第19話 ウチは殺しなんてしねえ。アンタのためなら、話は別だけど

 アパートに戻った僕は冷蔵庫から飲み物を探していた。冷蔵庫を物色していると、飲み物は豆乳ぐらいしか見つからなかった。

 よく台湾人は豆乳を飲む。しかも砂糖たっぷり。コンビニで売っている物なら微糖タイプでも充分すぎるほど甘い。

 僕はコップに豆乳を注ぎ、一気に飲み干した。さいわい無糖タイプ。台湾の豆乳はサラッとして飲みやすい。低脂肪乳ほどの粘度だ。

「あーっ、ウチの豆乳を勝手に飲むな!」

 陽がくわえ煙草でドアを開けた。

「良いじゃん。僕はタダ働きの身なんだし」

 まあそだねー、と陽は面倒そうに手を払う。 

「それより驚いたべか晴人。アキラも顔はおっかないからなあ」

拉致ラチられるかと思ったよ、割とマジで」

 ケタケタ笑う陽。僕の怯えている顔が相当面白かったらしい。

「てか、あの人は何者なんだよ」

「さっき言ったべさ。歌舞伎町時代の相棒。いやあ、根性座った男でさ。色々仕事手伝ってもらったべさ」

「で、今は本物のマフィアなんだよな。あの人」

日桃幫ジッタオパンに所属してる。普段はクラブのケツ持ちやってるわ。士林シーリンやそこらでも顔が利くらしいべ」

 陽は豆乳を一口飲んで得意げに笑う。

「日桃幫は古くからの本省掛の角頭系だ。地元の仕切り役って感じさ。けっこう信心深い連中でさ、行事ごとに近所の廟に参拝してる」

「その。じったおぱんって、けっこう大きい組織なの」

「台北じゃ一番勢力があるべ。そこらのホテルやギャンブル場だって、ぜんぶ日桃幫のシマだ。下っ端のチンピラまで入れると、たしか構成員は三千人くらいいるって話さ」

「……さんぜん」

 僕はぽかんと口を広げる。

「歴史も古くて、戦後まもなくからあるらしい。国民党統治期は台湾人にとって暮らしにくい時代だった。ところで晴人、二・二八事件って聞いた事あるべか」

 ヨシオさんから聞いた。かつて台北で起きた暴動だ。

「発端は闇タバコの販売だべ。本省人のおばちゃんが煙草を売ってたら外省人の警官に捕まった。おばちゃんは土下座して謝ったんだけど、警官は銃底でぶん殴って金まで取った」

「次の日に警察に対してデモが起きたんだね。そしたら警官が威嚇射撃して、威嚇のつもりが一般人に弾が当たって、死亡させた」

 これが二・二八事件の始まりだ。

 中華民国政府への怒りは台北を中心とし、台湾全土へと広がった。各地でデモが起き、警官や憲兵とのぶつかり合いが起こる。非武装の民衆に対して憲兵隊は無差別発砲を行った。捕まった者はろくな裁判も行われず処刑されたという。

「台湾人も黙っちゃいねえ。当時、本省人と外省人の見極めは『日本語を話せるかどうか』だ。日本語で話しかけて答えられない者、君が代を歌えない者を外省人と認定してボコボコにしたりもした」

