第五話 冷製人形 2

「――んで、それだけ? その鈴峰とかいう三年の女子が怪しい理由ってのは」


 放課後の宿直室。秀彰の話を聞き終えた真田は例の簡易炬燵に突っ伏したまま、気怠げな声を上げた。普段の壇上ではキチリと後ろ結びに束ねている長髪も、今は解けてボサボサと撒き散らすかのように炬燵机の上を侵食していて、だらしないこと極まりない。


「それだけですけど、何となく嫌な予感がするんですよ」

「『何となく』に『予感』ねぇ」


 ずりずりと炬燵机の上で頬を擦りながら、真田は秀彰の顔を斜め下から見上げている。その姿はまるで炬燵に取り付いた妖怪みたいだ。


「アンタ、嫉妬してるんじゃないの~? 親友に可愛い彼女が出来たからってさぁ」

「んな事しませんよ……いや、確かに痕印者だっていう証拠も無いし、単に俺の思い過ごしだって可能性も捨て切れませんけど」


 年季の入った漆塗りの丸盆に積まれた蜜柑を一つ手に取り、橙色の皮を剥き始める真田。暦上は五月なのに、映る光景はすっかり年の暮れだ。


「こういう事はあんまり言いたかないけどもさぁ、アンタこの間の事件の影響受け過ぎだってば。仮にその子が痕印者だとしても、皆が皆……はむっ……あのガキみたいな狂人ってワケじゃないのよ」

「それは、俺だって分かってます」


 言いながら真田は瑞々しく実った蜜柑の果実を一房ずつ口に運んでいく。格好はさておき、放たれる言葉は的確に秀彰の思考の弱い部分を貫いた。


 痕印者とは誰しもが脅威であり、狂気を秘めている。否、そうあって欲しいという内なる願望が秀彰の心の奥底に芽生えているのを、真田に見透かされたのだ。


「ま、勘の良い赤坂がそこまで言うのなら、アタシも少し探りを入れてみようかしらねぇ。どうせ杞憂に終わるだろうけども」


 食べ終えた蜜柑の皮を古新聞紙製の紙箱に放り込みつつ、真田は柔らかく崩した笑みを浮かべた。頼もしい師の相貌に無意識の内に視線を下げていた秀彰も顔を上げ、暗くなりかけていた表情をリセットする。


「そうして頂けると助かります」

「もし見当違いだったら、後でちゃんと土方にも詫び入れておきなさいよ?」


 パシっと無造作に投げ渡された蜜柑をキャッチした秀彰は真田に習って蜜柑を剥き始める。旬外のせいか甘さは控えめだが、今はその味が彼にはお似合いだった。


 それから三日後。

 平穏に見えた日常の裏側から、悪意を持った冷たい影がゆっくりと侵食を始めた。


「――長谷川君、土方君……あら、土方君はお休みなの?」


 朝のホームルーム、形式的な点呼を掛けていく途中で担任の美月先生が意外そうな声を上げた。


「先生の方には何の連絡も入ってなかったけど、土方君の欠席理由について誰か知っている人居る?」


 いつもの頼りない聞き方でクラス全員に問い掛けるが、返事は無い。本当に誰も知らないのか、それとも軽く無視されているのか。未だクラス内の状況に疎い秀彰には判別が付かなかった。勿論秀彰も信吾の欠席理由なんて聞いていない。


「え、えーとぉ、委員長の中川さんも知らない?」

「えっ!? は、はい、私も特には聞いていませんけど……」


 突然振られた中川がオドオドと慌てた返答を返す。この美月という教師は何か困りかねた事態が起きると大抵の場合、教卓に一番近く、かつクラス委員でもある中川に助けを求めがちなのだ。相変わらず損な役回りだな、と秀彰はどこか小芝居染みた光景を他人事のように眺めている。


「副委員長の赤坂くんなら、な、何か知っているかも……? いつも仲良くお話してますし……」

「……は?」


 肘をついて傍観を気取っていた秀彰の口から素の驚きが漏れ出た。反射的に中川の方へ視線を送り返すが、彼女は彼女で申し訳無さそうにペコペコと頭を下げている。見かねた秀彰は視線を外し、代わりに教壇の方を向く。


