194 「濱口首相遭難事件」

 1931年4月10日の夕方近く、濱口雄幸総理がテロで銃撃された。私の前世の歴史と5ヶ月のズレだけど、事件は起きてしまった。


 報告からすぐに原敬との会話を終え、お互いが席を立つ。

 けど私は、彼の去り際に言うべき事、いや釘を刺すべき事があった。

 そして少し気合が必要な話なので、足に力を入れてグッと原敬を見据える。



「原様、早速ですが、一つお願いをしても宜しいでしょうか」


「濱口君で何か?」


「私の夢の通りなら、濱口様は一命を取り止められますけれど、重症で政務は難しくなります」


「そんな事を私に教えて良いのかい?」


「はい。お話はその続きですので」


 そこで原敬が小さく頷くのを確認して続ける。


「夢の中での濱口様は、総理代理を立てられるも、負傷後も総理の座にありました。それを政友会の方は、総理なら議場に出てこいと強く求められます」


「で、真面目で向こう気の強い濱口君は無理をして議場に出て来て、それが祟って死ななくても良いのに死んでしまうわけか」


「少なくとも、ご無理をされたので寿命を大きく縮められたのは間違いないと思います」


「夢の中の話を俄かに信じがたいが、恩は恩だ。それは玲子さんに一つ返そう。ただし、そのお話通り事が動いたのなら、濱口君にツケてもらうけどね。……それで、もし私が断るなりしたら、玲子さんはどうするね?」


 少し凄みを滲ませつつ聞いて来た原敬は、確かに政界の魑魅魍魎のボスクラスだ。こっちは、手に汗を握るくらいじゃ済まない。

 けど、自身を鼓舞して口を開く。


「言い立てた方は、裏で糸を引いた方を含めて決して忘れません。加えて、病人を政争の具にする方など信じられませんので、鳳は元の鞘に戻らせて頂きます」


「そ、それは困る!」


 思わず本音が出た。勿論、原敬の。

 仮にとはいえ駆け引きをしていたのに、いきなりジョーカーを切って来るとは考えもしなかったんだろう。

 まあ、元の鞘とは鳳が民政党支持に戻るというのだから、大いに困る事だろう。でないとこっちが困る。


(政治家同士じゃないのよ、おじいちゃん。私が子供だって忘れてたんじゃ無い?)


「そんな人の悪い笑みを浮かべないで欲しい。だから、中身は全部大人だと勘違いしてしまう。……ハァ、分かった。私から釘を刺せるだけは刺す。それ以上は求めないで欲しい。それと、漏れた奴がいたら好きに料理してくれ。私の言葉を聞かない者を、かばう気は無いよ」


「ありがとうございます。では、私はこれで失礼させて頂きます」


「うん。……いや、鳳の総合研究所に行くんだろ。同行しても良いかな? うちのボンクラより、そっちで状況を聞く方が話が早い」


(えーっと、あそこってどこまで他人に見せて良いのかなあ)


 咄嗟に答えられず、報告を直接持って来た貪狼司令の方を見る。律儀に待ってくれていたので助かった。

 視界の隅で、私と目線のあった彼が頷くのが見える。


「原様、多少の制約を了承して頂きますが、構いませんでしょうか」


「勿論だ。他人の城で無理は言わないよ。それに、隣のビルにも一度行ってみたかった。丁度良い機会といった程度だよ。この点は、濱口君のお陰だな。それで?」


「現時点では、追加の報告は入っておりません」


「では、向かいましょう」




 そうして原敬を連れて、鳳ビルの中枢と言える鳳総合研究所の応接室の一つへとやってくる。

 先駆けを出していたので既に準備万端で、資料なども揃えられている。そしてそれをしている中に、リズとお芳ちゃんがいた。

 原敬が目を丸くしている。


「玲子さん以外にも子供がいるんだね。それに他所の方も」


「鳳は実力主義ですので、性別・年齢それに人種は問いません。なかなか相応しい人材が集まらないのが難点なんですけれど」


「なるほどね。そもそも玲子さんが仕切っているんだから、この程度当たり前と言う事か。うちも見習いたいものだな」


「そんな事御座いませんでしょう。それに今のは、半ば言い訳です。政府、軍、大財閥に有望な人材が優先して流れてしまうので、弱小の鳳は女子供で人手を補っているだけなんです。小鳥は羽ばたくのも大変です」


