144 「29年後半の近況報告(3)」
大陸情勢は、張作霖の優位で当面固定化されたと日本では考えられたので、日本陸軍の中堅将校、若手将校を中心にして一部にあった「対支一撃論」の声が一旦小さくなったという話だった。
そして方向性としては、当面は満蒙の切り取りに一丸となって全力を傾けるというもの。
特に去年夏から秋の「中ソ紛争」でのソ連軍の戦闘力を見て、日本陸軍としては大陸よりソ連への備えと対応を強化するべきだと言う論が強まったのも、ソ連対策への傾注を陸軍全体に促した。
ちなみに「対支一撃論」とは、中華民国を一度殴りつけて大人しくさせ、出来るなら日本のコントロール下に置く事。これを「南進」とも呼ぶ。
それに対して「北進」は、満州へ全力を注いで対ソ戦備の強化をする事。私の前世の歴史での満州事変以後に対立が強まり、『皇道派』と『統制派』の対立につながる。
けど現状では、大陸中央が日本の意のままな張作霖優位でグダグダなので、取り敢えずではあるけど満蒙工作、対ソ連対策に力を入れると言う事になる。
「概ね了解。陸軍の中堅将校が割れなくて幸いね」
話を聞いた上での、それが私の答えだった。
何しろ私の前世の歴史では、そろそろ派閥が二つに割れる頃だ。なったら面倒が増えるから、マジでなって欲しくない。
けど、私のように別の歴史を知らない、目の前のトカゲ男の反応は薄い。
「そうですな。ですが陸軍の中堅将校の指導層は、永田鉄山が一歩後退、小畑敏四郎が頭半分出てきたという構図になります」
「何か問題?」
言葉は普通だが声に違和感があったので聞いてみると、ごく小さく目が動く。こういう時の仕草が、やっぱり爬虫類っぽい。
「問題はないと考えられますが、鳳としては龍也様と近い永田鉄山の一歩後退は小さくない打撃です」
「うちへの発注が減るから?」
「直接的にはそうなります。永田鉄山は「高度国防国家」の体制作りに熱心ですが、小畑の方は、まあ作戦馬鹿ですから」
「戦略家の方が都合が良いって事ね。来年春には永田さんとも親しいお兄、龍也叔父様も戻ってくるし、舎弟の西田税が皇道派に顔が効くから、巻き返していくんじゃない?」
「こうどう派? 何ですかな? 行動、講堂、公道? 皇(すめら)の道でしょうか?」
(アレ? まだこの名前は出てきてないのか。それに永田と小畑がまだ仲違いしてないって事だし、荒木や真崎を裏で操る小畑が明確に動かなかったら、そもそもちゃんと形にすらならない? その上西田税も陸軍将校のままで、お兄様の舎弟状態で私の前世の歴史より随分大人しいわよね)
うっかり、現時点での未来を語ってしまったので、すごく凝視されている。時田も少し説明が欲しそうな気配。気にしてないのは、控えているシズだけ。
「……皇の道で正解。未来の可能性。未来の言葉の一つよ。この名前が出て来たら、最大級に気をつけて」
「最大級、ですか。文字通りなら、陛下の行われる政治の道。察するに、陛下を中心とする軍政狙い。いや、そういう輩は、表向きは親政などとお題目を掲げて、実際は自分達の思い通りに操ろうというクソどもでしょうな。
中心人物は永田鉄山か小畑敏四郎で、その二人のどちらかもしくは両方が中心となると、現時点とは方向性の違う総力戦体制の構築となりましょう。……話が少しややこしそうですな」
ブツブツと言いつつ考え込んでいるが、貪狼司令が切れ者だというのを眼前で見せつけられた。殆ど正解の未来を、今までの少ない言葉からもう導き出してしまった。
「まあ、今は考えなくて良いから。それで、他には?」
「おっと、これは失礼を。と言っても、あとは来年度予算編成くらいでしょうか」
「予算? 緊縮とか止めてよね」
あえて冗談めかしたけど、蔵相が高橋是清な時点でそれはないとは思っている。それに今の所聞いている話では、その可能性はほぼあり得ない。だから軽口も叩けるというもの。
貪狼司令の表情も、私の読みを肯定している。
「むしろ逆に、不況対策で国債発行を増やせないか、蔵相と他の大臣たちが鍔迫り合いを始めています」
「アレ? 高橋蔵相は国債増やすの反対?」
「財源の裏付けがないようです」
容赦のない現実的なお答え。一年以上前の金解禁な上に平価切下げをしているので、金の流出自体は低調の筈だ。けど、アメリカによる金の吸い上げが、早くも響いてきているのかもしれない。
(ここは、泡銭の使いどころ? それとも来年にすべき?)
