176 「旅立つ前の内緒話」

 1931年2月3日。覚えやすい日に私の曽祖父、鳳麒一郎は高みへと旅立っていった。

 医者の見立てより保ったと言えるし、最期は眠ったままの静かな旅立ちだった。


 正月から意識が無くなる1月の末頃まで、お父様な祖父を始めとして、曾お爺様が呼ばれた人が曾お爺様が話せる程度の体調の時に呼ばれていった。

 一族の蒼家、紅家も問わずだし、大人も子供も例外はなかった。跡目争いから外された玄二叔父さんや、実質的に幽閉状態に置かれていた私が名前でしか知らない叔母さんも呼ばれていた。

 一族以外にも、財閥の中核にいる人、政財界の特に曾お爺様がお呼ばれになった人など、2日か3日に数回、それぞれがごく短い時間だったけど、かなりの人数が旅立つ前の曾お爺様と面会した。


 そしてその多くで、私は曾お爺様の側に座っているように言い付かっていた。

 これは去年からするようになっていたけど、曾お爺様が「これは」という人物に私を紹介するためだった。

 そしてこれは、曾お爺様から私への人脈の引き継ぎの最後の仕上げだった。


 そうして会った人の中には、歴史上にその名を残している人もいれば、意外に思える人もいた。

 曾お爺様が長年作り上げた人脈の広さを伺わせるし、人脈、伝手、コネは、短期間で作れるものではなく長年積み重ねていった結果だと教えてくれていた。


 会った人達のほぼ全ては一廉(ひとかど)の人物だけあって、私を子供だと侮る人はいなかった。子供扱いする人はいなかった。

 初対面の人は流石に最初は面食らった場合もあったけど、曾お爺様の二言三言で状況を受け入れ、そして私との短い会話、場合によっては場所を移しての私との対話で全てを受け入れてくれた。


 そしてさらに、来客を待っている間などの時間で体調が良い時に、曾お爺様と色々な話をした。

 大抵は益体もない雑談。もう曾お爺様の思考力も衰えているので、具体的な話し、政治経済の話はほとんどなかった。

 それでも皆無ではなく、まるで以前よくしていた曾お爺様と私の勉強会のようですらあった。




「お客様が、お帰りになりました」


「……そうか。玲子の手を煩わせなかったか」


 そうした1月後半のある日、私の言葉に少し間を空けた曾お爺様の声は、ひたすら優しいだけだった。全てを成し遂げ、旅立つのを待つばかりの人の声だ。


「いいえ。私には、お気を強くお持ちなさいとだけ」


「……そうか。あれは、根は善人だからな。損得勘定抜きの時は、頼ると良い。あれはそういう奴だ」


 この状態でもなお、私へのアドバイスと人脈紹介を続けようとするのは、もう本能とか業とかそういった普通の思考や思慮を超えたところなのだろうと納得させられる。

 この人は、若い頃は辣腕経営者だったんだろうけど、記録通りなら日露戦争くらいからは本当に政治の世界の住人だったのだ、と。

 けど、もう言葉の全てを受け入れるより他ない。寸評や愚痴、皮肉を返す時間でもない。


(それよりも、この調子だと今日はお話は無しかな?)


 そう思いつつ「では失礼します」と言葉を続けると、「お待ちなさい」と思いの外強い声。

 だから横開きのガラス戸を閉める手を止め、静かに部屋の中へと入る。

 そこは曾お爺様がいつも使っている寝室。いつもと違っているのは、点滴と万が一の場合に備えての医療器具が部屋の隅に置かれている事。


 21世紀なら、確実に病院に押し込まれてしまっている曾お爺様の体調だろうけど、今は20世紀の昭和初期。家で最後を迎えるのが、まだ当たり前の時代だ。

 それでも金持ちだし財閥として大きな病院も運営しているので、部屋には色々な医療器具が置かれている。最近では、医者と看護婦も常駐状態だ。


「……少し話そう。いや、玲子に話さないといけない事がある」


「なんでしょうか。長いのでしたら、今日はお控えになった方が」


「いいや、多分今日を逃したら、話せずじまいになるだろう。それにだ、これで寿命が1日2日短くなっても、今更だ」


 そう言って、力は感じられないけどハハハッと笑う。

 要するに私個人への遺言という事なのだろう。だから私は、曾お爺様へとさらに近づいて、顔もグッと寄せる。

 一語一句聴き逃すまいと思ったからだ。

 そうすると、また軽く笑われた。


「そこまでするほどの話じゃないよ。それに遺言も今更だ。話半分で聞いてくれ」


「はい。それでお話って?」


「お前の高祖母、私の母、麟(りん)の事だ」


 そういうと、天井に向く目が少し遠くのものを見ているように思えた。


「まだ何か、お話が残っていたのですか?」


「うむ。母が幼い頃の私にだけ、こっそり話してくれたのだがな、母は未来からやって来たのだそうだ。それも魂だけな」


(私もそうなんじゃないかって話か)


