第四話 悪魔の仔 3

 砂と瓦礫が散乱する廃墟団地の一角で、薄明かりの闇に溶け込んだ黒色の学生服が弱々しく蠢いた。


「はぁッ……はぁ……、ぐ……ぐぐッッ……ペペッ!」


 秀彰は前のめりに倒れ伏したまま、血と砂利の交じり合う口内物をそこらへ吐き出した。日頃の訓練の賜物と言うべきか、幸い骨も臓も無事なようだ。痕印能力を暴走させた際、拳大ほどの石が秀彰の鼻先を掠めた時はさすがに死を覚悟したが、どうにかこうにか生きている。


「げほ……ッ、げほ……、こんな破れかぶれの攻撃で急場を凌いだことが真田センセにバレたら、きっとこっ酷く叱られるだろうな……くへっ」


 自嘲気味に口角を上げようとしたが、唇が切れたせいで上手く笑えない。ひと月前に買い替えた学生服はまたもやズタボロに切り裂かれており、破れた布地の下からは真新しい血が滲んでいる。

 また買い直しだ、そう思うと秀彰の脳裏には母の激怒した顔が浮かんで、憂鬱な気分に苛まれる。未だ予断を許さない状況だというのに我ながら呑気な考えだと、一人呆れた。


「こんな廃墟で寝てたら幽霊になっちまうぜ…っ、ぐ…う……っ!」


 秀彰はガクガクと震える腕を酷使しながらなんとか上半身だけでも持ち上げて、視界を上へと広げてみた。見えるものは、何もない。砂塵一過の後、周囲には夜風に舞う微粒の砂煙が立ち籠めており、頼りない月明かりだけでは視界不良も甚だしい。つい先程まで喧しかった瀬能の声も無く、ただ不気味なほどの静寂が辺りを包み込んでいる。


(このまま、奴もくたばってくれてりゃいいんだが)


 そう思った直後、一陣の夜風で拓けた視界の先から砂利を踏みしめる音が聞こえ始めて、秀彰は酷く気落ちした。どうやらしぶといのはお互い様らしい。奴はまだ生きている。


「げほっ、おえっ、うげぇっ……、口の中砂だらけで気持ち悪いよ……クソ……ッッ!!」


 秀彰と同じようにゲホゲホと嘔吐えずきながら、痕印者の少年は恨み言を呟いている。着映えしていた大和装束も今や見る影もなく乱れ破れ、みっともなく開いてしまった着物の隙間からは細白い裸体が見え隠れしていた。美少年なだけあって、それがいやに扇情的だ。


(ま、そう甘くはねぇよな、チクショウが)


 せめて片足くらいは持っていって欲しかったと、敵情観察を終えた秀彰は落胆する。衣類が破ける程度の裂傷以外にはこれといったダメージは見受けられない。あとは落とし穴で与えた額の傷一つだけ。つまりは自分のヤケクソ気味の攻撃なんて壮大な時間稼ぎに過ぎなかったのだと、秀彰は自嘲した。


「けど――はは、これで今後こそオシマイみたいだね、おにーさん」

「あぁ、認めたくねぇがその通りだ」


 ごまかしようのない本心を、秀彰は素直に伝えた。実力差は明白だったが、それでも良くここまで健闘したと自分を讃えたい。打つべき手段は全て吐き出した。後は潔く死ぬだけだと、孤独に決意を固める。


「正直、このボクをここまで追い詰めるなんて思ってもみなかったよ。立派立派、うん、胸を張ってあの世へ逝っていいよ♪」

「ソイツはどーも」


 大して嬉しくもない返答をしながら、秀彰は対峙してきた幼き痕印者の顔を改めて眺めた。相変わらず羨ましいくらいに素直な笑顔だ。人を殺すことに心底愉悦を感じている、そんな節がある。


