第二話
とはいえまだまだ見知った山の中。
散々歩いて、走って、逃げて、転がり回った山だ。
修行、稽古、鍛錬以外にだって食材調達だけでも毎日のように家と山の中を往復していたし、暇な時間の散歩や釣りだって山の中だった。
気を張るには早過ぎる。
山を降りるまでは気楽なもの――そのはずだった。
のに。
「…………あれ?」
ふと違和感を覚え、足を止めた。
たった一瞬。
瞬きをしたたった一瞬で、今自分が立っている場所がわからなくなった。
「え、ここ……………………どこだ?」
つい今の今まであんなにも自然に歩いていたのに。
どこをどう歩けばどういう光景が広がっていて、どんな場所に続いているのか、熟知している筈だったのに。
一瞬でわからなくなった。
知らない山だ。
「…………」
そう思うと、匂いや肌で感じる空気感までまるで別物のように感じてしまう。
一体何が起きたのか、と辺りを見回すフラトの身体が、ふらり、と揺れる。
「――あ」
眩暈。
慌てて足を踏ん張る。
が…………どんどん身体が傾いていく感覚が止まらない。
ぐらぐらと視界が気持ち悪く揺れる。
「っ…………」
ふらつきながら道の端に寄り、木に手を突き、身体を寄せて、体重を預ける。
呼吸が荒い。胸が苦しい。
ぐらぐらと揺れているだけでも気持ち悪かった視界が、とうとう回転を始めた。
「…………ぁあ」
脳味噌が締め付けられているような感覚に吐き気を覚える。
思考に
最早自分が何を見ているのかさえわからない。
はっ、はっ、と呼吸が浅くなる。
内臓がすり潰されたようにきりきり痛む。悪寒がして身体が勝手に震え始める。
今自分が立っているのか、座っているのか、倒れているのかすらわからない。
むしろ浮いてるんじゃないかとすら思う。
世界が、軋む。
世界が、歪む。
「…………はぁ、あ…………はぁ」
気を抜けば一瞬で手放してしまいそうな意識を必死に繋ぎ止める。
視界に意味はない。目を閉じて、呼吸だけに意識を傾ける。
荒い呼吸のペースを、深さを、調整して安定させる――少しずつ少しずつ。
吸って吐いて、吸って吐いて。
意識的にひたすら繰り返す。
痛みと吐き気に逸らされそうになる意識を強引に呼吸に戻す。
焦るな。焦るな。焦るな。焦るな。焦るな。
乱すな。
吸って、吐いて、吸って、吐いて――単調な行為を丁寧に丁寧に繰り返していく。
少しずつ、少しずつ、深くなっていくのがわかる。
体内に取り入れた大気が、酸素が、身体の中に浸透して血に混ざり、全身を巡るイメージ。
すっかり当たり前になっていたそのイメージ、呼吸法を強く意識する。
ぐるぐる、ぐるぐる、回って廻って周って巡って。
「…………」
大丈夫、大丈夫。
もう、悪化はしていない。
僅かにだが戻ってきている。復調し始めている。
焦らず、気を抜かず。
「すぅ…………ふぅ」
段々と身体が馴染んでいくような感覚と共に、呼吸が落ち着いてくる。
不思議なことに、呼吸が落ち着いてくると、それに合わせるように他の違和感も元に戻り始めていた。
脳味噌が締め付けられているような感覚も、すり潰されているような内臓の痛みも、確実にやわらいでいる。
心底からほっと胸を撫で下ろす。
脳裏を掠めた『死』が遠ざかっていく。
これまで体験したことのない程の強烈な身体の不調だった。
「…………ふぅ」
恐る恐る瞑っていた目を開けると、最初こそ少し
投げ出した足と地面が映る。
いつの間にか木の根元に座り込んでいたらしい。
体勢を変えず、出来るだけ身体から力を抜いて、木の幹に背中と体重を預け、もう一度目を閉じる。
本当に死ぬかもしれないと思ったとき、今自分が全く知らない山にいることなんてまるで考慮出来ずに這ってでもあの家に戻る選択肢が頭をよぎった。
甘えたな、と思う。
実際にそれが出来る出来ないではなく、気持ちが。
そんなことを考える暇があるなら、たとえ僅かでも現状を良くするために出来ることがないかどうかを考えるべきだった。
きっと。
こんなトラブル、これから旅を続けていく中でいくらでも遭遇するだろう。
逃げ出すならまだいい。
自分の命を救う為にそういう選択肢を取らなければならない場面はきっとある。
でも、目を逸らしてしまうのは駄目だろう。
リスクやトラブルなんて考え出したらきりがないのだから、そういうものを乗り越える癖を付けて行かなければならない。
大体こんなもの――これまでの地獄のような鍛錬を思い返せば、なんのこれしき、だ。
「すぅ…………ふう」
ゆっくりと、深呼吸を一つ。
嫌な鍛錬の記憶が蘇るくらいには、いらんことに思考を割く余裕ができた。
もう、痛みや吐き気のような感覚もすっかり抜けている。
手や足に力が入ることを確認してから、地面に手を突き、身体を持ち上げ、木から身体を離す。
「大丈夫、そうかな」
立ち上がっても、変な違和感はない。
深い、深い、深呼吸を一つ。
新鮮な大気が身体の中に入って来るのが気持ち良い。
伸びをして、その場で軽く跳ねてみる。
全身にちゃんと力が込められる。
まだ倦怠感は残っているが、これくらいなら、とフラトは再び歩き出した。
あとは動いているうちに段々と馴染んでくるだろう。
ここまで復調したのだからいずれ万全には戻るはず。
あまり気にし過ぎるのもよくない、と楽観的に考えることにして歩を進める。
全く記憶にない山道を。
振り返っても、ここまで確かに歩いてきたはずの道も見覚えのないものになってしまっている。
「一応『道』の上にはいるわけだし、このまま下ってみるか」
呟きながら止まることなく歩を進めていく。
のだが、数分もしない内にフラトの足が再び止まった。
「お?」
足下に僅かな異変を感じ、咄嗟にしゃがみ込んで地面に触れる。
「振動…………してるのか?」
触れた瞬間はすぐにそうとはわからないほど小さな振動だったものが、みるみる大きくなり、その振動に合わせるように轟音まで聞こえてきた。
最早振動は明確にフラトの身体を揺さぶる。
遠くから聞こえてきていた轟音も、馬鹿みたいにでかくなっている。
そう――まるで。
振動も轟音も、発生源がすぐ近くにまで迫ってきているような――
「っ!? …………いやいやいやいや、嘘だろ」
視界の先に現れた地響きの正体に思わず呆れたような声が出た。
「猪……………………なのか? あれが?」
巨大だった。
見たこともないくらい巨大な猪が、山道を爆進してきていた。
ただでさえでかく見えているその巨体が、近付くにつれて更に巨大になっていく。
高さにして三メートル以上、全長にすればその倍くらいはあるだろう。
しかも。
そんな巨猪の前を少女が走っていた。
灰銀色の髪が特徴的なその少女と、目が合う。
「――――っ!」
少女がはっとしたように目を見開いて、何かを叫ぶ。
何かしら必死に伝えようとしてくれているのはわかるのだが、いかんせん巨猪のまき散らす轟音がうるさ過ぎて聞こえない。
聞こえはしないが、こんな状況で少女が何を言いたいのかは容易に想像がつく。
つくのだが――。
「くそっ」
小さく吐き捨てる。
回れ右をしてあの速さで突っ込んでくる巨猪から少女と一緒に逃げ続けられるほどに体調は回復していない。
横の繁みに飛び込めばあるいは、フラトはあの巨猪をやり過ごせるかもしれない。
理由は知らないがどうやらあの巨猪は目の前の少女を追っている。
フラトだけなら見過ごす可能性は十分にある。少女のあの速さなら逃げ切れるかもしれない。
だが見過ごしてもらった後、再び何事もなかったかのように山道を下り続けるなんてできるのか?
無理に決まってる。
絶対気になるし、後悔する。
というか見る限りにおいて少女の表情はかなり険しいのだ。彼女の今の状況がピンチでなくてなんだと言うのか。
ここで見過ごしてしまったら、何もしなかったことに心底腹が立つだろう。
そんな旅の始まり方は、いくらなんでも最悪過ぎる。
――目は背けない。
これしきのトラブル乗り越えられなくてどうする。
考えろ、考えろ、考えろ。
二人で横の繁みに飛び込んだところで、そんなものは焼け石に水だろう。
あれだけの巨体と勢い、軽くそこら辺の木々を薙ぎ倒しながら進んできそうだ。
なら巨体故に空間が出来ている巨猪の足下、どうにかあそこを潜り抜けられれば、道幅一杯のあの身体なら容易に真後ろへの方向転換は出来ないのではないだろうか。
だが――真っ直ぐに足下目掛けて走って行っても素直に通してはもらえないだろう。どうやって隙を作る?
あんな巨大な相手に有効そうな道具なんて持っていないし、罠を仕掛けるような時間もない。
…………おや?
これは、詰んだのでは?
なんならもう色々と考えてる時間もなくなってきた。
となればまあ、後は一つしかない。
逃げないのであれば迎え撃つ――もとい、どうにか小柄である機動力を活かし、できれば視界を一時的にでも塞ぐ打撃を与えるしかあるまい。
ちょっと、いやまあまあ、そこそこ――あんな怪獣みたいな猪を相手にするのは怖いが生き延びるにはやるしかあるまい。
あんまり機敏な攻撃とかしてきませんように。
と。
覚悟と祈りを決め、フラトが少しばかり腰を落としたところで。
十数メートル先。
灰銀の少女が地面を滑るように急ブレーキを掛けながら反転した。
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