第3話

「久悠ちゃん、そろそろ時間だけど大丈夫?」

 朝日が差し込む狭い部屋に、穏やかな女性の声が響く。

 久悠は古びた椅子に座ったまま眠りについていた。手の甲に刻まれた紋白端末を持ち上げると、時間はすでに朝九時になろうとしている。……しまった。寝過ごした。飛び起きた久悠は急いで納戸に吊るしていた服に着替えはじめた。狩猟に出かけ獲物を斃した翌日は決まってこうだ。どういうわけか寝坊することが多い。

 分解されたライフル銃と弾丸が転がる古びたデスク。ACMSが発行する竜討伐管理簿は更新されるたびに紙に印刷して壁に貼り付けている。ベッドはデスクの上部にあり梯子で登る背の高いタイプだが、いつも椅子の上で眠ってしまうので久しく使用していなかった。これらの家具が三畳ほどの狭い部屋に詰め込まれているが、これまで窮屈に感じたことは特にない。足元にあるバッグパックを蹴飛ばさないようジーパンを履き、小さな窓に下がる安物のカーテンを開くと、部屋の中に眩しいほどの朝日が広がった。

「久悠ちゃん」

 再び女性の声が届く。靴を履きがてらドアノブに掛けてあった『お構いなく』のサインプレートを部屋の外側に出し、足元に置かれていた洗濯物に足を躓かせながら、久悠はギシギシと音を立てて軋む階段を下った。

「あ、久悠ちゃん」

 階段の先はコーヒーの香りが漂う喫茶店だった。カウンターの奥には様々な酒の瓶が並んでおり、その手前に若い女性が立っている。久悠に気付いた彼女は優しい笑顔で軽く手を振った。

「ウェルメさん。ありがとうございます。あと洗濯も」

「いいのよ。昨日の今日で大変でしょう?」

「いえ。おれはそんな」

「でもそろそろお店を開く時間だったから。、みんな久悠ちゃんと会うのを楽しみにしているからね」

 そうですね――と、久悠は遠慮がちに頷いた。

 久悠が暮らしているのは、このウェルメというおっとりした女性が切り盛りする喫茶店が併設されたシェアハウスだ。住人は久悠とウェルメ、それに男女それぞれ一人ずつの計四名が暮らしている。喫茶店は、夜はバーになる。

 時計が朝九時を指し喫茶店が開店する。同時に、外で開店を待っていた客たちが列を作って順に入店を開始した。客層は平日の昼間ということもあり就労引退世代や家事専業者が多いようだったが、その共通点として、みなそれぞれペット竜を連れていた。種類もサイズも多種多様で、ニホントカゲのような指に乗るサイズの竜やリスよりも少し大きめの竜を肩に乗せている客もいる。ネコやイヌのような大きさで、首輪にリードをつけて飼い主と共に歩いて入店する竜もいた。

 ウェルメが切り盛りする喫茶店『喫茶竜』は、ペット竜同伴での入店が可能な店だった。近年そういった飲食店は増えてきているが、喫茶竜には竜の散歩メニューがあり、それが好評だった。飼い主は喫茶竜でお茶を楽しみ、その間に店員が竜を散歩させてくれる。特に身体が大きな竜は人間の子供のように日々エネルギーがあり余り、やんちゃで多動であることが多い。日々の散歩は竜にとって欠かせないものだったが、疲れ知らずの竜の散歩に付き合う飼い主は時折その日課に休息を求めていた。そういったニーズにいち早く気付いたウェルメは、おっとりした性格とは正反対の鋭い慧眼と行動力で数年前に喫茶竜を開店し大成功をおさめていた。散歩代行を標準サービスとした飲食店という営業形態を真似する同業者の参入が相次いだが、すでにその地域で確固たる地盤を築いていた彼女の店は現在に至るまで他の追随を許さない圧倒的な人気を維持し続けている。

 そして竜の散歩代行を久悠が担うようになってからは、さらに店の活気は増していった。

 今日も来店したお客様たちがいち早く久悠の姿を認め、〝久悠みつけた〟とばかりに大はしゃぎでぼさぼさ髪のその青年の元へと群がった。

「相変わらず久悠ちゃんは竜ちゃんたちに人気ね」

 大小さまざまな竜に取り囲まれる久悠をみて、ウェルメや飼い主たちが笑った。

 久悠は困ったような笑みを見せ、その場にしゃがんで竜を一匹一匹撫でていく。開店と同時に店に入ってきたのは、大型犬サイズの小型竜が三匹、猫サイズの微小竜が二匹、肩に乗るサイズの超小型竜が三匹、手のひらや指に乗るサイズの極小竜が五匹。鱗の色は様々で、竜のほとんどが有翼種だが、実際に飛べるのはそのうち数匹程度だ。