「そ、そうなの、赤坂君……??」

「いや、俺も何も聞いてません。ただの寝坊じゃないですか?」

「ね、寝坊っ! そ、そうよね! うん、きっとそうだわ……っ」


 仕方なく秀彰は美月先生に思ったままの言葉を伝えたが、彼女はずっと出席簿で視線をガードしつつ、あらぬ方向を向いてコクコクと頷いている。思えば入学式以来、担任である彼女とまともに視線を合わせた記憶が秀彰には無かった。きっと彼を人喰い鬼か何かと勘違いしているのだろう。


「で、では一時限目を始めます。皆さん、教科書の用意は出来ていますか?」


 やがて何事も無かったかのように時間割り通りの授業が始まる。秀彰は吐きなれた呆れ味の溜息を出してから、気を取り直して数学の本を開いた。結局、その日は目の前の空席が埋まる事は無かった。どうせ彼女と遊びふけっているのだろうと、秀彰はそれ以上深くは考えなかった。


 だが、さらにその明くる日も信吾は出席して来なかった。二日続けての無断欠席にはさすがに秀彰も不信感を抱く。午前授業の合間に彼の携帯に何度か電話を掛けてみたが、ことごとく繋がらない。


(おいおい、問題児の俺より不真面目になるんじゃねえよ馬鹿野郎)


 痺れを切らした秀彰は、昼休みの間に三年の教室へと向かう事にした。


「失礼します。一年の赤坂ですが、鈴峰はいらっしゃいますか?」

「赤坂……って、まさか『あの』……!?」


 中川に教えてもらったクラスを訪ねると、賑やかだった上級生の教室が一瞬にしてしんと静まり返った。好奇と嫌悪の入り混じった視線に囲まれ、時折秀彰の名前とその悪行を囁く声が耳に入る。不快極まりない扱いだがしかし、それを承知の上でやって来たのだ。ここは耐えるしか無い。


 やがて近くに居た一人の女生徒が慎重に距離を取りながら、秀彰に話しかけてきた。


「え、えっと、鈴峰さんは今日もお休みなんだけど……」

「そうですか。あの、欠席理由とか分かりませんか?」

「そ、それは……ちょ、ちょっと待ってね……っ」


 そう言い残して、上級生の女生徒は教室の奥へと引っ込んでしまう。今日も、ということは昨日も欠席していたのだろう。信吾と二人、示し合わせたかのようなタイミングでの無断欠席。当人同士の問題ならば首を突っ込むのは無粋だと思う一方で、危惧していた予感が当たったのではという焦燥感も秀彰の胸中に渦巻いている。


(あの馬鹿のコトだ。浮かれ気分で彼女と小旅行にでも出かけてるんだろう。そうに決まってる――)


 熱くなった思考を冷まそうと上級生の教室に踵を返そうとした、その時だ。


「待って! ……実はね、鈴峰さんから手紙を受け取っているの」


 背後から呼び止められて秀彰が振り向くと、先ほどとは別の女生徒が佇んでいた。校則に準拠した肩まで掛からない黒髪に、聡明さの溢れる双眸と眼鏡。真面目だが責任感の強そうな表情は、どことなく中川の数年後を連想させる。


「俺に、ですか?」

「うん。一年の赤坂くんが訪ねてきたら渡してって。もしかしたらその中に理由も書いているかも」


 手渡された手紙は真っ白で飾り付けがなく、きっちりと封がされていた。それが余計に秀彰の心中に妙な胸騒ぎを呼び起こす。


「ありがとうございます。それと、ご迷惑をお掛けしました」

「ううん、気にしないでいいよ。それより久美子……鈴峰さんの事、私も心配だから、もし会えたらヨロシクね」


 秀彰は鈴峰の友人らしき懇切丁寧な先輩に頭を下げ、上級生のクラスを後にした。額からは嫌な汗が止めどなく流れ出てくる。一刻も早くこの手紙を読まなければならない。その思いに駆られるがまま、秀彰は周りにひと気が無いことを確認してから、慎重に手紙の封を手折り切った。


