第1話
青白い光に当てられて、足元が確かな場所だけを選んで疾駆する。
辺りは一面の青珊瑚。木に地面に岩に光る結晶がびっしり張り付いた宝石のような森をひた走る。
夜だというのに発行する鉱石が木に岩に地面にびっしり貼り付いているおかげで視界は何ら問題ない。まるで大きな宝石箱の中にいるようだ。
イグナートは小柄な肉体を駆使して、兎のように巨木の根を蹴って飛び、猿のように枝を掴んで飛んでいた。追手の数は数えるのも馬鹿らしいほどの大群だった。
さながら黒い津波だった。鉱石喰いと呼ばれる、鉱物を主食とする巨大ムカデ。
イグナートも速かったが彼らはもっと速かった。
木々が複雑に入り組んだ地形をまるで河に流れる木ノ葉のように滑らかに流麗に駆け抜けていった。イグナートは滞空時間に振り返り、何度も間合いを再確認する。
もうじき追いつかれる。捕まる。捕捉されるまで三十秒ほどといったところか。
異名通り、石を喰らう彼らにとって見ればイグナートは食物ではない。狩るべき害獣だった。イグナートの課題は彼らが特に好んで食らう青白い結晶を盗むこと。第二に可能であれば彼らの体液をサンプルとして持ち帰ることだった。
他人の物を採るときは決まって交信を試みていた。平和的に解決できるのであればそれに越したことないし、失礼極まりない所業の自覚はあったので懲りずに続けていた。
まぁ、上手くいった試しはない。
書物に記されていた僅かな大百足の声音を真似て、渾身のボディランゲージを小一時間繰り返すと、イグナートは食べられかけた。
結果は今に至る。
自らの餌を取られ、同胞を傷付けられたとあっては怒り狂うのも無理からぬこと。
喰い殺さんと迫る鉱石喰いの影から少々の結晶石を盗み出し、もっとも手近な個体の首に山刀で切れ込みを入れて青白い体液を頂戴すると全力遁走を開始した。
疲労はない。イグナートの強靭な肉体は境界面を超えた青珊瑚の森に適応しており、肺に取り込む栄養が全身に行き渡ると怪力乱神を発揮していた。
異常な怪物に追い縋られても尚、逃げるという行為が成立するイグナートもまた怪物に伍する特異な存在といえよう。
急斜面に差し掛かると太い枝に飛び乗って、弾みをつけて宙に向かって大ジャンプを敢行した。
降りる先はアリジゴクのような穴の中央に座す巨岩だった。灰色のフジツボのような不明生物がびっしりと張り付いており、表面を軽く擦るとイグナートはしまったと思った。寄生された代償か岩肌は石灰のように脆く、そこかしこにヒビが入っていた。
避難場所としてはあまりに不適。自分の判断を呪った。
だが、場所を移そうにももう時間がない。観念して岩肌の隙間を縫うようにイグナートは進んでいくことにした。
鉱石喰いの群れが巨岩を見つけると、そのうち先行した何十匹かが斜面を降りて巨岩の前に迫ってきた。 鉱石喰いは小さな盗人が隠れていると気付いていた。首を大きく振り回して鞭のようにしならせると、標的のいる隙間へ首を槍のように突き込んで来た。
溝の奥でイグナートは腰の山刀を抜き放ち迎撃する構えを取った。
内心、絶望的だと思っていた。手元の山刀で巨大な牙が受けられるはずもなく、隠れ場所に選んだ岩は風化が進んでいるのか余りにも脆い。万事休すだった。
だが鉱石喰いの牙はイグナートまで届かなかった。
彼らを止めたのは、いや、つまんだのは
フジツボに擬態していた首の長い鳥のような異形が何匹を姿を現し、鉱石喰いを捕食し始めた。
初めて見る光景にイグナートは舌を巻いた。ここは彼らの住処であると同時に狩り場なのだろう。
幼年期は兄弟たちと一つの岩の中で共同生活を営み、近寄ってきた獲物を喰らうのだ。
期待は薄かったがどうやら的中したようだ。やけに間取りの広い空間があると思い、イグナートは何者かがいるのではと考えた。
だが一難去ってまた一難。
鉱石喰いの危機は去ったが、次は岩から脱出するという難題があった。
クビ長鳥にしてみればイグナートは小さすぎて食指が伸びないのか、しかし鉱石喰いを踊り喰いすることでヒビがどんどん形状変化していた。拡張される分には好都合だが、狭くなっている。
このままでは押し潰される。
上を目指して決死の登坂をするも、揺れに揺れて指が引っかからない。
山刀を挟んでヒビの圧迫を支えるが大きく歪曲してぽっきりと折れた。
ぐんぐん溝は狭くなっていき、身動きは全く取れなくなっていた。
なるほど手詰まりだ。これで何度目だろうか、死を覚悟した。
我ながら落ち着いていて、悲壮感も何もなかった。死ぬ時は死ぬ。
それを受け入れる準備はずっと前からしてきた。そう、死ぬときなどこんなものだ。
仏頂面の眼前に救いの糸が垂れ下がってきたのはその瞬間だった。
「捕まれ」
軋むロープから流暢な、柔らかい男の声が漏れ出てきた。
イグナートは声の主に従ってロープを掴むと一気に引き抜かれて岩から脱出した。
ロープは物理法則に反する非常識な軌道を描き、まるで筋肉のように力強く触覚のように繊細に駆動していた。そのままロープに掴まったイグナートは眩しいばかりの青珊瑚を飛び抜けていった。距離にして200メルといったところを瞬く間に移動すると、樹上に設置された大きな木造の家屋に引っ張り出された。
木材をただ寄せ集めたようなあばら家だったが、
「危なかったね」
ロープの主、栗毛の端正な顔立ちとした青年が玄関前で座っていた。
イグナートは服にこびりついた細かい枝葉や埃を払い除けると大きく息を吐いて座り込んだ。緊張が緩み、大粒の汗を垂らして隙間だらけの床にだらりと寝っ転がる。
「ナサニエル、俺は生きているのか」
「ああ、生きているよ。僕が助けてあげた」
ナサニエルと呼ばれた青年は労をねぎらうようにイグナートのリュックを自分の肩にかける。
「お……重いよこれ」と相当な重量に驚くが半ば笑みが溢れる。学友が課題の品を確かに持ち帰った証拠だからだ。リュックを開いて中身を確認すると、森で見かける結晶石よりもさらに深く青白い宝石が、そして針のような吸口のついた麻袋には青く光る体液が詰まっていた。
ナサニエルはリュックが重すぎて足が止まってしまった。イグナートはそれを笑いながら、
「もう少し軽い石を選べばよかった。じゃなきゃ普通に逃げ切れたのにな」
「全く、大したものだよ」
ナサニエルはそう言って満面の笑顔を作った。掛け値なしに称賛をイグナートに送りたかったのだ。
だが重い。すぐに苦悶の表情へと塗り替わる。
イグナートは大の字の姿勢から跳ね起きると、戦利品を学友から取り返して悠々と持ち上げる。
「あっいいのに。僕が持つから」
「ヒイヒイってたくせに強がるな。ところで今晩はなんだ」
「シチューだよ。さっきまで煮込んでたからすぐ出せるよ」
それはよかったとイグナートは期待に胸を膨らませた。
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