「……ところでさ、おにーさん。なんでアンタも笑ってんのさ?」

「あ?」


 言われて秀彰は、震えの収まらない手を不器用に動かしつつ、頬をなぞった。あれだけ痛くて持ち上がらなかった口角が、今は自然と上向いている。


「く、くくく……」


 その変化を自覚した途端、秀彰はまるで喜楽の感情を急に思い出したが如く、笑いが止まらなくなった。


「あははっ、あはっ、あははははっっ、なんでだろうな、いや、そんなもん考えるまでもねぇか」


 秀彰は口元をニヤつかせたまま、至極単純な理由を吐いた。


「そりゃあ楽しかったからに決まってるだろ」


 そう、目の前の狂人が殺戮に愉悦を感じるように、彼もまた戦闘に愉悦を感じる狂人だったのだ。口にすれば酷く稚拙で、くだらない理由。それでも秀彰にとっては命を賭けるに事足りる理由だった。それだけ自分の命が軽かったとも言えるが。


「戦って、死ぬのが?」

「全力で戦えたことにだよ。別に死ぬのは嬉しかねぇし、自分から死にたいとも思わねぇ。けど本気出して負けたんなら、悔いもねぇってコトだ」

「……ふ~ん」


 納得したのかしていないのか、瀬能は微妙なニュアンスの表情を浮かべながら、首を左右に揺さぶっている。そして、ようやく秀彰のズタボロな身体に向けて、痕印の宿った手を翳した。


「でもダメだよ、死ななきゃ。負けたんだからさ、死ぬのは当然だろ。ズルっこは無しだよ」

「別にズルする気はねぇよ。殺したけりゃ殺せばいい。ただ、なんつーか、さぁ――」

「……??」


 と、そこで秀彰は会話を打ち切るように腕の力を抜いた。いい加減、上半身を起こし続けるのも限界だったようだ。グシャと嫌な音を立て、彼は再び地面とキスするように倒れ伏した。


「おい、お前最後まで言えよ! そーゆーの、気になるんだよ、ボクは! 言えよコラ、言わないとぶっ殺すぞ!! ……言っても殺すけど」

「…………」


 どちらにしても殺すんじゃないか、とそんな無粋な突っ込みを秀彰は心の中で囁いてみる。最期の最期に嫌がらせしてやるのも小物っぽいが悪くはない。きっとコイツは今後一生モヤモヤしたものを抱え込みながら、生きていくのだろう。そう思うと秀彰の気張っていた肩の支えが取れ、なんだか心地良い気分に包まれ始めた。


(全力で競って良いところまで行って結局負ける。不満はあるけど悔いはねぇ。なんだ、これも一つの青春じゃねえかよ)


 そうだ、これも一種のスポーツじゃないか。負ければ命を奪われるという過酷さはあれども、互いに真剣に取り組んで汗を流したライバルだ。秀彰は錯乱しかけた脳内でようやく自分の人生を肯定することが出来た。


(『痕印者は短命だ』って真田センセが言ってた通り、俺の人生もここまでみたいだな)


 こうして秀彰は己の死期を悟り、生への執着を諦めようとした。頭上から放たれる殺意に満ちた痕印の気配にも抗うことはせず、いっそひと思いに殺ってくれと素直に受け入れていた。

 

 にも関わらず、その人はやって来た。


「――殺す? おいおい、誰を殺すって言ってんの?」


 秀彰の頭上から響く、誰かの怒りの声。聞き間違えようのない、傲岸不遜ごうがんふそんで刺々しい女の声。


「アンタまさか、そこで情けなく転がっている口だけの、なんちゃって不良の、馬鹿で阿呆で間抜け面の、けどそこがちょっぴり可愛いアタシの教え子の事を言ってるワケじゃないわよね?」


 だが、今この瞬間だけはそんな刺の痛みすらも甘受出来る気がした。


「よぉ赤坂ぁ、随分と酷い有り様じゃないのよ。いやいや、ここはよくぞ生き延びたなって褒めてやるところかねぇ」

「真田、センセ……」


 秀彰が懸命に顎を持ち上ると、片膝を立ててしゃがみ込んでいた真田と視線が合う。颯爽と彼の前に現れたその人は普段と変わらない――いや、ほんの少しだけ優しさを増加させたような、それでいて不敵な笑みを浮かべていた。


