龍の巣喰う惑星
悠之介
序章 始まりの地、オーレンにて
第1話 ドラゴン討伐作戦
その日は、酷く土砂降りだった。
ぬかるんだ地面は足元を狂わせ、一歩一歩の足取りを重くする。降り注ぐ雨が鉛のように体にのしかかり、頬にあたる水滴には痛みすら感じた。
「――ダメだっ! ああっ⋯⋯!」
近くで放たれたであろう悲鳴も、雨の音にかき消されて僅かに認識出来る程度だった。
少女ヘルガは声の元へ顔を向けると、奥に潜んでいる狩猟対象に目を凝らした。しかし、ぶ厚い雲で覆われた森は夜のように暗く、生い茂る木々が邪魔をして視認することは出来なかった。
それでも、確かにそこにいるはずだ。今も尚、メキメキ、ミシミシと木々を踏み倒す音が聴こえている。
音のする範囲からして相当大きい獲物に違いなかった。時々聴こえてくる呻き声は地鳴りのように低く、そして、ずいぶんと高い位置から聞こえてくるようだ。そう、まるで頭のすぐ上のほうから……。
ヘルガはハッとした。
そして、身体は即座に動き出していた。
雨に濡れて重くなったボウガンを背中に担ぐと、悲鳴の聞こえた方角と真逆の方向へ、全速力で走り出した。
間髪入れずに、背後から突如として巨大な炎が現れた。その炎は、大粒の雨をものともせずに広がっていく。周囲の木々は激しく音をたてて燃え始め、雨空の下に半径十メートルはあろう火の海が一瞬にして出現した。
ヘルガは背後から迫る灼熱に痛みを感じながら、必死の思いで大地を蹴り進んだ。雨天下で暗いはずの森は、背後の炎のおかげで、今や目にしみるほど眩しかった。
「こっちだ!」
側方の茂みの奥から、男性の叫び声がした。見ると、小さな窪みに一人の兵士が身を屈めている。
ヘルガはすぐさま方向を変えると、その窪みへと滑り込んだ。轟々と音を立てた炎が頭の上を掠めたのは、その直後の事だった。
「クラム! 無事でよかった……!」
声の主はヘルガの師匠であり仕事仲間の男、クラムだった。
「こっちのセリフだ、よくあの至近距離から逃げてこれたな……!」
クラムは飛び跳ねた泥水を手で拭いながら、雨音にかき消されまいと大声で話しかけた。
「ほんとありがとう……おかげで、生きてる、まだ動ける……」
ヘルガは息を切らしながら、苦しそうに言葉を伝えた。炎の脅威から逃れ、敬愛する師匠と合流できた彼女の目元は、荒れ狂う炎と雨の背景には似つかない程に柔らかかった。
「背中が焼けたかと思った。ねぇ、防具とか燃えてないよね?」
ヘルガはクラムに背を向けて言った。
しかしクラムはもう既にヘルガに見向きもせず、ボウガンを構えながら炎の源の観察を始めていた。ヘルガは憂う目でクラムを一瞬見つめると、痛む背中を自分の手で優しく撫で回した。
「馬鹿言うな。この獄炎の中で防具だけ綺麗に燃えるわけないだろ」
クラムはいつにも増して素っ気なく、そして緊迫している様子だった。
もっと心配して欲しいという気持ちをぐっと抑え、ヘルガはクラムに倣って窪みの影から炎の源を覗き込んだ。
途端に、ヘルガの心臓が縮み上がった。
あたり一面が炎に包まれている。大雨が降り注いでいるせいでそこら中から黒い煙が立ち登り、湿って熱せられた大気は景色をうねらせていた。
ついさっきまでヘルガが走っていた場所は、今まさに、焦土へと変貌を遂げている最中だった。
「何なのこれ……。あの一瞬で、こんな事になったってこと……?」
大雨にも容易く打ち勝つ炎。それを一瞬にして発現させたという事実を前に、ヘルガは全身が恐怖に竦むのを感じた。
「信じたくねぇけどな」
クラムは手にしたボウガンを一際強く握りしめ、荒々しく落ち着きない声で吐き捨てた。
ヘルガはクラムの方を向かずとも、ボウガンを持つ彼の手が震えているのを感じ取った。彼の荒い呼吸は、いつもの冷静で余裕のあるクラムとはまるで違っていた。
ヘルガは無言でクラムの視線の先に目をやった。
先程までヘルガが立っていた場所に、大きな影が蠢いている。
メキメキと激しい音が鳴り、目の前の木々が次々と焼け落ちてゆく中、その影は徐々に姿をはっきりとさせていった。
それは、一体の巨大なドラゴンだった。
