第八章 わたしは月に手を伸ばす ②
窓辺に肘をついたわたしは、ぼーっと夜空に浮かぶ月を見上げていた。
夢の時間はあっという間に終わり、魁斗は皆継家に戻って行った。
遅いから泊って行けばいいのに、と誘ったが、あいつは妙なところが真面目で、「そういうわけにもいかないだろ……」とか言って、ひとりで夜道をてくてくと歩いて帰っていった。
べつに家族なんだし……なにするわけでもないのにね。バカなやつ……。
累はそっと独り言を呟き、目蓋を閉じていく。
自分の中に眠る【金毛九尾】を呼び起こしてから、変わったことがある。
風邪が治ってもいっこうに嗅覚が戻らないことだ。まったく匂いがわからない。伝わってこない。今日のショートケーキの……おそらく甘い匂いも、魁斗の匂いも。
どうやら奪われてしまったようだ。
だけど……おかしくなったのが嗅覚でよかったな、と思う。
魁斗の……
――姿が見えなくなるのは辛い。
――声が聴こえなくなるのは辛い。
――触れてくれた熱が伝わらないのは辛い。
だから、おかしくなったのが嗅覚でよかった。
魁斗の匂いが伝わらないのは泣きたくなるほど辛かったけど……。
でも、他と比べてまだマシだ。
そして、殺された両親の顔が頭の中で思い浮かばせることができなくなっていた。
記憶が欠落したのか。
母さんの手の温もりが、父さんの優しい眼差しが、まったく思い出せない。
なにかがこぼれ落ちていった。
自分でも、なにがどうなっているのかよくわからない。
たぶん……祟られているんだと思う。本当に呪われているんだと思う。
わたしに成り変わろうとしているのかは、よくわからないけど、自分が自分じゃなくなるような、そんな感覚もした。
力を使うとその分、なにかを奪われる。
もしかしたら他にも、わたしはなにかが欠落したのかもしれない。
――でも。
――それでも、いいと思えた。
目蓋を上げて、お礼を言うように微笑んで。
胸に手を当てる。月のネックレスも一緒に手のひらに感じる。
大事な人からもらった光を、熱を。ここに感じる。
温もりが広がっていく。当てた手のひらと胸の隙間に伝わっていく。
名前を言えない感覚がたしかにここにはある。
この光と熱を持って、自分は歩き出そうと、これから生きていこうと、そう思えた。
夜空の月が優しく微笑むみたいに柔らかい光で照らしてくれる。
キラキラと累の瞳が光る。
あの激動の夜に、ありがとうを言えて無かったなと、ふと思う。
必死にわたしのために、身体を傷つけて。それでも、倒れずに真っすぐ突っ込んできてくれた。
底知れない輝きを秘めた大きな強い瞳で、他の誰にも真似できない強引さと荒々しさでわたしの中に踏み込んできた。胸の中の奥深く、そこに隠れるように覆っていた分厚い壁をぶっ壊すように迫って。そして、手を伸ばしてくれた。
伸ばされた指の先に、欲していた月の光が見えた。
この手は魁斗の手を掴んだ。
温かかった。
いつかちゃんと、返すから。
今はただ、わたしの月からもらったこの温かい光を抱いていよう。
もう二度と、この光を忘れないように、無くさないように。
強くネックレスを握る。
月の面に魁斗の姿を思い浮かばせる。
わたしは、あの人みたいになりたいって思った。
バカだけど、純粋で。魁斗には強くて優しい中心みたいなものが心にある。どんなときでも歯を食いしばって、全力で受け止めて、それでも自分らしく在ろうと、真っすぐに前を向いて歩いている。
綺麗で美しかった。
わたしもなりたい。そうなりたいって強く想ったの。
そうしたら、わたしの人生は、また、たしかに変わった。
世界が煌めきだして、色鮮やかに染まるように。再び、世界が広がった。
お月様みたいな、あんたと並んでも、ちゃんと胸を張っていられるように。
そんな自分になりたいって、今は想う。
そして、たぶん。それだけじゃない。
わたしの中でなにかが始まったんだと思う。
人とわかり合うなんて絵空事だと思ってた。
だけど、今は。
あいつとわかり合いたい。奇跡に触れてみたい。
だから、わたしは――
鼓動が勝手に強く走り出す。
この生きる道の先にどれだけの苦しみや痛みが待っていようと。
一緒に生きたい。
この感情が、なんなのか、
それはまだ、ちょっぴりわかってはいないけれど……。
遠いお月様を眺める。
大きくて、綺麗で、明るくて、優しくて、
不安なときに、大丈夫だよって行く先を照らしてくれる。
この光はこんな穢れたわたしでも優しく照らしてくれて、この胸にたしかに届いた。
そんなふうになりたいと、想いながら、
いつもよりも遠くへ。
この手が届くようにと願いを込めて。
右手を伸ばした。
第三幕 ~金毛九尾~ —終わり—
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