 九死に一生を得たと喜ぶ反面、彼女に伝えなければいけない事があると、秀彰は痛みに耐えつつ必死で口を開こうとした。


「……ッッ、コイツが、林教諭の――」

「分かってる、それ以上は言わなくていい。後はぜぇんぶ私が片付けてやるから。だからアンタはそこでゆっくり休んでな、地面が恋するくらいにね」


 ボサっとした長い黒髪を掻き上げながらズレた眼鏡を中指で掛け直しつつ、国語担当の女教諭は惨めに倒れ伏した生徒の前で立ち上がり、全ての重責をその身に背負う。


 朧な月夜に照らされたその後ろ姿は、秀彰が知り得る何者よりも格好良く、頼もしかった。


「おい、ババァ。お前、コイツの仲間か?」

「えぇそうよ。大事な教え子であり、弟子であり、遊び仲間だ。それをここまでこっ酷く傷付けたんだから、当然アンタも覚悟完了ってコトよね?」


 真田の宣戦布告とも取れる物言いに、瀬能は不満げな声で返す。言葉の裏に隠された、地獄の鬼をも震え上がらせる彼女の殺意には気付きもしないで。


「はあ? 何言ってんだ、元はといえばコイツが自分で――」

「ふーん、そうかい」


 問答無用と言わんばかりに真田はバッサリと会話を切って捨てる。くだらない奴の弁など、端から聞く気なんて無かったのだと。


「なら焼かれな――『リアライズ』」


 真田は息を吐くかの如きゆるやかさでそう呟くと、極自然な動きで右手を掲げ、奴の眼前へと差し向けた。途端、それまで冷えきっていた廃墟公園の空気が一瞬にして熱く、焦がれるものへと変貌を遂げる。


 思えば秀彰が対峙していた瀬能という名の幼い痕印者の戦い方は、あまりに杜撰で油断に満ち溢れていた。戦闘にはまるで不要な満月への憧憬語りから始まり、自らの立場もあけすけに暴露しつつ、相手の恐怖する顔を拝むまで決して致命傷は与えない。


 それはひとえに自分が持つ『グラシャラボラス』という特異な痕印能力への過信と慢心。その気になれば相手のどんな攻撃でも潰せるし、どんな防壁だって圧せると。事実、これまで瀬能が屠ってきた敵や味方は誰一人として彼に致命傷はおろか、骨の一・二本すら折らせていない。


 だからこうして一切の忠告も威嚇もなく、敵意も殺意も押し殺して放たれる攻撃に対して、瀬能の重圧による障壁の発動が間に合うはずもない。突然現れたいかれる女教師がそんな危険性を孕んだ存在とは読み切れなかったのだ。そうして生まれたほんの一瞬の隙、それが彼の生死を別つ分水嶺ぶんすいれいとなった。


 真田の手から放たれた炎は夜の闇を溶かすが如く、黒を橙へと染め上げる焚火となって煌々と輝き出す。着火地点は言わずもがな。ボゥというありきたりな燃焼音も無いままに、小さな少年の身体は瞬く間に業火の内に包まれた。


「ぐぎひいいいッッ!!!?? あ、あぁぁぁ、熱ぃぃッッ!!! 熱いよぉぉぉッッッ!!!??」

「へぇ、あぁそう」


 人間の身体が突如発火するという超常現象を目の当たりにしながらも、真田はつまらない余興を見るかのような冷めた声で呟く。


「アタシの恩師はアンタに足を潰された挙句、頭をフッ飛ばされて死んだんだ。遺体の損壊状況も全部調べた。さぞかし楽しんだんだろなぁ、おい――楽に死ねると思うなよ。血も皮も肉も骨も、余さず消し炭になるまで、徹底的に焼却してやる」

「い、嫌だぁぁっっ!!? ぼ、ボクが焼かれるなんて、ぁぁぁッッ!!? 助けて

ッッ!!? お願いッッ!!!」


 それは戦いと呼ぶにはあまりに一方的で、呆気ないモノだった。秀彰が難攻不落と思っていた重圧による防壁も真田の攻撃の前ではなんら機能せず、無為に崩れ去る。炎と重圧、単なる能力の相性だけでなく両者の戦いへの備えと覚悟があまりに違いすぎた。