自ら発した炎の中に何食わぬ顔で佇んでいるその生物は、陸上のどんな生物よりも大きく、そして何よりも強い存在だった。人間十人を丸呑みにするほどの巨大さを持つその口は、強烈な炎をいとも簡単に吹き出した。硬い鱗に大きな爪を有するその四肢は、一掻きで木々を真っ二つに割るほどに強靭だった。そして、巨体を持ち上げることの出来るその翼は、それが最も恐ろしい生物たる所以であった。
何処からともなく現れ、火を吹き、壊し、喰らい、そしてまた何処かへと去っていく。人類は常に、巨大なドラゴンに蹂躙されてきた。空を制するその存在に、人類は太刀打ちできたことなど殆ど無いのだ。
いったい誰がそんなものを相手にしようと思うのだろうか。
ヘルガもクラムも、この任務についた誰も彼もが、狩猟対象の姿を前に生きた心地を失っていた。
「聞いてた話と全然違う……」
ヘルガは弱々しく呟いた。ヘルガの頭は、目の前の状況を整理するのに必死だった。
それもそのはず、本狩猟作戦の対象は一体の小型のドラゴンと聞いていたのだ。小型とは通常、頭から尾の先までの長さがおよそ五から十メートルの個体を指すが、今目の前にしている相手はどう見ても三十メートルを超えている。このサイズのドラゴンは、殆ど滅多に人里近くに現れることはなく、珍しく姿を見せたときは、必ずや災害と言われるほどの被害を引き起こしてきたのだった。
無論、今目の前にする獲物は、討伐をしようなど露一つ考えてはならない存在なのだ。
「やりやがったなクソギルド。何が小型だ、何を見て言った……」
クラムの言葉は怒りに満ちていた。
「ねぇ……。これ、倒せる……?」
ヘルガは早まる呼吸を抑えながら訊ねた。
「普通じゃムリだろ。アレにボウガン当てたか?」
クラムはヘルガより一足先に冷静さを取り戻したようだった。手にしたボウガンを構え直し、片目を閉じてドラゴンに狙いを定めている。
「まだ当ててない。炎を吹くと思って、すぐに逃げ出したから」
ヘルガは少し悔しそうに眉をひそめた。ターゲットを前に逃げ出した事ではなく、既に先のことを考えているクラムを前に、ただ座り込んでいる自分を恥じたからだった。
クラムは何も言わず、数十メートル先にいるドラゴンに向かってボウガンを放った。
放たれた矢はドラゴンの首筋に命中した。しかし、全身を覆う黒銀の鱗に弾かれたようだった。クラムは続けざまに数発放ったが、やはりと言った顔で構えたボウガンを下ろした。
「全部弾かれる、硬すぎだ」
今度は、爆薬矢を手に取った。矢の先端に爆薬が仕込んであるもので、小型の草食獣であれば一発で瀕死に追い込む程度の威力がある。
「雨だよ。効くの?」
ヘルガは不安そうに問いかけたが、クラムは反応しなかった。
クラムが放った爆破矢は、ドラゴンの翼に命中した。
パンッ
小気味よい破裂音が、雨と炎の音の中を縫って僅かに聴こえた。
ドラゴンは軽い衝撃に驚いた様子で、矢の当たった翼を確かめようとぐるりと頭を回した。足留め隊が命中させたであろう捕獲ネットが、木々とドラゴンの体躯を複雑に絡めているのだが、ドラゴンが身体の向きを変えようとすると、ネットの燃えて脆くなった部分が音を立てて引きちぎれた。
「爆破矢は使えるな」
クラムは構えたボウガンを下ろしながら、やっとドラゴンから目を離した。その顔は、恐れと緊張で強ばったヘルガの表情と違い、覚悟が備わっているようだった。
「ねぇ、まさか戦おうって言うの? こんなの無理だよ、死人が出る前に引き返そうよ」
命からがら逃げてきたばかりなのに、ヘルガは再び近付こうなんてまっぴら御免だった。
「馬鹿言うな、ここで倒さなかったら村にこいつが来るんだぞ。今やらないで誰がこいつを倒すんだ」
クラムは冷静だった。何をやるか、もう頭の中で作戦を立てているのだろう。周囲の様子を観察しながら、クラムは喋り続けた。
「それに、もうすでに何人か死んでるはずだ。自分の命を無駄にするつもりは無いが、死んだ仲間の命も無駄にはしたくない。やれることを探して、試して、駄目だった時にやっと逃げる選択をするべきだ」
「でも……、危険すぎる!」
「先遣部隊の捕獲ネットが見えないのか? 今奴は飛べないし動けない。炎の射程範囲外にいれば……、まぁほんの少しの間だけど、死ぬことなく戦えるだろ」
「ほんの少しって言ったって……! どうやって倒すの? 使える爆破矢なんてあと数本しか無いだろうし、普通のボウガンじゃ弾かれる。ただでさえ雨で視界が悪いのに、こんなやつ、倒せっこないでしょ!」
