第34話 対の御方(小夜衣姫)の不在に悩める今上

さて、最初のうちは、「対の御方は祖母君ご危篤のためご実家に下がられました」との言葉を信じていた今上ですが、それからずいぶん月日も経ってしまい、さすがに不審に思い始めました。

「祖母君がお亡くなりになったにしろ回復なされたにしろ、もうそろそろ参内なされてもよい頃だろう。対の御方はいつ戻るのだ」

とまわりの者に訊ねても、はかばかしい返事が返ってきません。

「あまりしつこく聞きまわると、女房たちに不審がられてしまう。


つれなくて さてややみなん うき人の 心のかはる 時しなければ

(私の気持ちは一向に変わらないのに、つれないあの人とはこのまま終わってしまうのか)


目立つことをとても恐れていた人だから…」

会えないつらさに我慢できなくなっては梅壺に立ち寄り、

「どうして対の御方は参内しないのだ?使者を遣わすなり何なりして、参内を促しているのか」

とじれったく問い詰めても、梅壺の女房たちは、

「御使いはひまなく遣わしていますが、いつ参内できるか、はっきりした返事は戴いておりません。どうしたわけでございましょうか。おかしなことです」

ととぼけたように答えるばかりです。

「何か思うようにゆかぬ事態で、実家から出られないのだろうか…つかぬ事を訊ねるが、もしや対の御方には、出仕する以前に、人目を避けて逢う人でもいたのかね?」

勇気をだして女房に訊ねても、

「さあ私たちには…人の心は知り難いと言いますし」

と女御の乳母子の小弁の君が申し上げました。

(妙に含んだものの言い方だな。ひょっとすると、あのときチラッと見た手紙の持ち主が、何か知っているかも知れぬ。ずいぶん流麗な手蹟だったが誰なのだ。手蹟の上手といえば兵部卿宮がいるが。対の御方に奪い取られ、一瞬しか見れなかったのが返す返すも残念だ)

「よし、中宮へ参る」

対の御方が参内しない理由が知りたい今上は、どんな小さな手がかりでもつかみたい気持ちで、兵部卿宮の姉君である中宮のもとへお渡りになったのでした。



「まあ今上、どうなされました。このところよくお立ち寄り下さいますが、つれづれを持て余してお困りと察せられますわ」

明るい雰囲気の中宮御殿にお渡りになられた今上を、女主人の中宮があたたかく迎えます。

「ええ、ええ、まさしく仰るとおりですよ。つまらない、本当につまらない。なのにあなたはちっとも声をかけてくださらない」

まるで八つ当たりしている子供のセリフです。対の御方が後宮から姿を消して以来、今上は毎日が灰色、体の中をすきま風が吹いているような寂しさを感じているのでした。

「今上は対の御方に御執心であらせられましたから、このたびの宿下がり、お寂しいことでございましょう。なんでも祖母君が危篤だとか。おいたわしいことでございます」

「そこらへんがどうもはっきりしなくてね。なかなか内裏へ戻って来ないうえに、梅壺の女房たちに問いただしても曖昧な返事しか返ってこない。もしや彼女には、実家で恋忍ぶ人でもいたのだろうか」

「美しい方でございますから…それにしましても、何やらよからぬ噂を耳にいたしました。今上の、対の御方への御心ざしが、あまりにもあからさまなので、梅壺女御の母上が、目障りな対の御方に何か仕掛けたのではないか、と」

「何を言われる。人にとやかく言われるような情けをかけたわけではありません。対の御方は楽器の名手ゆえ、合奏などして楽しんでいただけなのですよ。それを『あからさまな御心ざし』などと、何もそこまでねじまげなくとも」

あわててごまかしますが、図星を指されて胸がバクバク鳴っています。できるだけさりげなく、あたりさわりのない話をしたあと、さもふと思い出したかのように、

「おお、そういえば最近兵部卿宮がすっかりご無沙汰ですね。

俗世へ何の関心もなさそうな風情だったのが、関白の二の姫との結婚で、ようやく目覚められたか。二の姫通いに執着して、内裏に顔を出すのを忘れていると見える」

と肝心の話を切り出しました。

「いえそれが…二の姫のことに関しましては、前々からうわの空だったのですが、最近ではますます通うのを嫌がっているようだと両親が嘆いておりますわ。親不孝は罪が重くなるといいますのに」

「ふむ、興味がない、と。それはきっと、隠れた本命の恋人がいるのではないかな。

男がうわの空になるのは、女人に心を奪われているときくらいですよ。なにもかも恵まれた宮に迫られて、拒み通せる女人などいないと思うが、そんな宮がうわの空だとは、おかしな話だ。いったい何が原因で、うわの空になっているのか不思議でなりませんね。

おお、そういえばつい先日、『兵部卿宮は恋人ができて、二人きりで籠もっている』と誰かが言っているのを耳にしましたが」

「さあ、そんな話は聞いていませんが…いつものとおりに物思いがちに過ごしているようです。困ったことですわ」

姉君らしい心配をする中宮なのでした。



それから何日かして、東雲の宮が姉君の中宮のもとへ参内した時、中宮は、

「今上がこのように仰せでしたが、秘密の恋人がいらっしゃるのですか?」

と単刀直入に宮に訊ねました。

「そんな女人がおりましたら、この世が憂いなど誰が思いましょうか。何かおかしな噂でも耳になさって、今上は、この私が対の御方を取り隠したと勘違いしておられるのではありませんか。

思いもよらぬことを仰せになられる。世間では今上を、『あんなにお通いだった梅壺に、すっかり飽きてしまわれて』と皆が言い合っているというのに。

対の御方が姿を隠したのは、私のせいではありませんよ。きっと梅壺女御の母上の、今北の方が何か知っているに違いありません」

「対の御方は本当においたわしいこと。ご実家の祖母君のことでは、さぞご心痛でしょう。今上も御方の楽の上手をたいそう褒めておられましたよ」

「まこと対の御方の楽の音色は、いまだかつて聞いたことがないほどです。あのように何事につけても優れている方は、なかなかいらっしゃらないでしょう。今上のご愛情が深くなったのも無理ありません。今北の方が「対の御方の教養を我が女御にも」とでも考えたのでしょうが、対の御方と並べれば、梅壺女御の容姿なぞ勝てるはずありません。按察使大納言殿は、対の御方の失踪をどう思っておられるのでしょう。今北の方が虚言を吹き込んでいやしないかと心配でなりませんよ」

そのあと東雲の宮は、対の御方がいなくなって以来の今上の嘆きぶりを中宮から聞きましたが、

(対の御方が行方不明になったのは、畏れ多いことながら全て今上が悪いんじゃないか。人目も気にせず『御方、御方』としつこく召し出そうとするから、お付きの侍女たちに気づかれて、今北の方に告げ口されたんだ)

とくやしくてなりません。しかし対の御方を心配する気持ちは同じ。どうお過ごしだろうかと、宮は今上のもとに参上しました。

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