見せた。謀略一筋の人なら平然としていると思ったけど、誠意で謀略を進めるタイプというから、冷徹とまではいかないのかもしれない。

 そんな事を頭の片隅で思いつつ、言葉にするタイミングを一瞬測って口にした。


「動かすお相手は、加藤高明様です」


「っ!」


 二人同時に軽く驚いた。川島さんは、興味深げに片眉を上げるだけだ。何しろ先に伝えてある。


「鳳は、まだ民政党に強いつながりを維持していたのか」


「いや違うぞ石原。加藤元首相は三菱だ。そういう事だね、玲子さん」


「鳳だけでも、加藤様とは深いご縁があります。曽祖父の葬儀の折は、ご本人が来てくださいました。今度の初盆にもお越し下さると聞いております」


「そうでしたか。『乙案』は殿下よりお聞きしていると考えておりましたが、流石は鳳伯爵。行動がお早い。それとも、これは玲子さんのご指示かな?」


「まさか。話はしましたが、動いたのは父と叔父の判断です。私は、こうして名代を務めているに過ぎません」


「ぬけぬけと」


 悪態や愚痴が小声じゃないのは石原莞爾の、多分良いところだ。私的にはそう思うけど、ちょっと思った事を口にしすぎる。

 私の前世の歴女知識でも、ちょっとした一言が積み重なって陸軍からハブられた的な話を見たように記憶している。しかも幼女相手でも、関係なかったらしい。

 隣の土肥原賢二も、一瞬石原に視線を向けている。

 けど誰も何も言わない。そしてそのまま、別れの挨拶だけして二人は去っていった。




「石原にも困ったものだな」


「そうなんですか?」


 二人になったので、ノンビリとお茶をしつつプチ女子会となった。

 月餅は少し胃には重いけど、頭使う話をした後だと糖分が嬉しい。

 

「石原としては、主義のことは別として、自分の立てた作戦を実行したくてたまらないんだ。だから、玲子が来てから不機嫌だったし、せっかちになっていただろう」


「そうなんですね。けど『乙案』でも、最初以外の軍事行動はほぼ同じでしょうに。何が気に入らないんでしょうかね」


「分かっているくせに、そう言ってやるな」


(石原莞爾は、一から十まで自分の思う通りに動かしたいんだろうなあ。けどこれって、天才という以前に参謀の性癖よね)


 そうは思うけど、さらに思ったのは別の事だった。


「まあ、それは。それにしても、天才なり鬼才ってのは、面倒臭いんですね」


「天才なり鬼才の玲子がそれを言うのか?」


「私は大した事ないですよ。誰かと会うたびに思い知らされ、天狗になった鼻をへし折られてばっかりです」


「アッハッハッハッ! そうなのか。世の中面白いな」


「はい。驚きに満ちています」


「うん。私も、世を儚んだり気に入らなかったりした時期もあったが、今は面白いと感じている」


「それは良い事だと思います。ですが、くれぐれも見極めを誤らないようにして下さい」


「アメリカで大勝ちして来た玲子が言うと重みが違うな。……私は危うく見えるか?」


 言葉の最後で、ジッと私の瞳を見てくる。心象イメージ的には、川島さんの瞳の中に私が映るくらいだ。

 そしてその瞳は、今は爛々と輝いている。


「いえ、今は内から湧き出る活力に満ちていると思います」


「今はいいが、この先か。確かに、関東軍も日本政府も、事が済めば私を飼い殺しなりしようとするだろうな」


「恐らくは。その際、可能でしたら鳳をお頼り下さい。出来る限りの事はさせて頂きます」


「鳳が不利になってもか?」


「金で解決する事で済むなら、どうと言う事はありません」


「そうか。やはり玲子は女傑だな。私から見れば、関東軍も日本政府も、想像すら難しい化け物に見える」


「そのお気持ちをお持ち続けられたら、見極めを誤られる事も御座いませんでしょう。けれど、関東軍も日本政府も、私から金を毟り取るか無心する事しか考えてない輩です。その程度に考える方が、美容と健康のためになります」


「アッハッハッハッ! それはいい。玲子にかかれば、関東軍も日本政府も小遣いをせがむ駄々っ子だな」


「駄々っ子の方が、何百倍も可愛いですよ」


「それはもっともだ」


 そう言って、再び豪傑笑いをする川島さんだった。

 そうして楽しい歓談はその後一日続いたけど、翌日私は大連を後にした。

 これから騒乱の起こる満州から、身の安全を確保する為に離れたのだ。そして離れないといけないのが、私の立場や立ち位置からの限界でもあった。



__________________


柳条湖事件 (りゅうじょうこじけん)

言わずと知れた、満州事変の発端となる鉄道爆破事件。

1931年(昭和6年)9月18日発生。

これ以上は、教科書を見るなりネットで検索して下さい。

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