 極小竜が久悠の指から腕を駆け上がり、肩に乗った超小型竜にちょっかいをかける。別の超小型竜は久悠の耳をかぷかぷと甘噛みして遊び、微小竜は久悠の足元で身体を擦り付けたりして甘えている。小型竜は早く散歩に連れて行けと久悠の服を加え、それぞれ別の方向に引っ張ろうとしていた。それを、久悠の手が優しく諌める。

「気持ちはわかるけど、散歩は順番だ。ちゃんと自分の番が来るまでいい子で待ってるんだぞ」

 超小型竜と極小竜はまとめて散歩が可能であり、微小竜も二匹くらいなら同時にいけそうだ。一方で小型竜は力が強く、三匹ともなれば馬車が引ける。人間一人が制御できるパワーではないので、小型竜については一匹ずつ散歩するしかない。散歩時間は、小型竜は一匹につき一時間ほど、それよりも小さい竜が三十分程度となる。

「はい! 竜ちゃんたちと飼い主のみなさん!」と、唐突にウェルメが店内に向け呼びかけた。「久悠ちゃんは、散歩ボランティアさんです! このお店のサービスを維持するために無償でお手伝いしてもらっています。つまり、あくまで補充要因なので、久悠ちゃんとお散歩できたらラッキーくらいに思っててくださいね!」

 もちろん竜も飼い主も常連客であるので、ウェルメの話は竜も含めみな理解している。だからこその竜たちのこのアピールなのだ。そしてだからこそ、ウェルメは何度も同じ話をするようにしている。とはいえ店舗スタッフによる散歩が不評なのかというと決してそのようなことはなく、竜たちは久悠以外との散歩も毎回十分に楽しんで堪能し、帰ってくることもできている。

「本当、不思議よね」

 相変わらず竜たちにもみくちゃにされている久悠に、ウェルメが微笑みかけた。

「どうして久悠ちゃんだけそんなに人気なんでしょうね」

 それこそ久悠にもわからないことだった。あまつさえ自分は、昨晩、竜を殺している。

 スコープの中、視界を四つに分割する照準線レティクルの黒線が捉えたあのイエロースパイニードラゴンの表情が、まだ久悠の記憶の中にありありと残っている。久悠が発砲の準備を終えた音に反応し、「なんだろう」と、好奇心が残る表情でスコープを介して久悠と目が合った。竜にほとんど表情はないはずだが、久悠の目には、散歩を楽しみにしている竜たちと変わらない、竜が久悠に駆け寄ってくるときと同じ〝久悠みつけた〟という嬉しそうな表情をしているように感じられた。その竜と久悠の面識はないはずだが、きっとだれでもよかったのだろう。とにかく孤独な森の中、その竜は安心を求めていたのだ。これまで人からしか安心を得られていなかった竜は、久悠という人の存在に気付き、咄嗟に彼が安心を提供してくれる存在だと認識したのだろう。かつて飼い主との間にあった確かな温もりの記憶がもし呼び起こされていたのだとしたら、せめてその安らかな思い出に触れている間に、即死させてやることができただろうか。

「久悠ちゃん」

 ウェルメさんの声が、無心で竜たちを撫でていた久悠の意識を呼び戻した。

「今日はこの子をお願いね。小型竜、リトルグリーンバードドラゴンのミドリちゃん」

 指名された竜はその意味を理解したのか、嬉しそうにしながら久悠に駆け寄ってきた。リトルグリーンバードドラゴンは大型竜グリーンバードドラゴンの小型タイプで、四本足ながら前足に翼がついている羽竜に属するドラゴンだった。基本的には前足をついた四足歩行だが、走る時は前足と身体をちょこんと上げて後ろ足だけになる。飛翔能力は高く、羽ばたきによって自力で飛び立つことができる。人を持ち上げる力はないものの散歩の際は立体的な動きに注意する必要がある。とはいえ、地竜種や翼竜種に比べたら力が弱いので、小型竜の中では比較的散歩は簡単な方だ。けれど、この竜専用の首輪とリードを久悠に手渡したのは細身の女性で初老だった。彼女の力では、たしかに小型竜の羽竜とはいえ苦労するだろう。

「久悠ちゃん、いつもありがとうね」

 品のある口調で彼女は久悠にチップデータを転送しようとしたが、さりげなく久悠はそれを断った。

「無償でやってるので」

「でも、少しはこれで贅沢したら? そんなに多くはないけれど」

「竜と一緒にいる時間が好きなんです。それ以上の贅沢は、特に」

「そう?」

「はい。お気持ちだけで」

「本当に久悠ちゃんは竜のことが好きなのね」と、その様子を見ていたウェルメが微笑んだ。「そういう所が竜にも伝わって両想いになっているのかな」

 さぁ、どうでしょうね。愛想笑いをした久悠はミドリの頭を撫でながら「じゃあ、行こうか」と声をかけ、竜に首輪を取り付けた。

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