「どうされますか、玲子お嬢様」
静かに話を聞くだけだった時田が、静かに問いかけてきた。
私と同じ答えに到達しているのだ。だから私は短く問いかけるだけで良い。
「時田はどう思う?」
「現時点での情報だけでは何とも。せめて、田中様か高橋様と一度お話しをするべきかと」
「それって、今までは曾お爺様がしてくれていたのよね。お父様がされる事になるのかしら?」
言葉にしつつ、だんだん嫌な予感が頭を占めていく。
だから言葉を重ねるしかなかった。退路を見つける為に。
「ご当主様は軍人でいらっしゃいます。それに一族当主ですが、鳳グループとは一線を引いておられます」
「じゃあ善吉大叔父さん?」
「鳳グループの完全な代表となられるのは、この春の予定にございます。それに鳳の長子ではない善吉様では、鳳ホールディングスの資金しか動かせません」
「じゃあ、代理で時田が行くしかないのね」
「私は現時点では金庫番も兼ねておりますが、政府の著名な方と交渉事を行うわけには参りません。ましてや代理や名代では、相手方に大変失礼かと」
うん。退路は全部防がれた。
つまり答えは一つだ。しかし、と考えざるを得ない。
「えーっと、じゃあ私が動くしかないって? イヤイヤイヤ、幾ら何でも10歳手前の子供が、表立って動いちゃダメでしょ」
「私は、去年からは実質動かれていたと認識しておりましたが」
最後の足掻きも静かに押し返されてしまった。
こうなると両手を上げるしかない。
「降参。けど、時田も一緒よ」
「勿論お供させて頂きます」
そう言って一度起立してから恭しい一礼。
そんな一連の流れを、貪狼司令は目の前で半ば呆然、半ば興味深げに見るだけだ。
「そういう事だから、ちょっと日本政府にお金を差し上げてくるわ」
「……分かってはいたし報告は幾らでも見たが、こうして現実を前にすると喜劇を通り越しとりますな」
「私にとっては悲劇よ」
「確かに。察する事は出来ませんが、良いネタを期待しております」
「……もうちょっと言葉があるでしょうに」
そう言って膨れっ面で睨み返してやると、貪狼司令も起立して一礼しやがった。「仕え甲斐のある主人を持って、自分は果報者で御座いますれば」と。
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小畑 敏四郎 (おばた としろう):
皇道派の中心人物の一人。二・二六事件以後、陸軍からハブられる。
同じ陸軍士官学校16期生である岡村寧次、永田鉄山と共に陸軍三羽烏の一人とされている。
皇道派 (こうどうは):
天皇親政を目指すが、統制派からの派生と言える派閥。
皇道派青年将校が起こした二・二六事件以後に瓦解。というか、徹底的に潰される。
北一輝や西田税など、軍人以外も関わっている。
小畑敏四郎が裏ボスの一人。表は一応、荒木とか真崎とか。
統制派 (とうせいは):
中心人物だった永田鉄山を殺されて事実上瓦解。
最初は皇道派も含まれていたが、分裂後に有事の際の総力戦体制の構築に傾倒。「高度国防国家」の建設を目指した。
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