揺れぬ蜉蝣
キズキ七星
プロローグ
「結局、僕らは駄目なんだ」
僕は彼女に向けてそう言い放った。
真っ白な世界の中で、僕と彼女は絶え間なく降り続く雪に刺されていた。
これでいい。これが正解なのだと。
彼女と僕の胸のあたりには僕らの知らなかった色が塗られている。僕はまだその色を知らないフリをしたい。そんなことは僕には
僕らは生まれたての小鹿のようによろめきながら真っ白な世界を歩いていく。この先に僕らが思い描いた未来がないにしても、僕らは歩き続けなければいけない。そうしないと、彼女は僕の元から去っていくだろう。
幾つもの思考を一つにまとめることなんて今の僕には出来るはずも無かった。
今、僕らは橋の上を歩いているようだ。片側一車線の道路の両側に作られた歩道の左側を僕らは歩いている。
豪雪で視界が悪いので、辺りの景色がどんなものなのかは分からなかった。しかし確かに、下には大きくも小さくもない川が流れていて、水上でさえ雪が積もっているのではないかと錯覚させた。
彼女は何故か
しかし僕はそんな彼女が誇らしく思えた。まっすぐ前だけを見つめている彼女の横顔を見つめながら、僕には何が出来るだろうと考えることにする。いや、僕に出来ることなんて僅かな事しかない。そんな無力な男ならば、彼女を支えることだけに集中していれば良い。
僕は彼女の足元に注意しながら、知らない色を知りながら、前に進んでいく。
景色は白に犯されている。既に日付を過ぎる頃であるけれど、僕らの世界には白しか無かった。
どれくらい歩いただろうか。足の感覚が残っていない。足だけじゃなく、手先も鼻の先も凍える風に支配されてしまっていた。
もう何時間歩いたか分からない。意識はどこかに置いてきてしまったようではっきりしない。視界もなんだか霞んできている。コンタクトレンズが外れたのか、ズレているのか、はたまた地獄の様に寒い中を歩いてきたために目がおかしくなっているのか。そんなことは僕にはわかりかねなかった。
上空から石を落とされた車のフロントガラスの大きなヒビの様になった僕の足は、終わりを告げたがっていた。しばらく自分の足に言い聞かせている。彼女の為にならない足なんてものは今すぐに切り落としてやる、と。そんなことは蛇足であると分かり切っていることだったが、今の僕にはそんな事しか出来ることがなかった。
午前二時。
既に世界は眠りについているが、数十メートル先に光が見える。二十四時間営業のファミレスだ。眩く黄色に光る看板を目指していると、ふと光に続いているこの道が本当に存在しているのか、という不思議な感覚に陥った。一度そんな気がしてしまうともはや自分が存在しているのかどうかも怪しくなってくる。
曖昧な存在となった僕の横で、彼女は眉間に皺を寄せていた。
「あそこのファミレスで暖まらない?」
僕の提案に、彼女の耳がピクッと反応した。
「そうしよっか」
扉を引くと、いらっしゃいませーという声が聞こえてくる。思ったより重い扉に腰がずきんと痛んだ。
黒のベースに茶色のストライプ柄のエプロンを身に纏い、白色の帽子から少し前髪を覗かせているお姉さんが出迎えてくれた。二名様ですかと聞かれる前に、お姉さんに向かってピースサインをして見せた。お姉さんは少し微笑んでから、こちらですと言った。
席に案内され、二人くらい座れるソファに腰掛けると、想像以上に沈み、思わずオッと声が出てしまった。こんなにも座り心地の良いソファが設置されているファミレスは初めてで、ここなら何時間でも居れるな、なんてことを思った。
彼女は特に何の反応も示さなかったし、僕の漏れた声にも反応する素振りはない。すぐにメニューに手を伸ばし、一ページめくったところのハンバーグに目を取られていた。
〈堂本〉と書かれた名札を右胸にぶら下げているお姉さんが、お盆に水とおしぼりを乗せて、どうぞ、とテーブルに置いてくれた。右尻のポケットからハンディを取り出し、ケースを開け、それから彼女の方を向いた。
「ご注文はお決まりですか」
「あ、いや、まだです」
僕は彼女の方を見た。
「決まってない」
お決まりになりましたらそちらのベルでお呼びください、と言ってからお姉さんはキッチンへ戻って行った。
大学四年生くらいだろうか。端生な顔立ちに、足はスラッとしている。明らかに自分より歳上に見える堂本が、もし歳下であった場合、この世の女性は恐ろしいな、と恐怖を覚え、さらにはその恐怖のせいか、鳥肌が立ってしまい、トイレに行きたくなってしまった。
キッチンの奥には、スキンヘッドの店長らしきおじさんがいた。堂本がカウンターにお盆を雑に置き、おじさんと何かを話している。それにしても、二人の距離は店長と店員の距離にしては近く、とても親しげな雰囲気を出していた。
