第二章 風花 ⑤


 ――ガラリ。


 授業終わりに、教室の後ろ扉が開く。

 扉の向こう側から「魁斗くん」と声を潜めながら自分を呼ぶ声がする。


 目を向けると、先ほど貸した教科書を片手にこちらを覗いている風花が居た。あいかわらずの無邪気な笑顔。自然とやっているのか首だけをちょこんっと傾げて花びらめいた唇を緩ませている。


 魁斗は席を立つとチクチクと刺してくる男どもの視線をかいくぐり、風花の方へと足を運ぶ。教室と廊下の境界線上で足を止めて、風花と対面。


「魁斗くん。これっ、ありがとね」


 教科書を両手に持ち直すと、スッとこちらに教科書が差し出される。受け取りながら、風花の顔を見て、


「うん。全然いいよ……そういえば、風花さん…」


「風花でいいよ」


「……風花……ちゃん。おれの教科書濡れてなかった?」


 涎がついていなかったかを確認。

 

 さっきはなぜかイチかバチか神に祈ってしまったが、ついていたのなら謝らなければ。


 聞くと風花は不思議そうな顔で形のいい眉を上げた。


「ん、濡れてる? なぁにそれ? どういうこと?」


「あ……濡れてなかったならいいんだ」


 涎がついていなかったことに安心すると、にっと笑って、片手に持った教科書を掲げる。クールぶって後ろに振り返り、すさすさ立ち去ろうとするが、


「あっ! 魁斗くん!」


 足を三歩踏み出した時に、風花に呼び止められる。


 振り返ると風花は、えっと……と囁きながら、体をもじもじとさせている。恥じ入るように目を伏せて、無意識のうちに両手の指を組み替える。自分を落ち着かすように息を吸い、ふうっと吐く。何度かの深呼吸を繰り返して目を開いた。流れるように片耳に髪をかけると、少しばかり頬を桜色に染めながら、上目がちに魁斗を見上げてくる。


「あのさ……連絡先、教えてくれないかな?」


「えっ?」


 想像もしていなかった言葉に、しばらく放心。

 

「連絡先……ダメ?」


 続けて風花が俯きがちに言った。瞳を潤まして、頬を桜色から薔薇色へと染めて。そして、魁斗の制服の袖を指先でぎゅっと掴んできた。


 途端に意識してしまう。


 衝撃的な美少女が、連絡先を……くれ、だって?


 気を失いそうな可愛い顔と仕草に、脳内を破壊されかける。そして、いつのまにかポケットからスマホを取り出していた。


 ハッ! と意識を取り戻す。


 こんな教室の扉付近でそんなやり取りをしているとみんなに見られてしまう。


 急いで教室から出た。


 連絡先を交換し合っているのも、教室内の男どもには見られてはならない。

 

 風花を連れ、なるべく廊下の隅に行く。その窓辺に背中を預けて、風花に向けて何気ない顔でひょいっとスマホの画面を見せた。風花はスマホの画面を覗き込みながら、自分のスマホをすいすいと操作。


「うん。登録完了!」


 ジャジャーン、と効果音を鳴らし、なんとも嬉しそうにスマホのディスプレイを見せてくれる。そこには紅月魁斗と表示された自分の名前が映っている。


 うん。これは、ぼくの名前だ……。


「わたしのも入れとくねー」


 風花にスマホを手渡すとすいすいと自分の連絡先を入れている。入れ終えるとスマホを返してくれ、


「あとでメールを送るから、ちゃんと確認してねっ! あと、ちょっと気になったんだけど……手を見せてくれる?」


 唐突にそう言われ、一瞬だけぽかんとする。


 見せようとする頃には風花に手を取られて、ぐいっと持ち上げられた。風花のぱっちり二重の真ん前まで腕を上げられ、魁斗の手のひらをじーっと見つめる。


 視線がくすぐったい。


「えっと……風花ちゃん?」


 魁斗は美少女に手を掴まれ、上ずりそうな声で尋ねるも、風花は真剣な顔つき。いまだに手のひらをじーっと眺めている。


「やっぱり……」


 確認し終えたように風花が呟く。そして、顔を上げると二重の奥からキラキラと光って見えるその瞳で目を合わせてくる。


「魁斗くん、手が乾燥してるよ」


 握られている手を風花はくるっと翻して見せてくれた。


「えっ、あ、ああ……おれ、冬は手先とか乾燥するんだ、昔から……その、乾燥肌だから……」


 どうやら手の乾燥具合を見ていたらしい。


 風花がようやく手を離してくれると、制服のポケットに手を突っ込んでごそごそとなにかを探す。そして、取り出したのはハンドクリーム。キラキラと光るクリスタルのような蓋に色鮮やかな薔薇のパッケージで、なんとも女の子らしい可愛いデザイン。


「これさ保湿ばっちりだし、しっとりするからつけてみなよ!」


 くるくる、きゅぽん、とハンドクリームの蓋が取られる。


「え? う、うん。ありがとう」


 戸惑いがちに答えるも、魁斗はハンドクリームを受け取ろうと手を差し出す。


 しかし、風花が手を引っ込めた。なぜか己の手に、にゅっとクリームを出し始める。


 えっ……?


