第55話 インサイドゲーム
約一時間後、俺達はたこ焼きを頬張りながら酒を飲み進める。初っ端から罰を紛れ込ませるのもどうかということで、まずは普通に食事を楽しむことになった。
酒の力なのか、意外にも話は弾んだ。学生時代の思い出を交換したり、刑事につきまとうあるある話で大いに盛り上がった。
自然にワサビのチューブを飲み干した空き缶で隠していたつもりだったが、その防壁は気付きの声を上げた藤波によって崩されてしまう。
このまま終わってくれたらよかった。
「やっべぇ!これじゃあただのたこ焼きパーティーだよ!」
「マジで入れるのか...?ワサビ...」
「当たり前でしょ~?これやっとかないと面白くないじゃん!」
「ちょっ、ちょっとでいいよ?ちょっとで...!あぁッ!!」
容赦なく生地の一つにワサビが流し込まれる。チューブが握り潰さん勢いで絞られ、みるみるうちにグリーンの
慌てふためく俺をよそに藤波は大笑いしながらどんどん注ぐ。もういいやと手を止めた頃には既に致死量まで入れられてしまった。
緊張を誤魔化すためにもう一口ビールを挟み、焼き上がるのを待つ。凄まじい緊張感が襲ってくる。焼き目がつくまでにこれまでの数倍も時間がかかったように感じた。
「よっしゃ!こんくらいでいいでしょ~。」
無駄に焼くのが上手い。竹串で引き上げられた全てが揃って綺麗な球形をしている。ワサビ入りのハズレでさえ遜色なく紛れている。
例のロシアンたこ焼きは、互いに目を瞑りたこ焼きをシャッフルし交互に一つずつ食べていくという即興のルールになった。先手はじゃんけんの結果藤波から、数は10個である。
藤波は竹串を手に取り、「いただきます」も無しに一つ目を口にした。まずはセーフ。
続いて俺の番。緊張により手が震えるがまだまだ開始直後、流石に当たらないはずだ。
意を決して、刺した一つを口に放り込む。しかし何度噛んでも辛みがやって来ない。セーフだった。
それにしてもなぜ、まったく味がしないんだ。ソースもマヨネーズもかかっているのに。この張り詰めた精神がそうさせるのか。
舌の根も乾かぬうちに藤波が次を食う。そっちから誘ったくせに盛り上がりもへったくれもないハイペース、こっちは命がけなんだぞ。
なんとか飲み込み、急かす藤波を無視して自分のタイミングで次を食べる。またセーフ。
焼きたての熱さなんて気にしていられない。多分もう何処かしらを火傷しているのだろうが、不思議なことに痛みがない。
そして、流れる冷や汗を拭き取りながら食べ進めていき、手番を重ねる度に延びていくターン(俺)を経て残り三個のところまで来た。
確率は1/3。ここを勝てば、1/2を向こうにプレッシャーとして押し付けられる、かも。
竹串を取り落としそうになりながら、気休めのように皿の上のたこ焼きを回し見る。緑が透けていないか、重さが偏っていないか。
意味がないことはわかっている。結局は勘で決めるのに、時間稼ぎが止められない。なにより手が震えてしまって感覚に頼ることができない。
飲み干した缶を握り潰し、俺は選んだ手前の一つを口に運んだ。祈りながら咀嚼する。生地かワサビか判断のつかない食感を歯で磨り潰すと、すぐに答えは表れた。
「アァァァァアアアアッ!!!ゲホォッ、ウェッホッ!!」
「みッ、水早く...ッ!!ァガァッァアア!!笑ってねェでとっととッ、うがァァアア!!」
電流でも流し込まれたかのような激痛が口内を奔り、今まで経験したことのない規模の、ワサビ特有のツーンという痛みが鼻をつんざく。
今すぐ吐き出したかったが、火事場の馬鹿力というやつだろうか。「人ん家でそんな真似はできない」というような妙な冷静さが働いてしまいすぐに取り除くことができなかった。
抱腹する藤波がビニール袋を持ってきてくれた頃には、ひとりでに溢れる大量の涙が顔をグシャグシャにしていた。
脂の乗ってきた中堅の
だから嫌だったんだ。訳のわからないことを叫び散らしてビニール袋にありとあらゆる顔から出る類いの液体をぶちまけるこの姿は、間違いなく人生最大の醜態である。
それにしても痛い。痛すぎる。もう一生味わいたくない。百万貰ったとしても絶対無理。
こんなにも一瞬で酔いが吹き飛ぶとは思わなかった。三日くらい寝込みたい。