「――ッッ」


 ピリリリと紙の裂ける繊細な音とともに現れたのは、『鶴彦倉庫へ一人で来い』と書かれた三つ折の便箋と、一枚の写真。


「鈴峰……テメェ……ッッ」


 途端、秀彰の奥歯が怒りの軋みをあげた。そこには喫茶店と思しきテーブルの一角で、屈託なく笑う信吾の顔が写っていた。必要最低限にして悪意十分な脅迫文を目の当たりにした瞬間から、秀彰の身体は自然と動き出していた。


「邪魔だ、どけッッ!!」


 道行く上級生らを鬼の形相で跳ね除けながら自分の教室へと直行すると、財布の入った鞄を引き千切れんばかりに手繰り寄せた。退室間際、誰かが秀彰の名前を呼んだ気がするが、振り返る余裕なんて無い。そのまま午後の授業の予鈴が鳴るのも構わず、秀彰は一人校舎を飛び出して全力で走り続けた。


「はぁっ、はぁっ……ぐっ……クソッ!!」


 疾走すること十数分。駅前のタクシー乗り場を見つけるやいなや、秀彰は迷わず半開きの車内へと駆け込んだ。


「ちょっとキミ、学校は――」

「鶴彦倉庫まで出してくれ! 早く!!」


 運転手が何か文句を言っていたが、ひと睨みすると大人しく従ってくれた。遠ざかる駅前通りの景色を眺める事で、秀彰の荒れた心が少しずつ平穏を取り戻していく。


(落ち着け、冷静になれ。そうしなければ……)


 くしゃくしゃになった手紙を鞄に仕舞いつつ、右手を強く握りしめる。腹に堪える痛みと指先から流れ落ちる血を引き換えに、沸騰しかけた怒りが一旦奥へと引っ込んだ。


(無事で居てくれよ、信吾)


 秀彰の祈るような思いを乗せたタクシーが、車通りのまばらな湾岸道を走り抜けていく。


 やがてタイヤが砂利を巻き込む音を響かせ、車体が少々乱暴に停止した。揺れる後部座席の窓越しに見えるのは、金属製の表札に「鶴彦倉庫」と大きく書かれた入場ゲート。ここが指定の場所で間違いなさそうだ。


「毎度あり。まだ若いんだから変な気は起こすなよ」


 学生服を着たまま運賃を支払う秀彰を見て、運転手の中年男性は何やら心配そうな目を向けていたが、暫くすると元来た道を猛スピードで走り去っていく。吹き抜ける潮風が学ランの襟をパタパタとはためかせて、少し肌寒い。


(社会科見学以来だな、この辺りに来るのは)


 錆とオイルの混じった匂いに鼻をひくつかせながら、秀彰は周りの様子を眺めた。市内湾岸沿いに造られたこの倉庫は、隣接する工場地帯で生産された大型製品を出荷するための一時保管場所として利用される他、海外から輸入した原料を卸売業者が搬出する拠点としても用いられているらしい。それ故、昼夜問わずフル稼働しているはずだが、今日に限っては異様なほど静かだった。


(まるで災害避難命令でも発令された後のような有り様だな)


 封鎖された入場ゲートを無断でくぐり抜け、敷地のド真ん中を堂々と歩いても、咎める者は誰も居ない。船着き場にも、事務所にも、検問詰所にも、人の気配は不気味なほど無かった。


 だだっ広く整備された敷地内にはフォークリフトやトレーラートラック数台が無造作に放置されており、それがこの場を急いで離れなければならなかった様子を物語っている。


(普通の女子高生一人の命令で動かせるような場所じゃねえ、あの鈴峰の女の裏には何かが潜んでやがる)


 集積するコンテナの隙間を縫うように進んでいくと、一つだけシャッターの下りていない倉庫が目についた。まるで「ここに来い」と指示されているかのような露骨さだが、手紙の差出人はそこに居ると確信した秀彰は、警戒を怠ること無く中へと入る。


 倉庫内は薄暗く、タイヤのゴム臭と思しき臭気が至る所から放たれていた。一歩一歩慎重に奥へと進む度、パシャパシャと濡れた床から水音が鳴る。何の液体なのか分からない恐怖もあったが、重油の類でないことは足裏の感触から判明している。どの道、今更怖じ気付いた所で、もう遅い。


 部屋の中央へと到達すると、唐突にパチンとスイッチらしき物を弾く音が響き、薄暗かった視界が急速に明るさを取り戻していく。夜間作業を意識した強烈なライトに目を眩まされる最中、秀彰の耳に忌々しい女生徒の声が届いた。


