023 「何でも出来るわけじゃない」
1925年(大正14年)が明けた。
この年には、確か21世紀まで続く良く見知った企業の幾つかが創業されたりする。
世の中自体は、国内で「普通選挙法」と「治安維持法」がセットで制定され、海外ではイタリアがムッソリーニ独裁を宣言し、あのヒトラーが「我が闘争」を刊行したりと、なんだかきな臭い気配が早くも見え始めていたりもする。
一方では、日本国内でラジオ放送が始まり相撲や野球が中継され、雑誌「キング」が創刊されたりと、平和な話題にも事欠かない。
ツタンカーメンが発見されたのも確かこの年だ。
そうした私の前世、つまり史実と言って良い歴史には存在しない鳳一族と鳳財閥も、一見平和だ。
「世はなべて事もなし。結構結構」
「結構なものかっ!」
(なんで、春になったのに、また紅龍さん来てるかなぁ)
私の目の前で、やっぱりおやつのエクレアをまさに稲妻のような勢いでモリモリ食べながら、紅龍さんが吠えている。
もうすぐ5歳の誕生日だというのに、私に関わる男性はおっさんか年寄りばかり。
攻略対象達は例外だが、攻略対象だけにゲーム主人公が私達の目の前に登場するかどうかが分かるまで、色恋沙汰に持ち込む事も出来ない。
そして攻略対象以外に、今の所一番の若手はお兄様こと龍也叔父さんと、目の前の紅龍おじさんだ。
一番よく会うのは龍也叔父さんなのだが、攻略対象の龍一くん、私の一番の癒しの瑤子ちゃん、それに龍也叔父さんの奥さんの幸子(ゆきこ)さんがお兄様の家族だ。
この夫婦は、この時代に相応しくないほどのラブラブっぷりで、家族仲もすごく良い。
だが、お兄様の父、私にとっての大叔父に当たる龍次郎(りゅうじろう)が私の父の麒一(きいち)と同様に関東大震災で亡くなっているので、全てが順調という訳ではない。
財閥自体も、やり手の総帥だった龍次郎を失ったせいで混乱が続いている。
私が提案した株式投資は、一族直系長子の手によるほぼ極秘に行われているので関係がないが、いつかは資金補充や事業の合流させないとヤバい事になる筈だ。
だから『世はなべて事もなし』の筈はないのだが、今後の事を思うと今は平穏だ。
しかも私の前の紅龍さんは、今の所だが私に大いなる光をもたらしてくれている。見た目は悪役キャラだけど。
そして、私に対してではないが荒ぶっている。
「ペニシリンの論文って、まだ海外に送って間がないんでしょ?」
「そうだが。あれほどの大発見だぞ。帝大のクソどもが無視するのは予想範囲内だったが、大注目されて当然ではないかっ!」
「けど、フレミング博士は、好意的な記事を権威のある雑誌に書いて下さっていたんでしょう」
「うむ。さすが出来た御仁だ。ノーベル賞候補にと問われれば、喜んで共に受賞したいと思っている」
「いやいや、長年研究してきたのはフレミング博士だし、『偶然』発見した紅龍さんこそが添え物でしょう」
私がそう言うと少し嫌そうな顔をする。
そんな表情をしたいのは、むしろ私の方だ。罪悪感が半端ない。
「お前こそ、そんな顔をするな。それに今日は、またその手の話なのだろう?」
「ええ、そうよ。お暇になったとお聞きしたので」
気を取り直して、それなりのお嬢様モードになる。
と言ってもまだ5歳の手前。幼女が背伸びしているようにしか見えない。せめて雰囲気だけでも、大人と対等に見てもらいたいところだが、そうでないと罪悪感がさらに増しそうだ。
「次もノーベル賞級のものだったか? どんな菌だ?」
「菌は確定なの?」
「私の主な研究が細菌学だ。具現化するとなると、それしかあるまい?」
「化学も修めてらっしゃるんでしょう。でないと、単離とか簡単に出来ないでしょうし」
「まあな。ん? では次は科学の何かか? 治療法とかか?」