(これが、元特行所属の痕印者の戦い方なのか)


 メラメラと燃え盛る炎の波打ちに照らされた真田の横顔はいつぞやの秀彰を宿直室で襲った際に見せた憤怒の表情とは違い、酷く無機質だ。瀬能との戦いの最中に秀彰が抱いた殺人への葛藤や良心の呵責などはとうの昔に捨て去っている、そんな風にすら思えて彼の背筋がぞわりと寒くなる。


「止めときなさい。人が焼かれている場面なんてまじまじと見るもんじゃない、気が狂うわよ」


 そう言って真田は秀彰の視界を遮るように背を向けた。それだけで秀彰の胸の内に湧き上がっていたモヤモヤが急速に晴れていく。冷酷無比な復讐の裏で、この人には確かに優しさが残っている。そう信じられるくらいには秀彰も真田を一人の恩師として認めていたのだ。


 勝敗は決し、残るは瀬能の命が尽きるのを待つばかりと思われた。だが、そこへ不穏な気配が漂い始める。秀彰の耳裏からビリビリと伝わるシグナル、それも痕印発現の予兆とは異なる気配が真田の背後から色濃く発せられていた。


「真田センセ!!」


 そう叫ぶやいなや、秀彰は身体に残る痕印を振り絞って真田の周囲へと飛ばした。瓦礫の一部が浮き上がり、彼女の首裏を守護した。


 不意を突いたはずの銃弾は瓦礫の盾にブチ当たると、カランカランと乾いた音を響かせながら地面へと跳ね跳んだ。咄嗟に真田が振り返り、自分を狙った気配の持ち主を探り当てる。


「――ッッ!?」

「なるほど、単なる死にぞこないと言うわけではないようね」


 半壊した団地の壁裏からゆらりと現れたのは、硝煙たなびく拳銃を握りしめたスーツ姿の女だった。外見年齢は二十代とも三十代とも見て取れるが、昏く沈んだ声と眼差しはそれ以上の落ち着きを窺わせる。とてもカタギの人間とは思えない存在感だ。


「アンタ、このガキの関係者?」


 油断なく周囲に目を光らせながら、真田が一歩距離を詰めた。スーツ姿の女は動かない。劫火を放つ右手に狙われてもなお、その冷徹な瞳になんら驚く様子はなく、さながら無風の海域に浮かぶ帆船のようにただ静かに佇んでいる。


「無駄よ。貴女の能力では私は斃せない」

「なんですって?」


 そう呟いた女は真田の脅しなど意にも介さずに、未だ燃え続ける少年の元へと歩み寄っていく。すると距離が近付くにつれて炎の勢いが弱まり、やがては完全に消火してしまった。


 秀彰には何が起きたか全く分からなかったが真田は心当たりがあったらしく、呻くような低い声で呟いた。


「なるほど、噂には聞いてたけど、アンタが『消力遣い』の痕印者ね」


 忌々しげに口端を歪める真田の方へ、再びスーツ姿の女が振り向いた。


「痕印能力をかき消す能力なんてとんだ都市伝説だと思ってたけど、まさか実在するとはねぇ」

「元公安特務執行部第零課所属、通称『焔心えんしんの魔女』。貴女こそ噂では既に殉職しているはずだけれど、幽霊なのかしら?」

「ハッ、噂に振り回されてるのはお互い様ってワケか」


 消力遣いと呼ばれた女――聖痕民潭幹部の世良恭子は酷く焼き焦がれた瀬能の身体を担ぐと、真田の顔に再び銃口を向けた。


「今日のところは引き上げてあげる。こんなガキでも私達にとっては貴重な幹部候補生なの。死なせる訳にはいかない」

「そう易々とこの場から逃げきれると思っているのかい?」


 真田は右手を構え、あくまで追撃の体勢を取る。


「無論。この子を回収することが『私達』に課せられた使命だから」


 すると消力遣いの女の周囲がやけに暗くなり、やがては光を通さぬほど暗黒に包まれた。まるで闇が彼女を侵食していくように。


「逃すかぁッッ!!」


 すぐさま真田が痕印を発現させ、暗闇もろとも獄炎の渦に巻き込もうとする。だが、時既に遅し。暗闇に溶け込む寸前、世良の他にもう一人老人らしき男の影が見えたのは、秀彰だけではないだろう。


