第四章 隠里と亜里 ⑥
累の自宅アパートに戻り、ぱちんと、電気をつける。
豆電球の優しい灯りが、ぼんやりと部屋を照らし出した。
その灯りの下、累の頬はどこか青ざめてさえ見える。
光に照らされ広がる景色は、昭和を思い出すような居間。
六畳一間のワンルームの部屋。
ガスコンロのキッチンにちゃぶ台のローテーブルに座布団。一人暮らし用の冷蔵庫に電気ケトルと電子レンジ。小さなテレビ。布団が仕舞ってある押し入れ。
女子力皆無のドキドキも面白みもない殺風景な、昔ながらの部屋だ。
そして、やはりボロい。
しかし、これでもお風呂とトイレは別らしい。
そこだけは引っ越す時にこだわっていたみたいだ。
部屋に上がるのは、久しぶりだな……。
魁斗は累の方に振り向く。
玄関まで着いたが、累は自分の部屋だというのに上がろうとする様子はない。
「……」
少し悩み、流石にこのまま腕を引いてお風呂に誘導するわけにもいかないから、魁斗はひとり、部屋に上がってバスタオルを取り出してくる。すぐに戻って、累に渡そうと差し出すも、ただ茫然と突っ立っていて、一向に受け取る気配がみられない。
「……」
しょうがなしに魁斗は累の髪の毛をわさわさと拭いてあげた。しかし、そのまま体を拭くわけにはいかなかったので、「体、自分で拭いて」と累の手を持ち上げ、その手のひらにバスタオルを握らせる。すると、ゆっくりだが体は自分で拭くような動作が見られる。
黙って見守っていると、そのまま部屋に上がってシャワーや着替えを行うような行動はしなさそうであったため、魁斗はバスタオルをもう一つ用意し、畳が濡れないように敷いてやる。ちゃぶ台の前に座らせるように手を引いて腰を下ろさせた。
累を座らせると、魁斗は立ち上がって、キッチンで二人分の温かいコーヒーを淹れる。累のもとへ戻るも、まったく同じ姿勢のまま、人形のように表情うつろで固まっていた。
まるで、昔の姿に戻ったみたいだ……。
隣に座ると、コーヒーの入ったマグカップを手渡す。
「ほら、コーヒー。あったかいぞ」
両手で包み込ませるように持たせるが、飲むような動きは見られない。
まだ、しっとりと濡れた髪の毛。その髪の毛に含まれていた水滴が落ちて、コーヒーにぴちょんと水音をたてて入っていった。
その様子を指摘することもなく黙って見守る。
暗闇のように温度を失った瞳はそのまま溶けて消えていきそうなほど弱々しい。
すっかりとびしょ濡れになった服はぴたりと肌に張り付いて、シャツは透けて下着のラインがくっきりと浮かび上がっていた。いまだに袖や裾からは、ぽたぽたと水滴が落ちている。
――累にいったいなにがあった?
魁斗は口を開く。
「累……いったいどうしたんだ?」
尋ねる。
それでも、累は閉じた口を開かなかった。
「おれに言えないことなのか?」
累の瞳が微かに揺れる。そして、迷うように首を横に振る動作をする。
「だったら…」
「でも言いたくない……」
間髪入れずに、理由を知ることを拒否される。
その歯がゆさから、チクリと胸を刺す痛みと同時に怒りの感情が込み上がってくる。
「お前、いつもそうだよな。自分の中になにかを隠して。そのまま押し殺してさ……。そんなに……そんなに、おれのこと、信用できないのかよ……」
ダメだ、虚しさからどうしても言葉をぶつけてしまう。
言い終えると、累の瞳から涙がこぼれ落ちていく。
そして、そのまま。ただただ、顔を伏せてしまい、泣いてしまった。
その姿を見て、押し黙る。
「魁斗には……そのままでいてほしい」
累の口から小さく漏れ出た、その答えを聞いても魁斗は言葉の意味を測りかねて頭をくしゃくしゃと掻きまくった。
――意味がわからない。
「だから……それは、どういうことなんだよ?」
聞くも、そのまま累は口を結んで黙ってしまった。
累の言葉の意味を探すも、一向に見当たらない。
もう一度目線を向けるも、累はただ黙ってまつ毛を伏せている。まつ毛の奥にかすかに見えた瞳はいまだ、色を灯していない。まるで夜の暗闇を映し出しているようだった。
魁斗はため息をつくと、とりあえず傍らにいることにした。
※※※
一夜が明けそうな午前四時。まだ空は暗い。
魁斗は雑魚寝をしていると、なにも敷いていない畳の硬さから身体が痛くなり、目を覚ました。
目尻を擦り、身体を起こす。そして、辺りを見渡した。
そこに、累の姿は無かった。
「なっ……!」
驚きに目を見開く。
「累っ!」
居たはずだった相手の名前を呼ぶも返事はない。
立ち上がってトイレや風呂場も確認するも、どこにも姿は見当たらない。
畳にへたり込む。そして、込みあがってくるのは最上の怒り。
「くそっ、どこいったんだよっ! あいつ!」
歯をぎりっと食いしばりながら叫ぶ。
訳がわからない。くそっ。
「もう、まじ、あいつ意味わからねぇっ!」
気持ちを声に乗せて叫ぶ。
魁斗はおもむろに累が寝ていた枕をドンッと殴りつけた。
そして、目を瞠った。
手にはなにやら温かく湿ったような感触が付着していた。
魁斗はそれを見て、その感覚を通じて、もう声を荒げることができなくなった。
昨日、魁斗が累を眠らせる時に枕に敷いてやったタオルが見てわかるほどに濡れていた。累が打たれた雨の水――ではない。まだ、少し生温かい。それに髪の毛や体は、ある程度拭いた後に、風邪を引かないように一晩中ドライヤーで乾かしてやった。タオルは念のためだった。
自分が眠りこけていた真夜中に、あいつは声も漏らさないように、わからないように、ただ、ひとりで涙を
想像し、顔を引きつらせる。
そんな……。
おれは、ここにいたのに。傍にいたのに。
あいつをひとりで泣かせてしまっていたのか……?
体の力が抜け、顔を俯かせる。
累を責める気持ちと、すぐ傍にいたはずなのに気がつきもしなかった自分が情けなくて、頭の中がごちゃごちゃになっていく。
「……」
しばらく俯いたままだったが、やがて拳をぎゅっと強く握りしめる。
上等だ、あのバカ……と前を向く。
誰がひとりになんてさせるか。
魁斗は行く場所を決めぬまま、おもむろにアパートを飛び出した。
いや、ひとり。あいつの事情を知っているであろう、その人物の顔を思い浮かべる。その人物のもとに向かって全力で駆け抜け、走る。
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