「ハッハッハッ。鳳が小鳥だったら、他の連中の大半は羽虫程度だな。それで、鳳凰が気にかけている獅子はどうなった?」


「ハッ。現状をご説明させていだきます」


 原敬に答えたのは、追加の資料を見ていた貪狼司令。

 そこから、奇妙な取り合わせのまま、濱口雄幸暗殺未遂の顛末を聞く事になった。

 事件の経緯自体は、私が前世の歴史として見た資料とよく似ていた。時間も移動先も違っていたけど、場所は東京駅。

 原敬の暗殺未遂事件以来首相の移動中は、ホーム立ち入り禁止だった。けど、濱口さんは私の警告を聞かずに史実通り「人々に迷惑をかけてはならない」として人を入れていたら、右翼の大馬鹿が「統帥権を弄び、緊縮財政で景気を悪化させた」と言う理由で銃撃。

 鳳の記者(ボディガード)も複数入れていたけど、半ばすれ違いざまの至近距離からの銃撃では対処のしようがないのも私の前世での歴史と同じ。


 のちの調査でも、犯人は基本的に単独犯で組織とか陰で操っていた人はおらず。武器を手にした狂犬なだけだった。

 ただし、銃撃された箇所は多分違っている。といっても、ほんの少しマシなだけで重傷なのは変わりなし。記者の存在などが犯人のプレッシャーになっていたのなら、無駄ではなかったのならと思いたい。

 そしてさらに幸いと言うべきか、そこからは私の前世の歴史の動きとは少し違っていた。


 直ちに手術を実施して一命を取り留めるも2日後に意識を回復し、病室で加藤高明、若槻礼次郎、幣原喜重郎らと短い話し合いがあった。

 内容を詳しく知るには、私は長生きして当人達の記録を見ないといけないだろうけど、結果はすぐに分かった。


 事件から4日後の1931年4月13日、濱口雄幸は長期入院を理由として総理を辞任。若槻礼次郎が首相を引き継いだ。

 恐らくだけど、加藤高明を加えた話し合い、もしくは説得がなければ、私の前世の歴史通りになったんじゃないだろうか。または、若槻礼次郎はこれが初総理となるのが、心理的ハードルを下げたのかもしれない。


(けど、1931年4月13日って皮肉ね。前世の歴史で濱口さんが総理を辞任した日じゃない)


 取り敢えず政友会が議会で無茶を言う可能性が消えたので、私はホッとしてそんな感想を持った。

 原敬との口約束も、お互い何もせずに済んだ。しかし原敬に何もしないわけにもいかないので、内密なお手紙をしたためた上で、東北地方への投資を少しばかり増やしておいた。

 それとお父様な祖父や時田にも、ドゲザモードで話して勝手に話を進めた事を謝った。

 けど、私としては全部安いものだ。濱口さんは襲われはしたけど一命は取り留め、その後第一線からは去るもすぐに亡くなるという事は無かったからだ。


 なお、濱口さんは私の前世の歴史通り放線菌症という病気に侵されたけど、紅龍先生が開発した抗生物質と、既にいくつか開発されていた派生型の抗生物質のお陰で、なんとか最悪の事態は避けたという話だった。

 紅龍先生の相変わらずの研究熱心さには、頭が下がるばかりだ。

 今度、とびっきりのスイーツでも届けておこうと思う。




 なお、「濱口首相遭難事件」と名付けられた事件の後、政府、議会では要人警護についての議論が俄かに持ち上がった。

 右翼、左翼(共産主義者、社会主義者)のうち、極端な思想の持ち主による危険性が高まっているというのが主な理由だ。けれども、当人達がターゲットになる可能性があるのでかなり切実だった。


