第27話 教えてくれ。俺の日本精神は本物か
所持品を受け取ると、追い出されるように警察署を出た。
それにしても、なぜ急に釈放されたのだろう。話によれば、身柄引受人がいるらしい。きっと陽だ。
僕は警察署の前で、陽が迎えに来るのを待つ事にした。
突如、目の前に黒塗りの高級車が停まった。ベンツだ。
運転席から男が出てくる。丸刈りの側頭部に龍の刺青。マフィアだ。僕は逃げるように道を空ける。警察署の柱の影に隠れ、これでもかと言うほど存在感を無にする。どうか気にされませんように。
頭刺青の男は通り過ぎる、と思いきや僕の方に目を向けた。
「是在這裡的嗎。找了」
男は早口で話し掛けてきた。しかも笑っている。僕は縮こまってしまった。すると男は僕の手首を掴んだ。
「な、な、何!」
僕は小刻みに首を横に振った。男は乱暴に僕の腕を引っ張る。どこかに連れて行かれる、拉致される。
「やめて! 人違いだろ!」
ベンツの助手席からも男が飛び出した。僕がへたり込んで抵抗していると、二人の男に両脇を担ぎ上げられた。
「抓緊! 抓緊!」
「助けてっ、誰か助けてっ!」
僕は後部座席に押し込められた。逃げ出そうにも、すぐにドアを閉められる。窓を叩くが、ドアは外からロックされていた。
男たちが乗り込み、とうとう車は夜の街に発進した。
「ヤダ! 降ろして! 僕が何したって言うんだ!」
「情けないぞ。男のくせに、泣き言を言うな」
日本語。しかもこの声は。
「……ヨシオさん?」
「ったく、お前ときたら。
隣に座っていたのはヨシオさんだった。
目の前の状況が信じられない。白のカッターシャツに
「何でヨシオさんが、ここに」
「お前を迎えに来たに決まっとろうが。この馬鹿者」
つまり身元引受人がヨシオさん、という事か。
「てか、前の人たち……ヤクザさん、ですか」
おそるおそる僕が運転席に目配せすると、ヨシオさんは大きなため息をついて「順を追って説明してやる」と呟いた。
「お前という奴は、世話の掛かる男だ。お前が警察に逮捕された事は、すぐにテレビで報道されていたぞ」
「マジっすか…」
僕は項垂れる。冥婚騒動に続き、またニュースに出てしまった。
「警察の世話になりおって。日本へ強制送還されたら、どうするつもりだ」
「それが、よく分からないうちに釈放されて」
するとヨシオさんはステッキで床を叩く。
「当たり前だ。俺が署長に口を利いてやったからな」
「えっ、ヨシオさんが。なんで警察署長に意見できるんですか」
ヨシオさんは窓の外に目を細める。
「あの署長も、青二才の頃から世話してやっとる。持ちつ持たれつの関係だ。たまには俺の我儘も聞いてもらわんとな」
ヨシオさんの口利き一つで僕の釈放が決まったという事か。それにしても、なぜだ。
「あの、ヨシオさん。あなた何者なんですか」
大きく息を吐き出すヨシオさん。乾いた口唇が静かに動いた。
「
「はあっ!」
僕は反射的に身を反らす。
助手席にいた頭刺青の男が振り返った。台湾華語で僕に勢いよく何かを言っている。僕は上擦った声を漏らして青ざめるだけ。しかしヨシオさんが短く一喝すると、頭刺青は真っ青になって口を噤んだ。
「じゃあ、この恐い人たちも……」
「今日は急な事態だったのでな、運転役に
「じーはお?」
「俺の息子だ」
待て、理解が追いつかない。僕はぽそりと質問する。
「日桃幫って、マフィアじゃあ……」
「もう俺はとっくに引退して、今はただの相談役だ。幫主は弟に譲って、今では息子の
「って事は、凜風さんの叔父さんが……日桃幫の組長さん」
日桃幫と言えば、台湾の黑社會で最も力のある幫会の一つ。つまり僕の義理の叔父がマフィアのボス。頭が混乱する。
「待ってくださいよ。ヨシオさんが経営してるのは『倖福海老』でしょ。日本にもエビを輸出してるって言ってたじゃないですか」
「漁船も航行ルートも黑社會で築いた。『倖福海老』は、いわばカモフラージュだ。シャブなんぞ密輸しとらんから安心しろ」
ぽかんと口を開けていた僕。ヨシオさんは静かに続けた。
「少し、俺の話をしよう」
ヨシオさんは薄く目を閉じる。はるか昔に想いを巡らせるように。
「俺には兄もいた。だが若くして死んだ。まだ十九歳だった」
僕は覗き込んで尋ねる。
「ご病気、ですか」
「……殺された」
ヨシオさんはステッキをきつく握り締めた。骨と皮だけの手に青い血管が浮き立っていた。
「もう七十年前か。二・二八事件。俺たちは憤怒と憎悪に酔いしれていた。中国人に抗う台湾人の大和魂。命を懸けて見せつけてやろうと心に決めていた。俺は仲間を集めて外省人を狩り、警察署に火を放った。命を懸ける……。しかし身内の死は、つらい」
車は郊外へ出て、街灯も少なくなる。
「俺の兄は、総統府の前で死んだ。国民党の憲兵隊に射殺されたのだ。ただ俺たちは話をしたかっただけ。しかし奴らは非武装の者に掃射した。それで、俺の兄も……」
僕は頷く事もできない。ただ凄惨な過去に耳を傾けていた。