 視線だけこちらに向ける曾お爺様の目も、そう言っているように思えた。


「だから、冥土の土産に教えてはくれまいかな。玲子の事を。多分だが、玲子が歩んで来た未来というものを」


「はい。けど、少し長くなるわよ」


「そうなのか?」


 少し茶目っ気を載せた声に、曾お爺様もの声も少し元気になる。


「はい。何しろ今の人生と合わせると、50年近く生きた事になるから」


「は、ハハハ、そりゃあ傑作だ。それで、どれくらい先からやって来た? 50年という事は、40年くらい先になるのか?」


「いいえ、21世紀。蒼一郎様と出会った関東大震災の時から、ほぼ100年先から来たのよ」


「そいつはすごい。それで、100年先の未来はどうなっている?」


 曾お爺様の声は、ますます面白がったものになり、心なしか顔の血色も良くなっている。

 それを見て、あまり興奮させすぎてもいけない気はしたけど、これが最後かもという気持ちが私に言葉を続けさせた。


「今より随分便利だけど、今と変わらないものも沢山あるわね。それに日本は、世界第3位の経済力を持つ大国として繁栄しているわ」


「そうか。そして玲子は、その未来の日本にする事を目指しているのか?」


「ううん。その前に、これから10年ほど先に凄く大きな戦争が起きて、道を間違えたら日本は滅びてしまうかもしれないの。それ以前に、私自身も鳳一族もね。それを少しでも何とかしたいだけ」


 この言葉を初めて誰かに告げた。けど、もう旅立つ曾お爺様にだから言えたのだと自分自身でも分かった。今言った言葉は、私が墓場まで、墓に入れないとしても、死ぬまで誰かに言うべき事じゃないと思っているからだ。

 曾お爺様が高祖母の秘密を話してくれたのとは、ある意味正反対だ。

 けど、だからだろう。何だか気兼ねなく話せる気がした。


「つまり玲子は、鳳の未来の人間という事か? 母は、自分は鳳とは縁もゆかりもない者だと言っていたが」


「私もご先祖様と同じ。縁もゆかりもないわね。それどころか、私が生きていた世界に、鳳一族はいなかったの。だから正確には、凄くよく似ているけど少し違う過去にやって来た、って事になるわね」


 そう言いつつ、近くにあったメモ帳に、前世で見た平行世界の図式を簡略化したものを書いて、曾お爺様の目の前に持っていく。昔、何かの作品でも見たような図式を。


「これはまた珍妙だな。だが、『夢見の巫女』としての話とは辻褄が合うわけか。これは、冥土の土産に面白い話を聞けた。

 しかしだ、縁もゆかりもないのに、鳳を救おうと言うのか? 自分だけではなく」


 言葉の後半は、今までの面白がる向きから一転して真剣なものだった。


「もう7年も一緒に生きてきたんだから、私は鳳の人間よ。それにね私、我儘だから全部じゃないと気が済まないの」


(そうだ。悪役たるもの、欲張りでないといけない。令嬢たるもの、我儘でないといけない。自分でも凹むほどヘタレる事は多いけど、一族だけは本当に何とかしたい)


 そんな気持ちも入った私の言葉に、曾お爺様は小さな笑みを浮かべる。


「……そうか。それは有難う」


「お礼を言われる事じゃないわよ。私の気持ちの問題だもの。だから、鳳は絶対に何とかしてみせる。私だけじゃ無理だろうけど、一族のみんなや時田達とね。ついでに日本も、鳳が潰れないくらいには何とかするつもり。

 麟(りん)様が鳳を導いたみたいに、私も頑張るわ。だから安心して」


「鳳をここまで大きくしたんだから、もう案じてはいないよ。それにな玲子、自分の為に時間を使いなさい。日本の命運まで気にするな。それは傲慢だよ」


(傲慢か。そりゃあ、ほんの少しであっても日本の歴史に手を付けようとか、傲慢くらいじゃないと言葉が足りないわよね。ただなぁ)


「そうかもね。けどね、色々と種を蒔いたり風呂敷を広げてきたから、そのケジメだけはつけるわ」


「そうだな、玩具は片付けないとな。玲子はまだ小さい」


 曾お爺様は、傲慢と言った辺りから気迫や気力のようなものが潮を引くように無くなってきていたけど、さらに記憶も混濁してきた。

 ここ最近よくある事なので焦ったりはしない。


 それに私は前世での記憶で、おじいちゃん、おばあちゃんと子どもの頃同居だったから、似たような別れを経験している。こんな経験が活かされるのも気持ちの良いものではないけれど、役には立っていた。


「うん。ちゃんと片付けるね。じゃあ、おやすみ」


「ああ、おやすみ。私も玲子と一緒に少し寝るとしよう。眠いから、子守唄を歌って、あげられないが……」


 ゆっくりと話し続けていたけど、そのまま眠ってしまった。

 念のため口元に手をやるけど、ちゃんと息はある。


 その後、布団の裾を整えて部屋を出て、別室で控えていた曾お爺様の執事の芳賀と医者に頷き、二人は曾お爺様の部屋の隣まで移動していく。

 曾お爺様の部屋に人がいる間、二人は離れて待機しているからだ。だから曾お爺様と私の秘密の会話を聞く事はない。それに小声同士だったから、部屋の側にでもいないと聞こえる事はまずないだろう。


 そして私の方は、同じ部屋で待機していたシズを伴い、離れを後にする。

 そしてその後、曾お爺様の鳳蒼一郎と私は、二人きりで話す事はなかった。この時の会話が、事実上の最後の秘密の会話であり、最後の授業となった。



 その後も曾お爺様はそれなりに目覚めたけど、命の炎が日に日に小さくなっていくのが誰の目にも明らかになった。

 だから1月の末日には、集まれるだけの一族や近しい人が鳳の本邸に滞在するようになった。


 そうして人々を集めた曾お爺様が最後に目覚めたのが、1月最後の日。色々悟ったのだろう、呼べる限りの人を部屋に代わる代わる入れていった。その際に言葉は殆ど無かったけど、麒一郎にだけ耳元に寄せて何かを言った。


 それを最後に目を覚まさなくなり、ペリー来航の頃に大陸で生まれ、幕末から明治、大正、昭和と跨いで生きた鳳蒼一郎は、静かに息を引き取った。

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