 けど、この頃の日本で行える事と言えば、各種警察による取締りの強化、警察の武装強化、要人警護、要所警護の為の警官の増員あたりが一番の近道だろう。

 けれども、警察は内務省の管轄なので、内務省のこれ以上の権限強化を全ての省庁が嫌った。

 陸海軍は当然、他の省庁全部だ。陸軍は憲兵の権限などの強化を対案としてきたけど、それも他が認めたくはない。


 そこで議事堂、首相官邸など重要箇所の警備体制を強化した上で、重要箇所を警備する警官らには拳銃所持が認められる事になった。

 また、首相や一部の政府要職が移動する際には、武装した複数の警官が常に警護に付くようになる。

 SPとはいかないけど、これで多少はマシになるだろう。


 一方で、以前から鳳が水面下で政治家に根回ししていた民間警備組織を作る法案についても、内務省、陸海軍などほとんどが反対した。

 しかしこちらは献金などが効いたのか、非武装の警備員について、ようやく規制が緩和される事になった。ただし警備員が持てる装備は、21世紀のお巡りさんが持っている警棒や警杖程度。当然だけど、拳銃など以ての外。

 また、傭兵会社どころか、専門の警備会社の設立も認められなかった。あくまで、各企業の警備員止まりだ。イメージとしては、工場やビルの警備員程度だろう。

 それでも今までの日本では法律上は全く駄目だったので、これはこれで前進だ。政府組織の警備強化以上に大きな違いだろう。


 そして鳳グループでは、早速『警備員』を導入。

 私の発案で、防弾ベストのようなもの、刃物に強い布による警備服の導入を実施。服の色も、私にとってお馴染みの濃いめのブルー系にした。防刃ベストも合わせて導入した。鉄兜は辛うじてオーケーをもらったけど、緊急時以外は使用不可とのお達し。

 だからもう一つ、『盾』を導入した。

 防弾用ではなく暴徒鎮圧用という事で、実物を見せてちゃんとお伺いした上での導入なので、政府も取り敢えずは文句を言わなかった。

 だから、政府のお役人が話を聞いて思い描いた『盾』とは違っていた。そして私のイメージとも違っていた。


 私が最初に思いついたのは、20世紀後半の機動隊が持っていた金属製のやつだ。さすがにアクリルは存在しないから、昔の映画や映像で見た金属製だろうと思ったけど、この材料も意外に苦戦した。何しろお上から、全金属製却下のお達し。

 それ以前に鉄は重いから、機動隊が持つような大きな盾は作れない。軽くて一定の強度を持つとなると、木製でも大きくすると重くなる。

 アルミも金属だからもちろんダメ。そもそもこの時代の日本では、まだアルミニウムの精錬は本格化していない。川西飛行機での話で私もようやく知ったくらいで、慌てて精錬と採掘、輸入に手をつけ始めたところだ。


 アルミの事はともかく『盾』については、金属枠に薄めの板、さらになめした分厚い革張りという、どこかファンタジーチックなものが出来上がった。

 ただ兜と同様に、盾の方も緊急時以外は使用不可のお達し。何の為の防具なのだと、ため息しか出ない。

 

 それでも警備員の皆さん、鳳グループ各所に配置されたのだけれど、鳳を快く思わない人達、団体からは『鳳の兵隊』とか『鳳の犬』とか散々な言われようだった。

 少し癪だから、この時代の日本ではまだあまり一般的じゃない、警備犬の導入もしてやる事にした。当然、導入するのはジャーマンシェパード。日本では異常に高いワンちゃんだけど、これなら文句もないだろう。

 それにしても、日本に警備のおじさん、警備員さんが浸透するのは、まだまだ時間がかかりそうだ。



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濱口首相遭難事件:

1930年(昭和5年)11月14日、統帥権干犯問題を理由に右翼の活動員に至近距離から銃撃された。

一命は取り留めたが、腸の3分の1を摘出する重傷。とても政務を続けられる状態じゃないのに、野党(政友会)の求めで議会に登壇し、回復していない病状が悪化。

その後、総理を退陣し治療に専念するも、アクチノミコーゼ(放線菌症)で死去。


この世界は既に抗菌薬があるので、最悪の事態は避けられる可能性が高い。



アルミニウム:

日本で本格的な精錬工場が作られたのは1934年。

なお、機動隊の盾は、正確にはジュラルミン製。

そしてジュラルミンは1936年に、日本で発明される。



警備犬:

この時代に、軍用犬目的でジャーマンシェパードは日本にもいる。日本の警察犬は、戦争中に一部導入されたが本格化は戦後。

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