「二・二八事件をきっかけに、白色テロと呼ばれる台湾人弾圧が始まった。父は警察に無実の罪で逮捕され、保釈金としてうちの田畑を取られた。土地と兄を失った俺たちは路頭に迷い、父も炭鉱勤めが祟って過労で死んだ」
ヨシオさんは再び目を閉じ、深く呼吸を吐いた。
「俺と弟は港で貨物の積み下ろしの仕事にありついた。奴隷のような重労働のくせに安い賃金だ。台湾人はこうでもしないと生きていけない。その上に外省人の奴らがのさばっとった」
僕の生まれる何十年も昔の話。知らない国で苦しむ元日本人。ニュースでも学校でも教わらなかった。
「治安は乱れ、台湾人は食うや食わずの生活を強いられる。財産は搾取された。役人も警察も、私欲のためにしか動かん。正義などない。だから俺たちが正義を執行せねばならんかった。街の平和と秩序は俺たちが守らねば。俺は、仲間たちと立ち上がった」
「それが、日桃幫」
ヨシオさんが微かに頷く。
「その頃は名前もない集団だった。
ヨシオさんは懐かしげだが、何気ない含み言葉が恐ろしい。
「日桃幫と名前が付いたのは、俺がお前と同じ齢の頃だ。あの時分は外省掛の幫会が俺たちのシマを荒らしていてな、それに対抗するため俺たちも組織化した。本省掛と外省掛の抗争だ」
僕は「……抗争」と繰り返して唾を飲み込む。
「台湾は台湾人の物だ。余所者には渡さん。俺たちは戦い続けた。警察を脅して手懐けた、役人も買収した。何人もの仲間が抗争で殺された。俺たちも命をいくつも奪った。俺の手は、血で汚れすぎた」
「でも、『倖福海老』ってクリーンな商売もやったんでしょ。それに家族だっているじゃないですか」
そうだな、とヨシオさんの声が微かに綻ぶ。
「戻れないとは分かっていた。しかし、まっとうな人生に憧れていた。もしかしたら俺も穏やかな暮らしが出来たかもしれない。そう思った。だから家族には幫会には一切関わらせんかった」
「それじゃ、凜風さんや欣怡さんは……ヨシオさんの事を」
「ただの頑固爺と思っているだろう。あの子らには教えていない。ただの爺として接してほしかったから」
以前に凜風さんが誘拐された時、日桃幫のメンバーが警察よりも先に救出に向かった理由が分かった。そして報復として犯人たちを消したのも。
「本当は、お前にも黙っているつもりだった。しかし逮捕など、のっぴきならん事態になりおって。俺が口を利くしかなかろう」
「す、すみません」
僕は顔を伏せた。
「しかも相手は推進党ときた」
ステッキが折れんばかりに握り締めるヨシオさん。目蓋の痙攣は頻度を増す。全身から静かな怒りが滲んでいた。
「俺の人生は戦いだ。我が命をもって祖国を護る――。これが大東亜戦争で見た兵隊たちの大和魂、
そこでヨシオさんは呼吸の間を置く。
「白色テロの弾圧に抗い、外省掛の幫会から人々を守り、祖国の未来のために生きた。時は流れ、李登輝が総統になり、ようやく台湾は民主化された。強権をしいていた国民党は弱体化し、台湾は自由を手に入れた。俺の戦いは終わったと思った」
だが、とヨシオさんは奥歯を噛む。
「中国共産党が台湾の領有権を主張し始めた。周辺国へも圧力を掛け、台湾を孤立させてゆく。ようやっと国民党が大人しくなったと思ったら……まったく、大陸の奴らめ」
「そこで共産統一推進党が……」
そうだ、とヨシオさんは首肯する。
「外省掛台湾マフィアを政党に仕立て上げた。台湾の独立意志を内部から破壊し、中国にあけ渡すためだ。そんなこと俺の目が黒いうちは断じて許さん。ここは俺の第二の祖国、台湾なのだから。もう二度と『中国人』にはならん」
『日本人』だったヨシオ少年は中国国民党によって『中国人』にされた。民主化されて『台湾人』になったが、中国共産党に接収されたら再び『中国人』になってしまう。
「俺たちが外省掛の幫会と戦っていたように、いま
ヨシオさんが語気を強めると、前の席の二人が背筋を正した。
「教えてくれ。俺の日本精神は本物か」
ふと僕は顔を上げる。「えっ」
「俺は九十年生きた。自らを日本人と名乗り、武士道精神を胸に正々堂々と生きてきた。それは自分が日本人で在り続けるためか、生まれた時代を懐古しているだけなのか」
ヨシオさんは僕の手首を掴んだ。九十歳の老人とは思えない力。そこには握力だけでなく、意志の力も混ざっていた。
「晴人。今も日本で生きる、お前なら分かるだろう。答えてくれ。俺に武士道精神は、日本精神はあるのか!」
ヨシオさんの張り上げる声が響く。前の二人は肩を竦めて振り向こうとしない。エンジン音が低く鳴っているだけ。
ヨシオさんは僕の目を真っ直ぐ見据えている。普段のような力強い眼差しではない。縋るような不安げな瞳。僕の胸に烈しい何かが込み上げてくる。
「ヨシオさんは、どの日本人よりも日本人らしいですよ」
そうか……、とヨシオさんは目頭を押さえた。
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