二人は雨に打たれながらぶつかり合った。
「――翼を狙え。飛膜なら矢が通るはずだろ。捕獲ネットが機能してる今のうちに飛べなくさせるしかない。飛べなくさせたら……、一旦引いて立て直す。増援も呼ぶ。……おい、いい加減しゃんとしろ」
ヘルガが不安そうに狼狽えていると、クラムはヘルガの頭を軽く叩いた。
ヘルガは一瞬間を置くと、頭を降って頷いた。
やるしかない。
気持ちの整理は着いていなかったが、クラムがやる気である以上、ヘルガも行動するしかなかった。
「俺が陽動役で爆破矢を当てる。奴が俺に気を取られてる隙に反対側から矢を撃て。仲間がいたらそいつらにも翼を狙わせろ」
クラムはボウガンを背に担ぐと、自分は右に行くと合図した。ヘルガも弓を手に持つと、クラムの進む側とは反対側に身体を向けた。
「いつものお前らしく、笑ってろ!」
クラムが、どんと背中を押した。いつもの優しい声だった。振り返ると、クラムはもう走り出している。
ヘルガは背中に残った痛みを噛み締めながら、深く息を吐いた。
そして、再び全速力で森を駆け出した。
クラムが爆破矢を放ったのだろう、小さな爆撃音が後方から聴こえた。ドラゴンが驚いたような反応をして、クラムのいる茂みのほうへ首を傾けた。
さらにもう二、三発小気味よい破裂音が続くと、ドラゴンはクラムのいる方に向かって炎を吐き出した。
すかさず、ヘルガはボウガンから矢を放った。クラムへの攻撃に気を取られているドラゴンは、ヘルガのことには全く気が付いていないようだ。
放たれた矢は翼の皮膜に突き刺さった。だが、ドラゴンは微塵も反応を示さなかった。爆破矢の衝撃に比べれば、何でもないくらいのダメージなのだろう。
それでも、ヘルガは矢を命中させた事に小さな達成感を感じていた。クラムの安否が不安で仕方ないが、矢を放つことに集中することで気を紛らわした。
連続して六本を発射。全てが同じ翼の同じ箇所に命中した。
六本ともなると、流石に翼が損傷しているように見えた。それでも、まだまだ飛行能力を奪うには程遠いダメージだった。
「これじゃ、ほんとに埒が明かない……」
ヘルガはそう呟いたとき、足元に落ちているボウガンが目に止まった。他の兵士のものだろう。ヘルガの手にしているものより、一回り大きかったため、ヘルガは前進してそのボウガンに手を伸ばした。
その時だった。
「ヘルガ! 前だ!」
クラムの怒声とも取れるほどの大きな声に、はっとなって足元から目の前に目線を移した。
ドラゴンが、こちらを完全に目視していた。その距離、僅かに十数メートル。ドラゴンの炎の射程範囲。
足元のネットがちぎれたのだろうか。目を離した一瞬で、目の前までドラゴンが迫っていた。
ヘルガはドラゴンの目を見つめた。いや、目を離すことが出来なかった。巨大な眼には、恐怖に佇む少女がひとり写っていた。
――あれ、こんなに大きかったっけ⋯⋯。
体は一瞬で硬直し、その目の前の巨体に全身が震えているのが分かった。鳥肌、冷や汗、そして死の予感、全ての恐怖が一瞬にしてヘルガを呑み込んだ。
「バカ! 逃げろ!」
クラムの怒声がまた響いた。
その一声で、氷が砕けたかのようにヘルガの体から全ての緊張が剥がれ落ちた。
ヘルガはすぐさま逃げ出そうとした。――と同時に、それに気がついた。
クラムだ。
クラムがドラゴンの背に飛び乗っている。
なんて馬鹿なことを。危険すぎる。無謀すぎる。
「ダメ!」
咄嗟にそう放ったが、クラムはもうドラゴンの背にいた。そして、クラムは手に握りしめた大ナイフを思いきり振り上げた。
クラムの視線は、首と背の境目を捉えている。少し鱗の柔らかいところを狙うのだろう。しかし、例え刃が上手く突き刺さったとしても、それは決して致命傷になどならない。必ずや振り落とされ、すぐさまドラゴンの餌食となる運命だ。
そう、彼は死を持ってヘルガを救おうとしていた。
「クラム! だめだ! やめて!!」
ヘルガがそう叫ぶとほぼ同時に、クラムの刃はドラゴンの首元に突き刺さった。
不思議な出来事は、ここから始まった。
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