 その皺まみれの老顔が邪悪に捻れ、何かを小声で口走った途端、奴らの姿形は忽然と消え去っていた。何もかもが異様すぎて理解が追いつかない秀彰には、呆けた顔で虚空を見つめ続けることしか出来ない。


「あぁもうッ、なんでいつも肝心な所で詰めが甘いんだよ、アタシは……ッッ」


 炎が引いた後には奴らの足取りを掴めるような物は何一つ無く、ただ荒れ果てた廃墟団地の風景だけが空虚に広がっていた。


「まぁ、聞きたいことも言いたいことも山ほどあるんだけれど」


 真田の手を借りながらそれなりに綺麗なベンチへ運ばれた秀彰は、不機嫌そうな恩師の顔を見つめることしか出来なかった。


「とりあえず、お疲れ様」

「はぁ、どうも」


 急に労いの言葉を掛けられても、慣れてないせいで返答に困ってしまう。言った本人も何だかウズウズと溜まっているモノがあるらしく、結局はデコを指先で弾かれた。


「いてぇ!」

「やっぱ駄目だ、甘やかすと調子に乗りかねないからね、アンタ」

「だからって思いっきりデコピンすることないでしょうが……ってて」


 ヒリヒリと痛む額を押さえていると、遠くからパトカーのサイレンが近付いてきた。先程真田が携帯電話で連絡を取っていた所を見る限り、特行の関係者が乗っているのかもしれない。


「詳しいことは治療が終わってから、特行支部の方で聞かせてもらうわ。私も同行するからね。なんつーんだっけこれ、『とりあえず署まで来てもらえるかな?』だっけ?」

「古傷を抉るような台詞を吐くのは止めてもらえますか。どーせ俺はなんちゃって不良ですけど」


 重傷を負っているはずの秀彰だが口喧嘩だけは止められないのか、ふてくされた態度で吐き捨てた。


「んだよー、ありゃ咄嗟に浮かんだ冗談に決まってるじゃないのさ。意外と女々しい奴なんだなぁ、赤坂って」


 そう言って真田は放課後の宿直室で過ごす時と変わらない、自然な笑みを浮かべた。勿論、これで林教諭への復讐心が完全に無くなったワケではないだろうが、ひとまず安心してもいいだろう。そんな風に秀彰は感じた。


 吹きすさぶ夜風すら傷口を刺激する空の下。初めての死闘を潜り抜けた不良の教え子とそれを支える暴力女教師は、ほっと安堵の溜め息を吐いたのだった――。


   ※


 日を跨いだ深夜、聖痕民団の拠点にて――。


「顔を上げろ……世良、柳」


 実年齢の知れぬ重厚な声。聖痕民団最高権力者、鳳の命令に従い、膝を立て顔を伏せていた二人の幹部が視線を上げる。


「ハッ、どのような処罰を下されようと、甘んじて受け入れる覚悟でございます」

「……」


 世良の表情は硬く険しいのに対し、柳は平然とした面構えだ。保護観察中の幹部候補生の脱走を手助けした張本人というのに、その顔には微塵も責任が感じられない。その肝の座りっぷりは、もはや常人の域ではなかった。


 もし、鳳が彼の蛮行を知ればどうなることか。否、この男は全てを知り、来るべき未来を予感し、その上で柳を重役に据え置いていたのだった。これしきの独断行為で罰するほど狭量ではない。


