209 「上海狂詩曲(10)」
上海で騒乱が起き始めた日の夜、私達はバンドの沖に浮かぶ船で過ごした。そして翌朝、張支店長の案内で一旦は岸辺に戻り、別の船へと乗り換える。
次の船は中型ながら高速の貨客船。脚が速いので、丸一日経てばそこは満州の玄関口大連だ。
「これで上海ともお別れか。って、結局二日しかいなかったのね。もっと楽しみたかったなあ」
「楽しみたければ、どうぞご自由に。暴徒と駐留軍の派手な見世物がご覧になれますぞ。何せ、これから本番の幕が上がる」
「私は八神のおっちゃんと違って、そういうのは願い下げよ。だから離れるんでしょ」
「だが、次は満州だろ。物好きだな」
「怖いもの見たさ。もしくは、歴史を見られるかもってところかな」
「歴史、ねえ。上海もそうなのか?」
軽快なトークだけど、目が少し真剣になっている。
けど、私は軽快な口調のまま続ける。
「たぶんねー。けど、私の知らない事ばっかりだから、正直分からない。それに、すぐに騒ぎが収まるって知っていたら、残って遊んでいたと思わない?」
「お前なら、確かにそうだな」
「そういう事よ。それで、何か動きはあった?」
「暴徒の方は、租界に迫った時点で足踏みだ。ヤケで、自分達の街を破壊している。街中の連中は、夜は本気になった上海ヤクザどもに追い回されて、かなりが魚か豚の餌になったらしい。夕方みたいな爆発も2件あったが、租界の境界線辺りで警備する兵士の一部に怪我人が出た程度だ。それに爆薬も、一部だろうが発見された」
「じゃあ、収まったの?」
「いや、まだ序の口だろう。離れて正解だと俺も思う。だが、さらに危険かもしれない場所に行く時点で、お前はどうかしている」
「黄先生の計らいよ。行かないわけにはね。詳しい事は何も言ってくれなかったけど、何かが待っているんでしょ」
「拉致監禁、誘拐、それとも暗殺が待っているかもしれんぞ」
少し凄んでくるけど、その程度は怖くはない。何しろ八神のおっちゃんは、少なくとも現時点では頼りになる味方だ。
だから軽口を返すこともできる。そしてそれが有難いとも思う。
「その時は守ってね、私の騎士様」
「騎士じゃない。目の前の男は、金で契約しただけのクズだ。それは忘れるな」
「それじゃあ、もっとお金を積ませてもらうわ」
「フンっ、言ってろ。それに、俺なんかよりメイドのねーちゃん達を頼れ。それがお前の役目でもある」
そう言って、そばの二人に視線を向ける。
つられて私も目を向けると、なんとなくリズと視線が合う。翡翠の瞳は見ていて綺麗だ。
「言われなくても、シズは一番頼りにしているわよ。リズは、今回被害者に等しいけどね」
「そんな事はありません。今回は、現場を知る絶好の機会です」
「それじゃあ日本は退屈だった?」
「仕事に退屈もありません。それに退屈というなら、ステイツの方が退屈でした」
「シカゴとか楽しそうだけど?」
「アメリカはどこも退屈でした。訓練所の方が楽しめました。楽しむという点では、満州も期待しています」
「私は平和が一番なんだけどなあ」
「その正反対の連中が来ているぞ」
不意に八神のおっちゃんが、海の向こうを見つつそんな不吉な事をのたまう。表情も楽しそうだ。
そして私も視線を向けるも、よく分からない。
「何が来たの?」
「煙が複数見えます。一度に複数という事は海軍の艦隊でしょう」
代わりに、シズが冷静な観察をしてくれた。
それでも朝の靄に紛れて、私が立ち上る煙を認識できたのは10分ほどしてからだった。
最初は1つだけに見えたけど、徐々に煙の数が増えていく。
今いる場所は、揚子江の本当の河口部。だから往来する船は沢山あるけど、あんなにまとまって、しかも組織だって行動するには訓練を積んでいないと難しい。
だからみんな、海軍の艦隊だと見当付けたんだろう。それに、こちらも海に出るべく進んでいるにしても、近づいてくる時間が早い。
そしてこちらが海に出る頃には、お互いを視認する位置まで近づいて来た。そしてそのまま交差していく。
日本艦隊は一列縦隊で、多分10隻くらい。先頭を進むのは、私も見覚えのある大きな巡洋艦だ。
「『那智』さんだ。ねえ、そうよね」
「どうでしょうか。確かに『妙高型』一等巡洋艦ですが、ここからだと煙突の帯が見えないので4隻のうちどれかは分かりかねますね」