「その後、日本統治時代に高い教育を受けた人たちが片っ端から処刑されたんだよね。言論統制が敷かれて、反政府思想を疑われたら捕まって死刑」

 白色テロと呼ばれる恐怖政治。反国民党とみなされた者が十万人以上も投獄され四千人が処刑された。まるでソ連やナチスだ。

「そんな不安な社会の中で生まれたのが、角頭系のマフィアさ」

 そう言って陽は煙草を灰皿に押し付ける。

「国民党統治の始まりと同時に、外省系マフィアも入って来ただろ。本省人の財産を守るために抗った若者たち――、それが日桃幫の起源だとか」

「地元青年団みたいなもの?」

「日本のヤクザだって、戦後のゴタゴタで政府が機能してねえ所に、地元の有志が自治し始めたパターンもある。台湾でも同じだべ」

 血気盛んな若者たちが一筋縄にまとまるわけがない。過去には外省掛との抗争だけでなく、内部での争いも頻発した。日桃幫がらみの抗争で台北は社会不安に陥ったそうだ。

「そんなヤバい集団が、どうして街の世話役に?」

「組織内で、ドラッグ売買の是非で派閥に分かれたんだって。それでドラッグ反対派が、賛成派のリーダーを撃ち殺したとか。それから組織がまとまって、外省系も台北に進出出来なくなったとか。結果的に抗争がなくなったんだべ。六十年くらい前か、その頃に日桃幫って名前になったんだって」

 三千人の構成員を束ねる総裁は現在で三代目らしい。

「七十年代から政府関係者とも癒着したし、金や原油の先物取引とか船輸なんかサイドビジネスも手広くやってたとか。映画とかテレビ産業にも手を出してたんだぜ」

「えええ。マフィアがテレビって」

「どこのマフィアだってメディアは欲しいべ。権威の象徴だからな。最近その日桃幫がクソ揉めてんのが、共産統一推進党だべさ」

 また推進党だ。元マフィアの幹部が立ち上げた政党だ。

「一九八七年の民主化から、台湾では独立運動が活発だべ」

「ん。台湾って、すでに独立した国家じゃないの」

「その独立って概念が複雑なんだ。日本が撤退した後、台湾は中華民国に返還された形になったべ。その後、大陸では国共内戦が再開して、負けた国民党が台湾に逃げてきたんだ」

「国民党って、中華民国の与党だったんだよね」

「だから今でも台湾は、国際的には『中華民国』って国名だし、首都は中国の南京のままだ。台北はあくまで行政の中心地であって首都とは定義されない」

「じゃあ独立ってのは国民党からの独立って意味か。国民党と入植してきた外省人は全体の二割くらい。ほとんどが本省人、つまり元々の台湾人だし」

「ようは『中華民国』から『台湾』って国家にしようって運動だべ。だけどネックになってんのは国民党だけじゃねえべさ」

「それが今の中国か」

「中国は台湾の領有権を主張してるべ。言い分としては、元々は清の時代から台湾は中国の領土だ、って感じ。けど今の中華人民共和国と清朝は地球上の同じ場所にあるだけで、まったく無関係の別の国なんだけどさ。そもそも清は女真じょしん族の王朝だから、中華人民共和国の漢民族とは民族的に見ても別だべ」

「中国に併合されないように、って意味の独立運動でもあるんだな。でもさすがに二十一世紀にもなって武力行使はないでしょ」

 それがさ、と陽は眉を寄せる。

「ウクライナ侵攻は知ってんだろ。2014年、ロシア軍がウクライナのクリミア半島に侵攻し、2022年には首都キーウにまで進軍した。しかも占領地で民間人虐殺に強姦に略奪。二十一世紀にもなって侵略戦争をやる国が地球上に存在するんだよ」

「それは東ヨーロッパの話じゃないか。中国と台湾とは関係あるのかい」

 大アリ、と陽は人差し指を立てた。

「ぶっちゃけ中国とロシアは仲間だ。同じ共産主義国家だろ。つーか中国共産党や北朝鮮労働党だって、元々はソ連が作ったんだよ。ソ連は共産主義を世界中に広めるため、あらゆる国に共産党支部コミンテルンを送り込んだ」

「要は中国共産党も北朝鮮もロシアの支部みたいなものだった、ということか」

「つまり中国からすれば、お仲間のロシアも侵略やったんだから、うちもって理屈になる。現に2022年の八月に台湾と日本の排他的経済水域EEZ内で軍事演習を始めやがった。台湾有事へのウォーミングアップだよ」

「いくら何でも大袈裟すぎないかな。たとえ中国が台湾へ侵攻したとして、世界の国々が黙ってないよ」

「黙ってんだよ、それが」

 陽は煙草を吸い、気怠そうに煙を吐いた。

「ウクライナがロシアに侵攻された時、国連は軍を派遣しなかった。北大西洋条約機構NATOだってアメリカだって動かない。世界はロシアの侵略戦争、いや大量民間虐殺ジェノサイドに対して経済制裁しか出来なかったんだ」