しばらく苦しんでいると痛みが治まってきた。どうやらピークは過ぎたらしいが、鼻の奥にこびりついた不快感が拭えない。火照りは消え去ったのに酩酊する気持ち悪さだけが鮮明に残っている。
洗面所を借り、顔を洗うことにした。流れ出る冷水を掬って頬に打ち付けると、少しはマシになったような気がしてくる。
思考回路を痛覚に上書きされ、呼吸が落ち着くまで俺は洗面台に突っ伏していた。溜まった水面に白色電灯が蒼白の顔面を映し出す。
顔に残っている水滴を袖で拭い落として、俺は居間へ戻る。そこには笑い疲れたのか、絨毯の上に寝転がって爆睡中の藤波がいた。
とことん面倒事ばかり増やしやがって。風邪でも引かれたら目覚めが悪い。ベッドの置かれた寝室を見つけてから、丁寧に腕を回して藤波の身体を抱き上げる。
活発になった代謝のおかげで身体が熱い。酒臭い寝息を立てる藤波をベッドに寝かそうとしたその時、なにやらむにゃむにゃと言いながら俺は首に腕を回される。
「...起きたか?立てるなら一人で...」
「...だめ......したい。」
「俺はソファー借りさせて貰う....帰ろうとしてもどうせ止めるんだろ?悪く思うな...」
俺の言葉を遮ったのは、藤波の唇だった。息をつかせぬ間に舌が入り込んで、理性の壁に順調にヒビを入れていく。
思わず身体を落としそうになるのを必死にこらえた。ぷはっ、と息を吸い込んで、藤波は口の端に伸びた涎の糸を愛おしそうに指の腹で撫でた。
刹那的で貪欲な衝動を表すのは、紅潮した頬。誰のせいでもなく、酒のせいだ。
そう言い聞かせるしかなかった。その形も気にせず、差し出された愛にいとも容易く縋り。
自ら立てた誓いも紙切れのように破り捨て、自分を騙し偽って。より居心地の悪いところへと自分の心を堕としていく逃避の常套手段。
俺の本能はたった今、奈落を望んでしまった。
生まれ持った
目の前の女は俺の葛藤など意に介さず、獣欲を受け入れようと両腕を広げて笑う。二人恥をかくくらいならば、俺だけが俺に上塗りをすればいいだけのこと。
どちらに逃げたとしても、どうせ後悔は積もっていくのだから。俺は彼女の肩に触れ、その身体をそっとベッドに沈ませる。
熱病の夜、ランプの淡いオレンジ色に照らされた影絵が、互い響く嬌声を、汗を、悲哀を背にした欲と宵を絡み合わせて踊り狂った。
..........
二日酔いの頭痛で目を覚ます。いつ意識を落っことしたのか思い出せない。
しかしながら昨夜の出来事だけを明瞭に思い出せてしまう自分の脳ミソを心底恨んだ。
隣で眠る肌着姿の藤波を起こさないようにベッドから這い出るように下り、俺は洗面所へ向かった。
ベタついた顔を洗い流し、自らが犯した二度目の罪により込み上げる胃酸を抑え込む。数時間前に繰り広げられたサイコーで最悪な光景が脳裏に焼き付き、それを頭に浮かべるだけでえずいて止まない。
また、やってしまった。今すぐ彼女らに謝ろうと考えようにも、ここからじゃ遠すぎるだなんていう怠惰を極めた理由が頭痛を引っ提げて俺の足を関節が外れるまで引っ張りやがる。
子供の頃には使い切った一生のお願いを、まさかまた欲することになろうとは。向こうも記憶を飛ばしてくれているとありがたいんだが。
いや、そもそもその思考がクソッタレだってんだよ俺。戻って顔を合わせたら謝ろう。「おはよう」を差し引いてでも、まずは兎にも角にも頭を下げなくてはならない。
人として、男としてだ。俺はもう悔いることにとっくに慣れている。
外面がよくても心の中では死ねやくたばれやと誰にだってベロを出す。そんな人間と俺はなんら変わりようがない。
それでも、上っ面の謝罪だとしても、まずは声と態度に出さなければ意味がないと思った。
重たい足取りで居間へと歩を進める。踏み締められたフローリングの軋む音色が恐怖にひきつったこの情けない背筋を撫でるせいで、何倍も大きく聞こえた。
アルコールがぼやけさせた仮初めの蜜月、それが生まれた諸悪の根源たる、ビールの空き缶が散乱する居間で。起きてきた寝ぼけ眼の藤波と目が合ってしまった。
永遠にも感じられた数秒の後。
「「....ごめんッ!!」」
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