第39話 支配者


  【7月30日 午前11時20分】


かしわさんさえ消えてくれれば、それでいい」


 そう言った唐沢からさわの視線がエミに向いたのを見て、痛む身体を無理やり動かした。

 今だけでいい、今だけ動かせ。後で身体が動かなくなっても、今だけは動け。

 コイツがどんなにエミを憎んでいても、エミを憎むのに納得できる理由があっても、私がここにいる限り手出しはさせない。


「まったく、君の執念みたいなものには恐れ入ったよ。確かに柏さんの影響力は侮れないのかもしれない」


 呆れたように呟く唐沢は、しかしその直後に侮蔑するようにこちらを睨む。


「だけどさあ、それは柏さんが本来持っていたものじゃないんだよ。彼女は霧人きりひと先生からそれを奪い取ったんだ。君が守ろうとしている子は、君が守ろうとしているものは、本来は霧人先生が持っていたものなんだよ」

「うるさい……! そんなの知ったこっちゃない! 何を言おうとアンタはエミを殺そうとしている私の敵の一人でしかないわ」

「わからない子だね。今の柏さんはもう本来の柏さんなんだ。やぐらくんを霧人先生に仕立て上げれば彼女も自分が霧人先生じゃないって思い知ると思ってたんだけど、そんなことするまでもなく、本来の柏さんに戻っちゃったみたいだね」


 確かにエミは苦しむ私を見ても全く表情を変えない。今のエミは私に対して何も思い入れはないんだろう。


 だけど、私にはエミに対する大きな思い入れがある。エミと共に過ごしてきた時間がある、記憶がある。


 エミは確かに、私と一緒に過ごす時間を楽しんできたことを知っている。


「エミは……返してもらうわ……!」


 だからコイツにエミは渡さない。


「面倒だねえ、やぐらくんに散々やられただろうに。無理するもんじゃな……」


「だったら、私が相手するよ」


「うっ!?」


 唐沢は何かに反応したように壁際まで飛びのいた。


「『絶望』が好きなんでしょ? だったらあなたは私が相手になった方がいいんじゃない?」

朝飛アサヒさん!」


 いつの間にか部屋の中にいた朝飛さんは、右腕を押さえながら唐沢の前に立つ。

 そのことで、エミと私の間に邪魔者はいなくなった。


「エミ!」


 エミの傍に寄り、腕を掴んで部屋から連れ出そうとする。


「……やめてよ」


 しかしエミは尚も私を拒絶した。


「わたしを連れて行っていいのはクロエおねえちゃんだけ。知らない人に連れて行かれたくない」

「そんなの関係ない。アンタが覚えてなくても、私はアンタの意志を無視して支配下に置いた女なのよ。今さら文句なんて聞かない」

「……そうやっておねえちゃんもわたしのことを叩くの?」

「え?」


 エミの顔はまだ無表情だ。


「おとうさんはわたしを叩くし、おかあさんは『おとうさんに逆らっちゃダメ。おとうさんが見ててたのしい子になりなさい』って言う。わたしを助ける人なんて誰もいない。クロエおねえちゃんだけ」

「エミ……?」

「たのしいって何かわからない。叩かれてた方がたのしいの? 叩かれてるのを嫌がった方がたのしいの?」


 そう言うと、無表情のままで私を見る。


「わたしは何を楽しめばいいの?」


 初めて聞く、エミの純粋な疑問。私の知らないエミから発せられる疑問。だけど私は直感的に悟った。

 もしかして、これがエミの……


「ま、ゆ、ずみ……!」


 その時、擦れた声を上げながら柳端やなぎばたがこちらに来て、エミの肩を担いだ。


「二人がかりなら柏を連れ出せるだろ。逃げるぞ!」

「わかった! 行くよ、エミ!」

「……」


 エミは抵抗せずに、私と柳端に運ばれる形で部屋を出た。



  【7月30日 午前11時29分】


 ビルの出口はもう目前だ。後はタクシーか何かを捕まえてここを離れれば私たちの勝ちだ。


「クロエおねえちゃん、まだ来ないの?」


 エミが何かを言ってるけど今は無視する。


「……っ! まゆずみ、伏せろ!」

「!!」


 柳端の声を聞いた瞬間、状況を確認する前にエミと一緒に体を沈める。その直後に頭上から風を切るような音が聞こえた。


「……だーめーでーすーよ」

楢崎ならさき!!」

「ダメ、ダメ、ダメですよ、エミちゃん連れ去っちゃ。エミちゃんだって私と一緒にいたいでしょうからねえ」

「クロエおねえちゃん! やっと来てくれた!」

「ええ、エミちゃん。約束通りに来ましたよ」


 最悪だ。事情はどうあれ、今のエミは楢崎を求めている。この状況で外部で助けを求めても、捕まるのは私たちの方かもしれない。


「黛! お前はさっさと柏を連れて外に出ろ!」


 柳端が身体を震わせながら楢崎に掴みかかっていく。そうだ、エミさえ連れ出せば後から樫添さんに連絡して柳端への応援に向かってもらえる。重要なのはエミをこの場から離すことだ。

