矢車菊の花咲く丘で
六道イオリ/剣崎月
第1話
(相変わらずあの引きはうまいわ。後編が楽しみね)
カサンドラは昨晩読み終えた、この国の国王を揶揄する大人気小説――エモニエシリーズの最新話を思い出しながら、華奢なパラソルを片手に初めて訪れた平民の墓地を散策していた。
「お嬢さま、この道を抜けた先に、広場があります」
アイスティーを詰めた水筒に陶器のカップ、ハムとトマトのサンドイッチ、色とりどりのピクルス入りの瓶などを詰めたピクニックバスケットを持ち、カサンドラの斜め後を歩いていたメイドが声をかける。
「そう」
メイドの他に同行者はもう一人――腰に剣を佩いた護衛がカサンドラたちの、前を歩いている。
墓地の広場へと続く小径。
墓地とは反対側には背の高い木々が並び、小径へと枝を伸ばし、モザイク石畳に木漏れ日が煌めく。
「あれは……」
帽子を押さえながら、木々の切れ間の木漏れ日を見上げながら歩みを勧めていたカサンドラは、護衛の声に視線を進行方向へ――樹木側に上半身が隠れ、小径に足が投げ出されている人の姿が目に飛び込んできた。
「カサンドラさま、少し離れていてください」
本当に倒れているのかどうかを確認すべく――いきなり襲い掛かってくる可能性もあるので、護衛が一人で向かう。
「…………共鳴?」
護衛と倒れている人を眺めていたカサンドラは、いきなりの神代の血の共鳴に驚いた。
(ファランが確認している人間が神代……いいえ、違う! すぐ側に)
勢いよく振り返り――真後ろに立っていた人物に青い帽子のつばがぶつかり、石畳に転がり落ちる。
(いつのまに?)
小径を歩いていたのは、カサンドラたち三人だけ――護衛が離れたのも、小径に人の姿が見えなかったからのこと。
「お前は……」
「どうなさいました、お嬢さ……きゃあああああ!」
カサンドラの声を聞き、振り返ったメイドが、真後ろに立っていた不審者に気付き、悲鳴を上げた。そこでやっと護衛が異変に気付き――
「カサンドラさま!」
護衛もいきなり現れた不審者に驚くもすぐに駆け寄り、カサンドラの腕を強めに引き、背後に立っている人物から引き離す。
確実に引き離そうと力を込めて引っ張ったので、勢いがついてレースアップブーツの踵が、石畳のくぼみにひっかかりカサンドラは蹌踉めき、石畳に倒れ込みかける。
メイドはピクニックバスケットを放り投げ、カサンドラに手を伸ばして受け止め、
「大丈夫ですか? お嬢さま」
クッション替わりになったメイドが、声をかける。
「わたくしは大丈夫よ、クララ」
クララに乗っかかったままだが、不審者へと視線を向ける。男は護衛が突き出した鋒を前に戦くこともなく、降参とばかりに両手を上げる。
「危害をくわえるつもりはない」
スリットが深く入った上着と、白いズボンという乗馬服姿の男は、小首を傾げ――
「離れろ!」
「初めまして、ゼータの姫君」
護衛の警告を無視して、カサンドラに話し掛けてきた。
護衛越しに見える男の腰に下がっている、特徴的な武器――上着からのぞく、光を反射する金属製の動物の背骨によく似た形状で、鞭のように三重に巻かれている”それ”は、カサンドラの実家の領地に面する縁海の向こうで使われている。
(帝国の将……それなら、共鳴しても不思議ではないわね)
カサンドラは立ち上がり、倒れたメイドに手を貸して立ち上がらせてから、名を尋ねた。
「お前、名は何というの」
「そうだな、ちょっと名乗れないので、ハンス・シュミットと呼んでもらえれば」
返ってきたあからさまな偽名――だが、地位のある人物が偽名を名乗るのは、珍しいことではないので、カサンドラはそれ以上は聞かなかった。
興味がなかったということもあるが。
「そう。ところで、あの倒れている人は、お前の仕業?」
「いいや」
「フォルラン、あの人の様子は?」
「倒れて頭を打ったようです。意識はありませんが、呼吸はあります」
「そう……?」
カサンドラが少し注意を逸らしただけで、すでにハンスと名乗った男は消え、
「こいつは、先代のホルスト公だぞ」
倒れている人物の側にいた。
護衛のフォルランも驚き、メイドがいつの間にか移動していた男に、戦き悲鳴を上げる。
「ひぃぃぃ! なに、あの人」
噂に聞く「帝国の神兵」の動きを目の当たりにし……たが、
(名乗るつもりはないけれど、帝国の将であることは見せつけたいということかしら)
「そうなの。お前、ホルスト卿を連れてきなさい。クララ、バスケットを拾いなさい。帰るわ」
カサンドラにとっては、どうでもよいことだった。
「俺が?」
「そう、お前が」
「えっと……」
「早くなさい。倒れているのは、怪我人なのよ」
カサンドラは有無を言わせず――命じられた偽名の男は、くすくすと笑いながら倒れていた先代ホルスト公爵を抱え上げた。
「わたくしの馬車に乗せたら、お前はホルスト卿はゼータ邸にいると伝えてきなさい。その後は帰っていいわよ」
「冷たいな」
「そうかしら?」
「エーリヒ・バースクレイズに冷たいって言われない?」
エーリヒ・バースクレイズとはカサンドラの婚約者で、この国のみならず、近隣諸国でも有名人――悪い意味で。
その婚約者であるカサンドラだが、悪い影響は一切受けていない。
「エーリヒと会話なんてしないわ」
その最たる理由が、婚約者へ無関心。好意、若しくは悪意など、感情を寄せていたら、何か言われただろうが、カサンドラは完全な無関心を貫いていることで、生まれながらにエーリヒが背負った悪評とは、無関係でいる。
「そうなのか」
カサンドラは自分よりも、頭一つ以上背の高い偽名の男を見上げながら、目を細めた――
「ええ、そうよ」
偽名の男はホルスト卿に応急手当を施し「伝えてくる」と言い残して去り、カサンドラたちは自宅へと引き返した。
(帝国の将が、なぜバースクレイズ王国の平民墓地に足を運んだのかしら? わたくしのように、散歩が趣味なのかしら)
墓地は散策コースとしては、珍しいものではないので、カサンドラはそんなことを考えた。
予定よりも随分と早く帰ってきたカサンドラに驚き、急ぎ出迎えにやってきた家令に指示を出し――カサンドラは庭で、昨晩読んでいた本を再び読み返し、ピクニックバスケットを開きのんびりと過ごす。
頭部を負傷していたホルスト卿だが――
「御本人でいらっしゃいました」
カサンドラは偽名の男の発言を疑っていたが、診察にあたった侍医によると、ホルスト卿本人で間違いないと言われた。
「そうなの」
「頭の怪我というものは傷が深くなくとも出血が激しく、ホルスト卿は禿頭ですので、余計に目立つのです」
「そういうものなのね」
カサンドラはやや薄くなっている侍医の頭をちらりと見て――ホルスト卿はその日のうちに迎えが来て、本人の邸へと帰った。
あのふざけた偽名を名乗った帝国の将に、もう会うことはないだろう――カサンドラはベッドの中でそう思いながら睡魔に身を委ね、彼女に流れる神代の血に意識を沈めた。
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