 風花の細長い人差し指の指先から第二関節まで贅沢にクリームを出し終えると、自分の手のひらにぬりぬりと塗りたくる。


 えっ、なんで……おれにじゃないの?

 

 魁斗の差し出した手は空中で彷徨う。風花のおかしな行動を黙って見守っていると、風花が、ニコッと微笑んだ。


 いや、ニコッじゃなくて。なにがしたいの、この子……。


 そして、風花が彷徨っていた魁斗の手を取る。

 クリームを塗りたくった風花の手が絡んでくる。


「はえっ……!?」


 思わず目をみはった。

 風花のその行動に瞬間凍結されたかのように、体がかちんこちんに固まる。しかし、すぐにその凍結は溶かされる。


 互いの指が絡まり花の香りがしっとりと手肌へと溶け込んでいく。それと同時に魁斗も溶けそうな心地だった。手のひらだけでなく、手の甲までもがぬちゃぬちゃと塗りたくられ、ついには指の一本一本を舐めるようにクリームが塗られていく。


「あうっ……」


 変な声が漏れてしまった。


 それでも風花は最後に手をマッサージするように塗りこんでいく。決して、ごしごしと強い力でこするのではない。あくまで優しく、されど官能的に、焦らすように。


 なんだこの手つきは……す、すごい……プロだ……。


 なんのプロかは知らないが、なぜかそう思ってしまった。

 それほどまでに頭が、ぱっぱらぱーの夢心地。


 風花は塗り終えると、少し挑発的にも見える顔で、にっと口の端を上げる。


「はい、終わり」


 握られていた手が離れる。

 恐ろしいほどにハンドクリームは肌に馴染んでいた。魁斗は、ぽやぽやとした心地のまま、


「あ、ありがとうございました」


 感謝の気持ちを伝えた。

 一瞬なぜかお金を払った方がいいのか、と混乱した頭で思ったのだが、それはおかしいと我に返る。


「どういたしましてっ」


 にこり、と風花は無邪気な笑みを頬に浮かべた。


 やっぱり、この子……妙に官能的……。


「じゃっ……じゃあ、次の授業始まるから……こ、これで……」


「うん! またね、魁斗くん」


 脳を完全破壊された魁斗はふらふらとおぼつかない足取りで教室に戻る。男どもの視線が一様に突き刺さってくるが、もはや何も感じない。ハンドクリームを塗られた手のひらが熱く、先ほどまで夢心地だったのだけは覚えている。


 求められるままに連絡先を交換したけど……現実か?


 なんだか、おぼろげである。しかし、頭の中には記憶があった。


 その記憶が正しいのか、ポケットからスマホを取り出して画面を見る。ディスプレイには村雨風花の文字がたしかにあった。


 現実だ……。


 脳内では何度も風花の顔が思い浮かぶ。

 自分の手からはチューベローズの甘くて艶やかな香りが漂ってくる。思わずうっとりとして、鼻に手のひらを近づけると、すんすんと匂いを嗅いでしまった。





 ※※※





 教室に戻ってきた魁斗に向けて、男子たちの視線が冷たく突き刺さっている。女子たちは「もしかして、あの二人って……」などと肘をつつき合って好奇な目を向けている。そんな目線が一様に向けられている中、平気な顔……というよりは、なんだか虚ろな顔でふらふらとしており、おぼつかない足取りで自分の席に着席していた。


 そんな魁斗の様子を見て累は目を瞬かせる。すると、前の席に座っていた好が声をかけてきた。


「ね、ね、ね、魁斗くんと風花ちゃんってさ、もしかしていい感じなのかなっ!? ラブ的な感じでっ」


 明るい顔で恋バナという名の女子トークを展開させていく予定だったらしい。だが、累は……


 ――ベキッ


 なにかが折れた。


「ん……? 累ちゃん? なんか変な音……」


 それは物理的な音だった。

 累は折れた物を見つめて、答える。


「……なんか、シャーペンが折れちゃったみたい」


「え、シャーペンッ!? 芯じゃなくて!?」


 好の目が大きく見開かれる。


「うん」


「へ、へぇ……珍しいこともあるもんだね……」


 女子トークは強制打ち切り。

 再び魁斗に目線を向けると、周りからの殺意のこもった視線が直撃している。だが先ほど同様、魁斗はまったく気にする素振りをしていない。妙にぽやーっとした顔のままでいる。目も定まっていない。そして、自分の手のひらを見つめると鼻先に近づけさせてすんすんと匂いを嗅ぎ始めた。


 気持ち悪っ!!


 思ったと同時に、雷が落ちるみたいにものすごく不快感を覚えた。


 な、なんだろう、この不快感は……。前にも似たような感覚を受けたことがあるけど……にしても……。


 もう一度、魁斗を見た。

 みんなの嫉妬のこもった視線を一身に受けながらも、いまだに魁斗はすんすんと自分の手のひらの匂いを嗅いでいる。


 なんか気持ち悪いし。見ていて腹ただしい……。


 胸には、重く苦しくなるような圧迫感。


 なんでだろ。


 見ていられないので、魁斗のその先、窓の外へと視線を逃がした。


 ベランダに飾られてある鉢植え。

 雪をかぶった赤色のシクラメンがメラメラと燃えるようにこちらを見ていた。

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