「そうだったよね。下手に手を出したら、第三次世界大戦が始まるもんね。だから経済制裁にとどとどめたんだね」

「その様子をじっと観察してたのが中国共産党さ。ウクライナ侵攻が始まっても、国連も米軍も手を出さない。じゃあ自分らが台湾侵攻しても、米軍は動かないんじゃないかって話だよ」

 ウクライナ侵攻という前例が出来てしまった。厄介な事に、世界平和を守るための国際連合の常任理事国に、ロシアと中国が列席している。

 世界は誰も助けてくれない。自国を守るのは自国しかない。

 台湾人は中国に侵略されかけている自覚を持っている。だからこそ独立運動が盛んなのだという。

「だから台湾には独立派の政治家だって多くいる。黑社會組織だけど、日桃幫も独立派の組織だ。日桃幫はそういった独立派の議員を保護してるべさ」

 悪く言えば癒着だけど、と陽は苦笑する。

「五年ほど前、独立派議員の演説が推進党に妨害された事件があったべ。そこに日桃幫が動いて暴動になったんだ」

 それ以来、日桃幫と共産統一推進党との対立が深まったという。

「さっきのアキラだって、日本での生活経験があるだろ。だから日桃幫にも歓迎されたってワケ」

 それにしてもさぁ――、と陽は口調を緩める。

「あんな所までウチをけて来るとはね。しっかり晴人もYouTuber魂あるじゃねえべか」

「疑いを解きたかったんだよ、陽の」

 そう言うと、陽は口元を押さえる。笑いを堪えているようだ。

「まさかウチが凜風を殺したって……。そんなの疑ってたんかよ」

 陽は煙草を灰皿に押し付けて立ち上がった。

「ウチは殺しなんてしねえ。アンタのためなら、話は別だけど――」

「やめろよ、その話!」

 すると陽は少し悲しげな笑みを浮かべる。その潤んだ瞳を見て、僕の心臓は氷水に浸されたように冷たくなった。

「……悪かったよ」

 そう言い残し、陽は部屋を後にした。背中が小さく見えた。

 アンタのためなら――。

 そう、陽は僕のためなら――。

 僕は豆乳を飲み干す。余計に喉が渇いた。粘っこい口内に唾を溜めて飲み込む。生ぬるい粘液が喉の壁を垂れ流れていった。

 キッチンにコップを置き、ソファーに戻ってくる。陽の体温が微かに残っていた。

「でも良かった。陽は、否定してくれた」

 陽が凜風を殺したかもしれない疑惑。陽の否定で、僕の気持ちは軽くなった。僕の杞憂だった。

 その時、スマホが着信した。

 表示されているのは『宗傑ゾーンジェさん』。凜風の父親だ。

 僕は受話して「もしもし――」と日本語で言った。すると案の定、早口の台湾華語で捲し立ててくる。いつもより早口だ。

「ワットハップン?」

 僕が片言の英語で尋ねるが、お構いなしに畳みかけてくる。

「あー、ちょっと待ってください。陽に代わるから」

 僕は陽に目配せする。

「陽。宗傑さんから電話なんだけど、サッパリ分かんなくて」

「ああ? したら貸してみな」

 陽は面倒そうにスマホを受け取る。

 電話口に中国語で返した陽。すると徐々に表情が強張ってゆく。陽も早口で捲し立てた。口調が荒っぽい。

 陽はスマホを切って僕に押し付けた。「マジかよ!」と叫んでスクーターの鍵を引っ掴む。

 陽は僕の腕を掴んで駆け出した。

「どうしたんだよ、いきなり」

「晴人も来い!」

 陽は問答無用で僕を店から引きずり出す。その口元からこぼれた次の言葉。僕の目の前が真っ白になった。

「……ヨシオさんが、死んだ」

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