「ご機嫌よう赤坂くん。招待状が無事に届いたみたいで嬉しいわ」

「鈴峰、久美子……ッッ」


 予期せぬ眩さに目を細めながらも、秀彰は頭上から聞こえた女性の声へと身体を向ける。照光に慣れてきた視界の先、緑色に塗装された階段を規則正しいリズムで下りてくるのは秀彰と同じく制服姿の女学生――鈴峰久美子だ。


「ふふ、その血肉に飢えた獣のような表情、良く似合ってるわね。最初に会った時の無愛想な顔よりよっぽど魅力的だわ」

「大きなお世話だ」


 階段を下りきった鈴峰は妖しげな笑みを携えつつ、秀彰の前へと歩み寄る。その距離およそ三メートル、痕印による急襲も十分可能な間合いだ。握りしめた右拳が、今すぐにでもこの女をぶっ飛ばしたいと訴えているが、それを必死で堪えて信吾の安否を問い質す。


「それより、信吾はどこだ。無事なんだろうな?」

「無事? えぇ無事よ。外傷もなければ罹患りかんもせず、五体満足で居るわ」

「なら今すぐ引き渡せ、さもなくば――」

「さもなくば? ふふ、どうするというのかしら?」


 おもむろに鈴峰の眉が上がる。彼女の挑発に乗るつもりはない。秀彰はゆっくりと右手を掲げ、威嚇の体勢を取った。


「無論、力尽くで応じさせるまでだ」

「勇ましいこと。けど――そんな事をすれば土方くんの命は一生助からないわよ」

「何……?」


 鈴峰は顎に手の甲を当て、優雅に微笑んでいる。絵になりそうなほど美しい仕草とは裏腹に、口から出る言葉は徐々に不穏さを増していく。


「どういう意味だ?」

「彼の身体は今、特殊な状況下にあるの。製造途中と言ってもいい。生きるも死ぬも、そしてどちらにも属さぬまま永い永い時を刻むも、私次第。その意味は同じ痕印者である貴方になら、分かるでしょう?」

「……テメェ……ッッ」


 ギリリと噛み締めた下唇から、鉄に似た味が広がっていく。言っている意味の半分は理解不能だったが、肝心の部分はハッキリと理解出来た。もし自分に手を出せば、彼女の能力によって信吾は死ぬ、というシンプルな脅迫だ。


 鈴峰が自らを痕印者だと曝け出したことで、一旦奥へと押しやった戦闘衝動が更に強まり、秀彰の胸の内側で疼き始める。戦う準備は充分出来ている。だが、信吾という人質がある以上、下手な手出しは出来ない。


「…………っ」


 秀彰は一度、ふぅと短く息を吐いた。過剰な感情は短絡的な思考を生む。ならば吐息と共に体外へ排出しようと数度意識的な呼吸を繰り返す事で、モヤがかった頭の中が少しずつ晴れていく。


「お利口さん。そうやって大人しくしていれば、土方くんの生命が無為に潰える事もないわ」

「俺を殺したいがために、わざわざ信吾をダシに使ったってのか?」

「不快な言い方ね。それではまるで赤坂くんが私の本命だと聞こえるじゃない。貴方を始末するのは組織からの命令で、単なるノルマ遂行でしかないの。一緒にしないで欲しいわ」


 鈴峰の口から、おおよそ敵に漏らすべきではない情報が軽やかに紡がれていくのを、秀彰は困惑しながら聞いていた。聡明で冷静なイメージの強い彼女には似つかわしくない短絡的な行動だが、その口調には強い我の感情が含まれている。