「そう厳しい顔をするな。たかが重傷、あの小僧にしては程よい灸を据えられたではないか。教育係とはそうした罰も含めて与えるものだ、覚えておけ」

「はっ、以後心に刻んで参ります」


 世良は再び顔を下げ、そのまま微動だにせず主に謝意を示した。


「では鳳様。儂もそろそろお暇したいと思いますわい」

「構わんが、その前に一つだけ訊かせてもらおう――例の『種』の培養は進んでいるか?」


 その単語を聞いた柳は白い眉をピクリと震わせ、愉快げに答えた。


「えぇえぇ、それはそれは見事な塩梅に仕上がっておりますゆえ。そうですなぁ、あと半年もすれば被験体に投入しても良い頃かと」

「我々聖痕民団の祈願を成就させる為には是が非でもモノにしなければならぬ研究だ。こればかりは今回のような失態は決して許さん――分かるな?」


「ごもっともで」


 柳も世良同様深々と頭を下げたが、数秒後には起き上がってスタスタとその場から去ってしまった。


「……礼儀知らずの痴呆老人が」


 去りゆく間際、ボソリと世良が呟く。鳳は反応しなかった。


「それと世良よ。『渡り鳥マイグラトリィ』の報告では、もう一つ気がかりな点があったと言ったな。詳しく話してみろ」

「はい、瀬能亮太を斃した痕印者は元特行第零課の真田煉華に間違いありませんが、その場にもう一人、高校生と思しき男が居ました。そいつも彼女の仲間かと」

「ふむ、どんな奴だ?」


 外見ではなく痕印者としての特徴を問われたのだと判断した世良は、床に置いてあったカルテを取り出し、そのメモを元に答えた。


「瀬能亮太を回収する手前、私は隙を窺って真田煉華を銃撃しようと試みました。それを赤坂と呼ばれていた男が周囲に散らばっていた瓦礫を使役し、防ぎました。恐らく能力媒介は砂・地面に類するモノです。とりたてて珍しい能力ではありませんが――」

「お前の痕印能力の特性上、先立って気配を察知されることはまずない。その上で完全な不意を突いたにも関わらず防がれたのは一考に値すると?」

「左様でございます」


 なるほどな、と鳳は呟いて、玉座に見立てた仰々しい作りの椅子に腰掛けながら、顎を擦った。


「クク、中々面白い奴だな。痕印者の能力とは別の才能を持っていると見える。『勘が良い』とは末恐ろしいぞ。突き詰めればそれは未来予知にも繋がりかねんからな」

「では、早めに始末致しましょうか?」


 世良の物騒な提案を鳳はしばし考えた後、首を左右に振った。


「現段階でそこまで過剰に警戒する必要はない。だが、全くの放置というのも気に掛かる。どうだ、お前の方で動かせそうな手勢は居ないか?」

「少々お待ちくださいませ――はい、一人居ました」


 世良がカルテを板ごとピンと指で弾くと、瞬く間に挟んであった紙の量が数倍以上に膨れ上がった。留め具がはち切れそうなほどのカルテをバララララと物凄い速さで読み進め、一人の情報を探し当てる。


「『渡り鳥マイグラトリィ』の収集データと私の個人データを照合した結果、真田煉華と赤坂は同一の高校に通っていることが判明しております。ちょうどそこに潜入している構成員が一人居りますので、それを刺客として差し向けましょう。ただ、あの真田煉華と正面から渡り合うのは少し厳しいかと」

「それで良い。狙いはあくまで赤坂とかいう小僧だけだ。使い捨ての駒で構わぬ。 『焔心の魔女』を始末するにはそれ相応の戦力と準備が必要だろうからな」


 主の意見に素直に同意し、恭しく頭を下げる。


「承知致しました。必ずや鳳様の期待に答えてみせます」

「そう気張るな。お前は良くやっているぞ」

「いえ、まだ足りません。鳳様の右腕として恥ずかしくない成果を上げてみせます」


 顔を上げた世良は凛とした姿勢で敬礼をした後、規則正しい足取りで退室した。残った鳳はじっと虚空を見据えたまま、その先にある何かに思いを巡らせ、呟いた。


「機は熟しつつある――我らが野望のためにも、特行などというふざけた組織は滅ぼさなければならぬ……絶対に、だ」


 ギリギリと音が鳴るほど強く握りしめた聖痕民潭の主の拳からは、黒ずんだ血が零れ落ちていった――。

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