「あのお姉さん、綺麗な足をしてるね」
僕はメニューをじっと見つめている彼女に声をかけた。
「うるさい」
彼女は機嫌が悪そうに答える。
「え、でも見た? モデルさんみたいな顔をしていたよ」
「ジーザス」
それ使い方合っているのかと思ったが、彼女に言うのはやめておいた。
ジーザス、とはどんな時に使うのだろう。洋画でよく耳にするが、どんな場面で言っていただろう。僕は、最近観た洋画で、ジーザスが使われていた場面を思い出してみた。
確か、敵の集団に武器を全て奪われ、一網打尽にされてしまった主人公たちのグループが悔しがる、といったような場面だったか。そこで、グループの一人、髪が長く髭の生えた、主要キャラクターの一人が、ジーザスと言っていたような気がする。ということは、悔しいことを表す言葉なのだろうか。
頭がモヤモヤして、知りたい欲が漏れに漏れてしまい、スマホを取り出してネットで検索してみる。そこには、〈おお神よ、ありがとう〉やら、〈なんてこった!〉などと記してあり、さらに、〈もうダメだ〉とも書かれていた。
その意味が本当ならば、いや、おそらく信憑性の高い情報だから、彼女の使い方は正解だったということになる。言わなくて良かった。
悶々と一人で考えていると、急に尿意を思い出し、トイレ行ってくると彼女に伝えてから席を立った。僕等以外に客のいないがらんとした店内にはジャズが流れている。
トイレの手前で何気なくキッチンの方へ目をやった。キッチンの奥、客席からは見えないところで、店長らしきおじさんがお姉さんと向かい合って腰を打ち付けている。おじさんはズボンを足首の位置まで下ろし、お姉さんはスカートをたくし上げてキッチンに座っている。二人とも険しい顔をしていた。
ひっそりとトイレを済ませる。そっと扉を開け、キッチンを覗いてみたが、二人は業務に戻っていた。店長は、何食わぬ顔でハンバーグをこねており、堂本はレシートのようなものを眺めていた。
店長、と僕は思った。その手は念入りに洗ったのだろうか。
彼女はもうメニューを見ていなかった。
「決めたの?」
「とっくに」
「そっか。何にしたの?」
「ハンバーグ」
「ソースは?」
「デミグラスソース」
正直、
ベルを鳴らす。少しの沈黙の後に、ただいまお伺いしますーという声が奥の方から聞こえてきた。
お姉さんがハンディを構えて笑顔でやってきた。少し息が切れている。おじさんとのそれは激しいのだろうか。しかし、そんなことを尋ねることなんて出来るはずも無い。さっさと注文してしまおう。
「気持ちよかったですか?」
時間が止まった、ように感じた。まるで世界の全ての物事や人々が一瞬にして消えてしまったようだった。シーン、という無音だけが音を響かせていた。
僕のこの言葉には目の前の彼女も立っているお姉さんも、何より自分自身が驚いた。
「え?」
お姉さんは戸惑っている。彼女は、何言ってんのとでも言いたげな顔をしている。
「あ、いや、なんでも無いです。えっと、名札って普通左胸に付けるものじゃないんですか?」
お姉さんはまた戸惑った。
「ハンバーグ一つお願いします。デミグラスソースで」
変な空気に耐えられなかったのか、彼女が大きな声で注文をした。それから僕の目を見る。早く注文を済ませろと訴えている。
「すみません、えっと、ペペロンチーノ一つください」
お姉さんは冷や汗をかきながら、かしこまりましたと言ってそそくさと去っていった。僕はその後ろ姿を見つめながら、先程の光景を思い返した。恋人なのだろうか、いやでもそうは見えない。勝手に決めつけては彼らに失礼だとは思ったが、不倫だという結論に至った。
「さっきの質問ってどういう意味?」
怖い顔で訪ねてきた彼女に僕は先程の出来事を話した。彼女は一瞬驚いた顔をしてから大袈裟に笑ってみせた。がははは。
「それは面白いところを目撃したね、君」
「その君って呼び方嫌だな」
「前みたいに名前で呼んであげようか?」
「なんで名前じゃなくて、君にしたの?」
「ダメなんですか?」
「いや、別にいいですけど」
「ならいいじゃん」
「うーん。あのさ、君って呼ぶ人って、なんだか上から目線だと思われるんじゃない? 僕はどっちでもいいけれど、気にしない?」
彼女は、うーんと唸った。
「気にしないかなあ。まあ、何かを言われたことがない訳ではないけれど、私に言わせれば? そんなの? 言わせとけばいいかなって」
彼女は恰もこの世界の王様かのように、フンとしたり顔をした。その顔がどことなく面白くて思わず笑ってしまった。何笑ってんのと怒る彼女を横目に窓の外へ目をやる。初雪は未だ降り続いている。しかし、どの街灯もその雪を切り取ってはいなかった。