「次もお薬。これがレシピ。詳しい作り方は、研究してもらえる? あと・・・うろ覚えで申し訳ないけど、これが多分化学式よ」
「どれ・・・」
そう言って、口元についたクリームを指で拭って舐め、さらに白衣でその指を拭いてから、その紙面を取る。
(うん。私、その紙、二度と手に取らないから。イケメンなのに、勿体無い。モテないわけよね)
頭脳と行動力はともかく、紅龍さんはどこか残念キャラだ。
しかし紙面を覗く表情は徐々に真剣さを増していく。
「玲子、本当にこれでこの薬が作れるのか?」
「うん、その筈よ(私にとっての元ネタの一部は聖典(漫画)だけど)」
「ふむ。まあ材料集めは問題ないな」
「調合方法は?」
「化学式が正しいのなら、材料と合わせて考えれば、だいたいの見当は付く。その気になれば、小さな実験施設で作れる程度のものだな。量産となると、流石に相応のものが必要だろうが」
「さっすが紅龍叔父様」
「褒めても何もでんぞ。だが作るだけなら、すぐに出来る。問題はこれで正しいかどうかの動物実験と治験だな」
「本当に簡単に出来るのね」
「これだけ材料と作り方、それに化学式が書いてあれば当然だ。それで、これはお前の見た未来のいつ頃発明される?」
そう言って専門家の目から、少し淀んだ感じの目に変わる。多少は罪悪感を感じているのだろう。
だから私は淡々と話すことにした。
「1935年。いや、発見自体は32年ね。1939年にノーベル生理学・医学賞を取っているわ。あとは知らぬが花よ」
「発見から受賞が短いな。それだけ素晴らしい薬という事か」
「そうね。肺炎とかいろんな感染症にも効果があると思うから、普及すれば老人や乳幼児の死亡率も大幅に下げられる筈よ」
「それは、是非に成功させたいな」
「ホントそう思う。じゃあお願いね」
「頼まれるまでもない。というより、教えろと言ったのは私だからな。その眼でしかと成果を見届けるがいい!」
妙なポーズ付きのドヤ顔。世が世なら厨二病確定だったろう。しかし、その表情や驚き具合から見るに今回は余裕がありそうだ。
だから言葉を続けることにした。
「そっちはお願いしますね。それで次の話なだけど」
「まだあるのか? 流石に次にしてくれんか」
すぐに八の字眉気味の困り顔になる。自分の限界は一応弁えているらしい。
「大丈夫、話を広めて欲しいだけだから。それに、早めの方が良いと思うし」
「広める? 医学知識か何かか?」
身を乗り出し興味深げに聞いてくる。
「そう。細菌に関してなんだけど、これは本当に未来予測になるわね」
「現時点で見つけたり作り出せないという事か? 察するに、細菌より微細な病原体というやつだな」
「さっすがよくご存知」
「知らいでか、と言いたいところだが、存在すると分かっても見ることが叶わないのでは、徒手空拳で戦うに等しい。もしかして、そういう装置を作れとか言わんだろうな? いかに私が天才でも、出来る事と出来ない事があるぞ」
なぜかそこで胸を張る。
まあ、何でも出来ると虚言を言わないだけマシだが、逆に自慢されても困るというものだ。
思わず苦笑が漏れてしまう。
「出来たら一番だけどね。その機械を電子顕微鏡って言うの。あと10年ほどしたらアメリカで発明されるわ。それが広まれば、色々と発見されるようになるわよ」
「電子顕微鏡? 光学顕微鏡とは違うものか。原理は文字通り電子で見るという事か?」
腕を組み考え込むが。すぐに答えに近いところに考えが及ぶのは、身近なものだからか、それともこの人が天才だからか、恐らくその両方だろう。
私は感心しつつも言葉を続ける。
「そんなところ。私には構造とか作り方はさっぱりよ。ともかく、それでないと細菌より小さい病原体は殆ど見えないの。頑張れば、今でも病原体の単離は出来るかもだけど」
「それは仕方ないだろうな。で、なぜそんな話をする?」
「抗生物質は、その小さすぎる病原体には効かないから。だから風邪とかインフルエンザに効いたと思っても、それは合併症の何かに効いただけで病原体自体には全然効いてないって話」
「なるほど。当然と言えば当然の話だが、意外に盲点でもあるな。それは聞いておいた方がお得な話だ。それにしても、見えない病原体か。10年後が楽しみだな」
ひとしきり腕を組んで納得したあと、ニヤリと笑う。
こちらが無理と言った事は問うてきたりしない点は、合理主義的で助かる。
しかし目に見える成果を前にすると、贅沢な気持ちも起きてくるし、できれば何とかしたいとも思う。
「楽しんでばかりでもないわよ。今もそういう病原体と戦っている人だっているんでしょ?」
「そうだったな。そういえば、野口博士が黄熱病のワクチンを開発していたんじゃなかったかな?」
(出ましたネームド(=歴史上の人物)。1000円札の人)
内心驚いている場合ではない。そう、今はまだ野口英世は存命な時間だ。
けど、私には野口英世に関する知識は少ない。悪役令嬢のチート頭脳が私の前世の記憶から拾い上げた知識でも、子供の頃に子供用の伝記を読んだ知識くらいだ。
必死に思い出そうとするが、ない袖は振れない。
こんな時、よくあるお気楽小説のように、異世界でもインターネット検索のような事が出来る能力が欲しくなる。
「どうした? 何を深刻に考えている?」
「えっ、ああ、その、確か黄熱病のワクチンは、野口博士じゃない人が見つける筈なんだけど」
「歯切れが悪いな。未来を見たのではないのか?」
「何でも見れるわけじゃないの。それに、見た全部をこの場で思い出せたりするわけないでしょっ!」
思わず口調が荒くなるのを自覚する。
本当にもどかしい。
「怒るな。しかし「夢見」も万能ではないのだな。だが、むしろ安心した。未来の全てが見通せるなら、世界征服すら出来てしまいかねないからな」
「そんなもん、出来てもする気ないわよ。私は出来るなら、少しでも私自身が気持ち良く暮らしたいだけよ」
「それで私に肩入れか。確かに人助けは気持ち良いからな。だが、一応医者として言っておくが、そんな簡単なものでも、気楽なものでもないぞ」
「う、うん。分かっているつもり。多分」
「まあ、そういう経験などは、年とともに積み重ねるものだ。まだ幼女のお前が深く悩むような事ではない。気にするなとは言わんが、考えすぎるな」
「あ、ありがと」
「おお。だが、黄熱病の件は私も気になるな。野口博士が無茶をされないよう、北里先生に今日の話共々相談しておこう」
「うん。お願い」
「オオっ。頼まれるまでもないわ!」
ちょっと恥ずかしがっているが、いまひとつ可愛げはない。
それよりも、中身が実はアラフォーがアラサーぼっち男子に慰められてしまった。
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新しい薬
サルファ薬 (サルファやく)
化学物質を合成してつくられた、細菌を死滅させる作用がある合成抗菌剤のひとつ。
生物由来ではないため、抗生物質とは呼ばれない。サルファ剤とも呼ばれる。
ドイツのゲルハルト・ドーマクが発見。1939年のノーベル医学賞を受賞した。
ウイルス
生きている宿主の細胞内で繁殖する小さな病原体。感染すると、宿主細胞は、元のウイルスの何千もの同一のコピーを迅速に生成することを余儀なくされる。
ほとんどの生物とは異なり、ウイルスは分裂する細胞がなく、感染した宿主細胞で新しいウイルスが組み立てられる。
細菌よりはるかに小さい。
野口英世
わざわざ補足するまでもないだろう。
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