 直感的に、彼女の言葉には偽りがないのだと判断した。


「……今ひとつ、アンタの目的が分からねぇ」


 それでも秀彰の頭には疑念が浮かぶ。組織とは何か。真田の言っていた聖痕民団なのか。聞けば答えてくれるのかも知れないが、秀彰の興味は別の方を向いていた。


「信吾を狙う理由はなんだ? アイツは痕印者じゃない、普通の人間だろ」

「痕印者だから狙う、という貴方独自の見方をあたかも共通認識のように押し付けないで欲しいわね」

「なんだと?」


 会話しているのか説教されているのか、どちらともつかない鈴峰の話しぶりに思わず秀彰は苛立ちに唇を噛み締める。脅迫文をクラスメイトに預けるような輩が何を言うか。


「自分を棚に上げて、俺だけ異常者だと言いたいのかよ」

「まさか。私は私の価値観が一般的とは微塵も思っていないわ。常人の枠から外れた異常者、異端者の分類カテゴリーに属していることは重々承知の上よ。でも、だからこそ、貴方のその中途半端に人間寄りな思考が気に食わないの。同族嫌悪って言うのかしらね」

「誰が同族だ、勝手に決めんな」


 クスリ、と嫌味なほど上品に口端を曲げ、微笑する鈴峰。まるで自分が狂人であることを誇るような言い草に、秀彰の背筋にゾワリと粘着質な悪寒が走る。


「ところで赤坂くん、貴方は土方くんの顔立ちについて、どう思っているの?」

「……は?」


 秀彰の口がぽかんと半開きになる。一瞬、問われている意味が良く分からなかった。


「整っていると思うのか、それとも醜いと感じるのか、どちらかしら?」

「そりゃあ整っている方だろ。性格はともかく、顔だけなら芸能事務所にスカウトされてもおかしくねえ」


 正直に答えつつも、心の中で何言ってんだと自分自身にツッコミを入れる。これがもし、信吾の耳に入れば悶絶死したくなるレベルの失言だ。


「ふふ、本人の居ないところでは存外正直なのね」

「からかってんのか、アンタ」


 挑発されたと捉えた秀彰は、変わらず漂ってくる気味の悪い空気など構わず、鈴峰の方へと一歩前に出た。パシャリと水溜りを踏みつけた不用意な足音が倉庫内に響き渡る。


「いいえ、それが答えよ。土方くんを狙った理由、それは彼の姿形が美しいから」

「なんだそりゃ、至って普通の理由じゃねえか」


 勿体ぶった割には随分と俗な理由だと、その時の秀彰は思った。

 しかし――


「だからその美しさを永遠のモノにしたいと、そう決めたのよ。美しい姿形のまま、変わらず傍に置いておきたい。それが私の、死体愛好者ネクロフィリア蒐集家コレクターとしての願望」


 鈴峰はうっとりと、恍惚に染まる瞳で己の世界を語りだす。もはや秀彰には一片足りとも理解出来ない価値観だった。


「でも安心なさい。死体と言えど、腐乱死体のように醜悪で美の欠片もない愚物には興味がないわ。成長も老いもなく、生と死すらも凌駕した停滞の中にこそ真の美がある。それを叶えてくれるのが私の痕印ちからと、土方信吾くん。彼は私の処女作としてふさわしい恋人ひとなの」

「なるほどな。立派な狂人だよ、アンタは。聞いてて寒気がしやがる」


 だが、ようやく秀彰の中にある鈴峰という女の像に輪郭が付いた。歪んだ愛情、いや、果たしてそれを愛情と呼んでいいのかすら疑問だが、結局この女が見ているのは信吾の外面、器だけ。内面の性格など視界の隅に落ちた糸くず程度としか思っていないのだろう。


「理解できない主張をするからといって他人を狂人呼ばわりなんて、愚かね。マイノリティが弾圧を受けるいわれなんて、本当はどこにも無いのに。普通や平凡に線を引いて、そこから僅かばかりの上下のキャパシティから溢れただけで人としての認定を受けられないなんて、この世は本当どうかしてるわ」

「……ハッ」


 美の価値観、行動原理は別として、その意見だけは秀彰も多少同意する。彼が持つ内なる闘争心をひけらかした際、師の真田は異常の域だと言った。本来は個性であるはずの一面が、度を越すと有害と判断され、異端者の認定を受ける。そんな経験は鈴峰だけでなく、秀彰も通ってきた道だ。


(同族嫌悪か、なるほどな)