窓の外は雪。そんな美しい光景を見るのは何回目だろうか。
彼女は、小さな口を限りなく大きく開いてハンバーグを頬張っている。もぐもぐ。リスみたいに伸びた頬がやけに可愛く見えて仕方がない。チラッと僕の方を見たが、すぐにハンバーグに視線を落とす。
僕もペペロンチーノに手を伸ばす。鷹の爪がふんだんに使用されている。ここは良い店だな、と勝手ながらに思った。鷹の爪をケチる店は悪い店だ、と言う僕なりのポリシーがある。それをポリシーと言って良いのかどうかの真偽は僕には分からないけれど、そんなものは僕に決めさせて欲しいところである。
「ソース、付いてるよ」
彼女は恥ずかしそうな顔をする。パーカーの袖で口を拭おうとするので、待つように言ってからティッシュを渡す。
ありがとう、とはにかむ彼女を見て僕の心は針を進めた。
「そんなに見ないでよ。食べにくい」
「ごめんごめん。それよりも、そのポテト一つくれない?」
彼女は、良いよと言って僕の皿にポテトを二つ乗せてくれた。
「水のおかわり取ってくるけど、いる?」
「結は大丈夫。欲しい時に自分で取ってくるよ」
ドリンクバーに足を運ぶと、堂本と目が合った。何だか気まずい空気が流れる。僕は思わず目を逸らしてしまい、失礼なことをしたかなと後になって気になった。
「あの、気にしないで下さい。僕は気にしてませんから」
堂本は少し困った顔をして、はいと言った。
僕が席に戻ろうとすると、あの、と後ろから声がした。
「さっきの、店長から誘って来たんです。それで、私は流されてしまって」
僕は黙って聞いていた。言い訳にしか聞こえない彼女の言い分を。
「あの、そういう流れに負けない人っているんでしょうか?」
「え?」
「いや、えっと、淫らな関係に陥ってしまうと分かっていても、そういう誘惑に流されない人っているのかなって」
「えっと、それは僕が答えを出してしまっても良いのでしょうか?」
「どういうことですか」
「その質問に僕が答えることは簡単なことですけど、もし僕の答えがあなたの考えと合致しなかったら、あなたはまた負けてしまうのではないですか?」
堂本はよく分からないといった顔をした。
「でも、お願いしたいです」
「じゃあ答えます」
僕は大きく息を吸ってから、ゆっくりと、彼女を責めないように言葉を続ける。
「そういった流れは、負けても良いと思うんです。でも、その選択のせいでこれから傷つくことになっても、それはあなたの責任です。あなたの事情は僕には分かりようもないですが、あなたが選んだ道なら誰にもとやかく言う資格はないです。周りの言葉なんか気にしないで、自分の道を進めば良いと思いますよ。だって、あなたの人生なんですから。要は気にすんなってことです。そりゃあ、周りの人に迷惑をかけたらいけないとは思います。でも、あなたが負けた誘惑で、あなたの周りの人には迷惑はかかることは滅多にないと思います。人生に正解なんて無い、と僕は思っています。これが僕の第二のポリシーです」
堂本はキョトンとしていた。僕は続ける。
「流れに負けながら、人間は生きていくんじゃないでしょうか。僕はまだ二十年近くしか生きていませんし、お姉さんよりも年下だと思いますけど、流れに負けてばかりです。でも、これが自分なんだと思っています。まあ、仕事場でするのはどうかと思いますけど」
「私の人生、ですよね」
「はい。意思を持ってる人も良いと思いますけど、流れに身を任せたら知らない場所やモノに出逢えるんじゃないかと思います」
堂本は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。可愛らしい顔が
泣かないでくれ。弱い者同士、頑張ろうよ。
ポテトを二つくれた人は、もうハンバーグを食べ終わっていた。
「そういえばさ」
「ん?」
彼女は、残ったデミグラスソースをかき集めている。
「前にさ、昔好きだった人と僕が似てるって言ってたよね」
「あー、そんなこと言ったっけ」
彼女はとぼけ、僕と目線を合わせないまま、ストローを咥えている。
「どこが似てるの?」
彼女は「んー」と、数秒考えた。
「言わなくていい事を、悪気なく言っちゃうとこ」
「あー、あとは、一人称が[僕]ってところ」
「それが、彼?」
降ろしていた長い髪の毛は、馬の尻尾のように束ねられている。
僕らの恋も、そんな風に簡単に
サイレンの音が聞こえる。真っ白な夜の中、花火のような赤いパトランプの光は罪に揺らぐ者たちを覆うように光り輝いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます