灰銀の華と行く魔術世界

鮮井落葉

第一部

第一章 封鎖地域――サワスクナ山

プロローグ

 真っ暗な山の中。

 光源は周囲をほんのりと照らす焚火だけ。

 全ての生き物が気配を殺したような静寂は不気味だが、周囲の物音が拾いやすくなるのはありがたい。

 少年は適当に拾ってきた大き目の石に腰掛けようとして、

「っ、うぐぇっ」

 気配とも呼べない『なんとなく嫌な感じがした』くらいの感覚に振り向いた直後、音もなく近付いてきたそいつに蹴り飛ばされ、呻きながら吹き飛んだ。

 咄嗟に顔周りを守りながら振り返った少年だったが、蹴り飛ばされたのは残念ながら腹。

 力を籠めてはいたものの、一瞬息が詰まる。

「っ、くっ…………かっ」

 地面に身体を打ち付け転がりながらも、

「はっ……………………はっ」

 手を突き、跳ねるように身体を起こす。

「ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……………………すぅ」

 残り少ない肺の中の空気を強引に出し切ってから、少しずつ酸素を取り込む。

 丁寧に丁寧に、焦らない。

「くそ…………」

 完全に弄ばれてるな、と思う。

 別に、周りの音が拾えるから、何か近付いてきたら流石にわかるから――などと思って、思い上がって、気を抜いていたわけじゃない。

 油断なんてしていなかった。

 そんなものが出来る相手じゃないのは重々承知の上。

 まあそれを言えば、こんな暗がりで焚火なんて自分の位置を知らせるような真似をしているのが『舐めた真似』ではあるのだが、昼間から散々追いかけ回され摂取できたのは少量の水のみ。

 ここでしっかりと食事をしなければ明日は逃げ回ることすら出来なくなると判断して、必要最低限だけ調理の為に火をおこしたわけだが。

 そんな甘えを咎められないはずもなし。

 だからこそ、来る筈だという前提で気を張っていたのだが…………。

 ああ……………………本当に。

 本当に――嫌になる。

 相手の化物さ加減も、いい加減何もできない自分にも。

「そう落ち込むな。反応できたじゃないか」

 既に自分を蹴り飛ばした人物の姿は見えない。

 大木の後ろか、それとも上か――妙に声が反響して位置も上手く掴めない。

「全然遅かったですけどね。もろに食らいましたし」

「いんや、そんなことはないさ。私が近付いた時点でちゃんと反応できていたよ。お前が気付いて、振り返り始めてから私は回転し始め、一回転して蹴ったんだから」

「…………」

 そんな余裕かまされていたのかよ、と益々落ち込みたくなる少年だった。

 というか自分の方が早く振り返り始めたのにも拘わらず『回転していた』ことを視認すらできていなかったとか、どんな体幹してやがるのだか。

「別に『何か』に気付いたわけじゃないですよ。言葉には…………ちょっとしにくいですけど、嫌な感じというか…………いや、もしかしたら別に何も感じてなんかいなくて、ふと、気まぐれに振り返っただけかもしれません」

 少年は不満そうに言う。

「そうまぐれみたいに言うもんじゃない。気まぐれだろうがなんだろうが、それは無意識にでも何かしら感じ取っての反射的な行動の可能性が高いんだから。特に、戦闘時や戦場に身を置いているときのそういう肌感覚は大事だからな」

 いつもなら自分がしっかりと構え直すような隙もなく追撃してきて、暫くはぼこぼこに殴ってくるのにお喋りとは珍しいな、と思いつつ言葉を聞く。

 機嫌がいいのか、それこそ気まぐれか――アドバイスじみたことを口にするその言葉を。

「…………肌感覚、ですか?」

「そう。言い方を変えればそれこそ一種の『気配』というやつさ。相手の視線、敵意、殺意、そういったものは見えはしないが確かに存在するし、感じ取ることができるもんだ。そういうものを感じて咄嗟に身体が動いたんだろうよ」

「そう…………ですかね」

 見えないのなら矢張りわからないな、と少年は曖昧に相槌を打つ。

「大体、最初の内はその、お前の言うところの『気まぐれ』だってなかったんだ」

 経験の賜物だよ、と言われる。

「だと、いいんですけど」

 本当に。

 そうだったらいいなと思う。

 だったのなら――これまで散々ぼこぼこにされてきた意味もあるというものだ。

 それを経験と言うのなら。

「それに正面切っての戦闘だって最近は私の攻撃を受けようと身体が動いてるじゃないか」

「上手く受けられたことはまだ一度もありませんけどね」

「くくく、そうむくれるな。まだまだガキのお前にそう簡単に防がれてたまるかよ」

 からからと笑われ、少年は小さく溜息を吐いた。

「まあこれだけ戦闘を繰り返しているのだから意識はしていなくても、無意識の内でも、私の視線、筋肉の動き、体重の掛け方なんかからどういう動きをしてくるのか、ちゃんと察して身体が動くようになってるんだろうさ」

「ですかねえ」

「ああ。普段からちゃんと相手のことを見ている、見ようとしている証拠だ」

「戦わせようとするくせに戦い方を教えてくれないから、こっちも必死なんですよ」

「それでいい。その調子で励めよ」

「…………」

 少年は答えを返さず眉根を寄せ、苦い表情をする。

 いつも、こうして調子がいいのだ。

 何となく少年が腐りそうなとき、心が折れ挫折してしまいそうになるとき、悩んでいるとき――そういうときに決まってこうして声を掛けてくれる。

 からかわれているようにも聞こえるが、どことなく――間違っていないと言われているような気がして、少しは成長できていると認められているような気がして。

 しっかり励まされてしまうのだから、ほとほと自分にも呆れる。

 人たらし、とはこういうことを言うのだろう。

「と、いうわけでその感覚は忘れないように。引き続き気を引き締めろよ」

 そう言うや否や、何の音もなかったが空気が弛緩したのがわかった。

 離れて行ったのだろう。

 一応周囲への警戒は解かずに焚火のところまで戻ると、少年が食べようと思って釣り、捌き、串に刺して火に掛けていた魚が消えていた。

「やられた」

 今度ばかりは大きく溜息を吐くしかなかった。

「僕なんかよりよっぽど簡単に、しかも沢山捕まえられる癖に、ものぐさめ」

 独白。

 毒吐く。

 少年は折角おこした焚火を消して、移動の準備をする。

 居所を知られた以上は夜の山だろうが場所を移す。

 一度襲撃したから、などと言ってこの場所にいる限り二度目はない、なんてことはない。寧ろそんな甘えを轢き潰すように上機嫌で襲撃を仕掛けてくるだろう。

 あれはそういう性格なのだ。

 だから少年は地面を蹴り、太い木の枝に飛びつき、岩を飛び越え、走る。

 夜目は利く方だ。

「気配と、先読み」

 口に出してみる。

 そんなもの、これまでだってずっと意識はしているが、あれを相手にさっぱり効果がない――ような気がする。

 さっきだって知らず知らずの内に背後に立たれ、蹴りの前に回転までされてる始末。

 先読みだって、自分の先読みを更に先読みされ、寧ろ自分の先読みは誘導されたものなんじゃないかという感覚に陥るなんてしょっちゅうである。

 あんな化物を相手に化かし合いを挑むことがそもそも馬鹿げているようなものだが、どうにかそれに勝てなければあれを相手にまともな戦闘など夢のまた夢。

 まず同じ土俵にすら立てないのだ。

 格が、次元が違い過ぎる。

「遠いな…………」

 そう――あれとまともに戦闘する未来はまだまだ遠過ぎてどうにもモチベーションにならない。

 取り敢えずは――手近な小さな目標。

 一撃。

 一撃、ちゃんと防いで見せよう。

 まずはそこからだな――

「……………………これ、手近なのか?」

 自分で自分の思考に首を傾げる少年だった。

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