 先ほど鈴峰が漏らした言葉を反芻しながら、秀彰もふと考える。痕印者としての生まれ育ちが違えば、あるいは二人とも同じ組織に属していたのかもしれないと。


「やはり、その目は馬鹿にしている目ではなさそうね。貴方も経験があるのでしょう、赤坂くん。他人が持ち得ない特殊な欲求、それも世間からは到底認められない類のモノが」

「ある……って言ったらどうなるってんだ?」

「一つ、提案があるわ。私が組織から下された指令は始末の他に懐柔というのがあるの。つまり此方側の人間になれば生命の保証もするし、能力の使い道だって用意してくれる。悪くない話だと思うけれど」

「そのためにアンタと同じ組織に入って、信吾を見捨てろと?」


 鈴峰は当然だと言わんばかりの瞳でこちらを見ている。


「えぇ、そうよ。私は土方くんという素体を手に入れ、貴方は他人に堂々と能力を振りかざせる組織の後ろ盾を手にできる。まさにWIN-WINの関係でしょう? 友人一人の生命で長年抱いてきた願望が手に入るというのなら魅力的だと思わない?」

「…………」


 暫く考えこんだ後、秀彰は大きく頷き、同意を示した。


「そうだな、確かに魅力的な提案だ」


 一瞬、鈴峰の眼差しに疑惑の色が浮かぶ。だが、すぐにそれは取り除かれ、元の不敵な氷の笑みへと変わった。その一連の変化を真っ向から見ていた秀彰は、さらに言葉を続けた。


「考えてみりゃ当然だな。たかが馬鹿一人の生命で、何を俺は躊躇ためらってたんだ。阿呆らしい。つくづくそう思わされたよ、鈴峰センパイ」

「ふふ、潔い判断ね。思っていた通り、赤坂くんには此方側の素質があるわ」

「おいおい、勝手に変な勘違いすんなよ」


 そこで一旦、秀彰は言葉を区切り、荒々しい行動へとシフトチェンジした。左肩に担いていた通学鞄をブンと大きく振り回してから、鈴峰の方目掛けて思い切り投げつけたのだ。鞄はギリギリの所で避けられたが、それまで仮面のように穏やかな笑みを張り付けていた彼女の表情に、初めて怒りの亀裂が走る。


「……っ!?」

「これで心置きなくアンタをぶっ飛ばせるって意味だよ。信吾の安否なんざもう知らねえ。俺が投降しようが何しようが、どうせ無事じゃ済まねえんだろ? ならいっそ、ここでアイツの無念を晴らしてやった方が後々の為にもなるってコトよ」


 秀彰はニヤリと過剰なまでに口端を上げて、笑ってみせた。自分が完全優位だと思っている相手の顔を歪ませた時ほど気持ちの良い経験は、そうそう無いのだから。


「吠えるじゃない、『ワイナルト』の赤坂秀彰」


 対して鈴峰は感情のない、死人のように虚ろな目で見返しながら低く呟く。


「貴方の能力は事前に把握済みよ。土と砂を操る痕印。それも練度の低い半人前とも聞いている。それで私と――いいえ、聖痕民団と戦うというの?」

「カッコイイだろ? 正義の味方みたいでさ」


 チリチリと秀彰の耳の裏がざわつき始める。それは危険な兆候を知らせる合図であると同時に、又とない愉悦の時間を約束するサインでもあった。


「残念だけど、貴方に与えられているのはそんな大層な役柄じゃないわ。貴方は卑しい子鼠。大好きなチーズの匂いに誘われて、のこのことやってきた可哀想な存在」

「だったら、さしずめアンタはお調子者の”イエネコ”ってトコロか? そりゃ負けフラグだろ」


 軽口の応戦で、次第に鈴峰の瞳に光が灯り始める。自信に満ち溢れた、それでいて己が欲望に限りなく純粋な眼差しが、両者の間で真っ向から衝突する。


「猫ならば、ね。けれど、私は人間よ。目障りな害獣を駆除するために雇われた専門業者。だからこの倉庫内に足を踏み入れた時点で――」

「……っっ!!?」


 直後、急激に秀彰を中心とした周囲の温度が下がった。比喩ではなく、周りの空気が冷気を帯び始めている。これはマズイ、そう秀彰が思った時には既に手遅れだった。


 ピシリ、肌を刺す鋭利な音がして、足元に視線を下げるとそこには――。


「貴方はもう私の術中にはまっているのよ、赤坂くん」


 水溜りに浸かっていたはずの秀彰の靴裏が、コンクリート床と共に凍りついていた――。

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