シズが実に的確な観察。ていうか、軍艦や海軍の事に私以上に詳しい。いつのまにか勉強していたんだろう。
けど、煙突の帯と言われても、識別用の何かだろうくらいしか私には分からない。シズも、私が名前を言ったから説明したという程度の筈だ。私が『那智』さんと言ったのも、数年前に見たのが『那智』さんってだけだ。
それに誰でもいい。波を蹴立てながら高速で進んでくる大きな巡洋艦は、迫力があってすごく見応えもある。
「すごい速度ね」
「はい。この船より速いと考えると、20ノット以上でしょう」
「分かるの?」
「正確には分かりません。ですが、船が立てる波の高さ、他のものが動くのと見比べると、おおよその見当は付きます」
「そうなんだ。私にはさっぱり」
「そういうのは、教育と訓練である程度はなんとかなるもんだ。だが、俺でもそこまで分からん。いい目をしているな。うちの観測員に欲しいくらいだ」
「恐れ入ります」
いつのまにか双眼鏡を構えていた八神のおっちゃんの言葉に、シズが角度浅めに小さく一礼する。
リズはと言えば、こちらもいつのまにか写真機を取り出して撮影中。シャッターを切る音で、その事に気付かされた。
「写真撮ってどうするの?」
「念の為です。この場には、他に鳳の者がおりません。ですが、場所、撮影時間などを合わせて記録しておけば、何かの役に立つかもしれません」
「そっか。情報ってそういうものだもんね」
現代ならスマホ一つで片付く事にも手間が必要なんだと改めて思うも、緊急時のみんなの手際の良さには感心しかない。
「姫は、手でも振って差し上げては如何ですかな。こういう時に子供から手を振られると、兵隊ってのは案外嬉しいもんだ」
「フーン。じゃあ、もっと向こうから見える場所に行きましょう。子供じゃなくても、女子でも喜ぶでしょう。二人も私と一緒に手を振ってあげてね!」
「「畏まりました」」
そう言うわけで、船の人に頼んで向こうから良く見える場所で、女子3人がすれ違う日本艦隊に手を振る。
この艦隊は、佐世保で陸戦隊を載せて上海に向かう任務中なんだろう。それぞれの軍艦は、予想に反して甲板にも沢山の兵隊や車両、何かの貨物を積んでいる。
そんな状態なので、色んな場所に沢山の人が乗っていた。だからこちらにもすぐに気づく。そして、この船が日の丸を掲げている事もあって注目もされ、そして目の良い人は私達が貨物船には不似合いな女子であると気づいてくれた。
そしてこちらが手を振ったりすると、向こうも手を振り返してくれる。中には、将校さんらしい人が敬礼までしてくれた。
すれ違った艦隊は、全部で11隻。一番大きな『妙高型』一等巡洋艦を先頭として、その後ろに『長良型』か他のよく似た別のクラスの二等巡洋艦が続く。中には見た事ない巡洋艦もいたけど、シズの解説によれば防護巡洋艦という1世代前の旧式巡洋艦だそうだ。それと、巡洋艦の最後は私でも分かる、特徴的な姿の『夕張』さんもいた。
そしてその後ろに、6隻の駆逐艦が続く。駆逐艦の方には余分な人や荷物は殆ど積んでいないので、巡洋艦が運搬役で駆逐艦がエスコートなんだろう。
エスコートも一列に並んでいるのは、ここが船が多く行き交う航路上で、艦隊の方はすぐにも上海へと至る黄浦江へと入っていく為だとも説明された。
「行っちゃった。けど、民政党内閣がこの時点でよく出兵を許可したものね」
「あれは出兵以前の予防措置だ。英米に上海の治安維持を言われて、念の為寄越したんだろうな。それなら大陸への介入じゃなくて、列強間の協調外交で済む。何しろ行き先は上海租界だ。大陸じゃないと言い訳できる」
「それにしても、急いでなかった?」
「政府はともかく、海軍の方は行きたくて仕方なかったんだろう。俺達がいた時に、何が起きた?」
「そうでした。けど、昨日出たのかな?」
「佐世保からここまで、海軍の巡洋艦なら飛ばせば半日もかからんだろ。夕方の爆発騒ぎで出動命令が出て、今しがた目の前を通り過ぎたってあたりじゃないか」
「私も八神様の推測に賛成です」
双眼鏡を下ろした八神のおっちゃんにシズが賛成する。
リズの方は写真を撮り終え、紙面に色々と情報を書き込んでいる。もちろん英語で。
「やっぱり軍艦は速くて良いわね。それで、急ぐから軍艦だけで出撃したんだとして、陸戦隊はどのくらいの数? 昨日聞いた話だと2個大隊って事だったけど」