 しかしエミは楢崎の姿に反応した。


「おねえちゃん! わたしのこと連れて行ってくれるんだよね!? わたし、もうなやまなくていいんだよね!?」

「そうですよお、エミちゃん。私があなたを連れて行ってあげる。あなたが私と一緒に来てくれれば、あなたは何も楽しまなくていいんです」


 楢崎がエミに囁きかけてる。これはまずい。


「柳端! そいつの口をふさいで!」

「うおおおおおっ!!」

「きゃあっ!」


 力づくで楢崎を壁に投げつけてくれた。チャンスだ。


「エミ! 外に出るわよ!」

「なんで……!? なんでクロエおねえちゃんと一緒にいさせてくれないの!? クロエおねえちゃんはわたしを連れて行ってくれるって言ってくれてるのに、なんで邪魔するの!?」

「アンタを助けに来たからに決まってるでしょ!」

「助けに、来た?」

「今のアンタは覚えてないだろうけど! 私はアンタの願いを潰したの! 『殺されたい』って思ってたアンタを自分の身勝手に付き合わせてきた! だから今回もアンタを助けに来たのよ!」

「……わたしを、助けに、来た?」


 私の言葉にエミが反応したと思うと、その顔にどこか怒りのような感情が見えた。


「……いらない」

「エミ?」

「そんなのいらない。今さらそんなこと言われても、必要ない。わたしを助けるのはクロエおねえちゃんだけ。クロエおねえちゃんが教えてくれた、『嫌われるとたのしい』って言葉だけ。それでよかったのに。なんで今さら……なんで……」


 エミの表情が私に対する怒りに満ちていく。


「なんで今さら、『助けに来た』なんて言い出すの?」


 ……ああ、そうか。そうだったんだ。

 幼い頃のエミに何があったのかなんて詳しくはわからない。でも、白樺の話にもあったように、エミの家庭は健全とは言えないものだったんだろう。

 そんな家庭で育ってきたエミは、そもそも周りに『助けてくれる人』なんていなかった。だから自分を守るための『何か』を必要としていた。


 その『何か』が楢崎がエミに教えた『絶望こそが人を救う』という考え方だったんだ。


 私の知っているエミも、確かに心の底から『絶望』を求めていた。『容赦なく殺されたい』という願いを本気で抱いていた。だけどそれは、順番が違っただけだ。


 エミは一般的な幸せを知る前に、『絶望』がもたらす幸せの方を先に知ってしまっただけだったんだ。


「……助ける」

「え?」

「アンタが何を幸せに感じてようと関係ない。絶対に助けてやる。アンタの幸せは私が決める」

「なんでそんなことをおねえちゃんに決められなきゃいけないの!?」


「私がアンタの支配者だからよ」


 我ながら残酷なことを言っていると思う。他人が何を幸せに思うかは自由であった方がいいと、私自身もそう思ってる。

 だけど、私とエミの関係でだけはその自由は成り立たない。エミの幸せを捻じ曲げる権利が、ただ一人、私にだけはある。

 昨日までは『エミを自分の都合のいいように作り変えるのは間違っているんじゃないか』と思っていた。だけど間違っているのはその考えの方だった。


 『それは間違っている』と私自身に責め立てられようとエミの幸せを捻じ曲げる覚悟がなければ、エミを助けることなんてできない。


 その時、背後で音がすると同時に、柳端が目の前の壁に突き飛ばされるのが見えた。


「柳端!」

「はあっ……! はあっ……!!」

「ダメですよ、そんな疲れ切ってちゃ私を不安にさせられません」

「くっ……!」


 まずい、楢崎の方がまだ体力が残ってたんだ。エミを外に連れ出す暇もない。追いつかれる。


「エミちゃんは渡しません。その子さえいなければ、私はずっと不安になれます」

「……アンタがそんなに不安になりたいのは、父親に愛されなかったからなの?」

「パパだけじゃありませんよ。今まで私の周りにいた人たちは、私に勝手に期待して勝手に失望してきました。ねえ黛さん、エミちゃんを見てきたあなたにも理解できるんじゃないですか?」


 そして楢崎の声が低くなる。


「『どうせ最終的に嫌ってくるなら、初めから嫌われてた方が幸せ』という考え方があるって」


 確かにコイツの考え方は『中途半端な希望に縋るくらいなら絶望に囲まれていたい』というものに近いのかもしれない。

 だけどエミの考え方とは違う。コイツはエミとは決定的に違う。


「どうやらアンタはエミのことをわかっていないようね」

「はあ?」


「エミは他人に好かれているとか嫌われているとかは全然気にしない女よ」


 その言葉に対し、楢崎の表情が曇った。


「……そうですね。だからエミちゃんにいてもらったら困るんですよ。彼女だけは私を安心させてしまう」


 そしてその声に隠しきれない敵意が表れた。


「エミちゃんだけは、私がどんな人間だろうと受け入れてしまう。だから許せない」


 ……間違いない、コイツはここでエミを殺す気だ。

 正念場だ、コイツだけは絶対にここで止める。


「だからいい加減、ここからいなくなってよ、エミちゃん!」


 その叫びの後、身体を張ってエミを守ろうとした時、私の前にもう一人の人物が現れた。


「ア、アンタ……!!」

「ヒャ、ハハ、随分、危ないことになってんじゃないかい、まゆ嬢……」


 私を守るように、楢崎の腕を掴む沢渡さわたり生花いけばなが立っていた。

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