「陸軍の2個大隊だと、完全武装で最大2000名ほどになるが、海軍陸戦隊は軽装で輜重もない。実数は、その半分くらいだろう。だが巡洋艦5隻にあれだけ載せて、1000って事はない筈だ。倍はいたんじゃないか」
「2000人か。駐留しているのが1000人だから、合わせて3000人。これで暴動を抑えられるの?」
「緊急時には、さらに追加で数百は増やせる」
「どうやって?」
「河に古臭い巡洋艦が浮かんでいただろ。あの艦の乗組員の大半を、臨時に武装して陸に揚げるんだ。上海にいる海軍の艦艇は、そういう場合も想定している。場合によれば、今の艦隊の正規の乗組員も一部揚げるだろう」
「なるほどねえ。でも、水兵って陸上で戦う兵隊さんじゃないのに、大丈夫なの?」
「海軍でも、水兵の最初の教育として陸戦を多少教える。陸戦隊の連中は、その時に優秀だった者を選ぶそうだ。それに上海に行く艦艇にも、陸戦が得意な水兵や将校を乗せている場合が多い。まあ、艦艇乗り組みの連中を揚げるのは臨時措置だろうがな」
「まあ、数は力だもんね。抑止するなら、尚更って事か」
「そういう事だ。相手が蒋介石の兵隊じゃない限り、なんとでもなる」
八神のおっちゃんと陸戦隊談義に花を咲かせたけど、その言葉が私には引っかかった。
「兵隊が出てきたら?」
「蘇州にいると言う軍閥の事か? 蒋介石が手綱を握っている限り、馬鹿な事はしないだろう。それに、日本が陸戦隊とはいえ兵隊を増やし、送り迎え用とはいえ艦隊まで出向いた。海軍が新鋭艦を送り込んだのも、示威が目的だろう。これで手を出すなら、とんだ大馬鹿ものだな」
「上海の駐留部隊だけで対抗できないほどだったら?」
「何が言いたい? ……まあ良い、可能性の話ならしてやろう。これで上海租界には、約1万の兵力が揃う。装備も強化された。何かをしようとしたら、大陸の連中の分類での「路軍」要するに軍規模、最低でも三倍の大兵力が必要だ。何しろ連中は、ロクな装備を持っていない」
「うん」
「そして「路軍」なんて連中が上海に押しかけて来たとなれば、もはや小競り合いじゃない。最低でも紛争、事変だ。そうなれば、イギリスは香港やシンガポールから軍を持ってくる。アメリカもまた、フィリピンからボーイスカウトを送り込んでくるかもしれん。フランスも、インドシナの兵隊を持ってくるだろう」
「何年か前に、似たような事があったわね」
「そうだ。そして日本にも各国から強い要請が出るだろうし、万が一本格的な戦端が開かれたら、幣原外交なんて綺麗事は言ってられない。国内世論もあるから、陸軍を送り込むだろう。海軍もさらに艦隊と陸戦隊を送り込む。
通常ならそうなると考えるだろうから、馬鹿な事はしない。
少なくとも、上海租界が戦火に包まれる、なんて可能性は殆どない。これで満足か?」
「うん。説明ありがとう」
八神のおっちゃんの言葉は、恐らく正しい。
けど、今目の前を通り過ぎた艦隊といい、八神のおっちゃんの話といい、私の前世の歴史の事件、『第一次上海事変』とかぶる話ばかりだ。
けれども、騒動を起こし始めたのは誰かさんが手助けした共産党で、時期は半年違うし、こちらの世界ではまだ『満州事変』が起きていない。大陸情勢自体も、張作霖が中華民国政府で、蒋介石は軍閥の一つ。そして共産党は、全方位から叩かれて窮鼠猫を噛む状態と、こちらも全然違う。
ついでに言えば、満州の情勢も違ってきている。
そして日本艦隊を見送った私達の次の目的こそが、今後の上海情勢にも関わるであろう満州だった。
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主人公視点では全然歴史は動かしていませんが、主人公が上海に来た事で動きました。
舞台裏の方がよほど「狂詩曲」だったでしょう。
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古臭い巡洋艦:
日露戦争頃に活躍した「装甲巡洋艦」という1万トン前後の巡洋艦。練習艦や後方任務用として第二次世界大戦が終わるまで使用された。
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