『自転車屋さん』


「これは友達に聞いた話なんだけどね」


 十五年ほど前の話だ。

 その友達の家の近所には、ほったらかしにされた空き家があった。

 元は、独居のお爺さんがやっていた自転車屋だった。

 そのお爺さんが亡くなってから誰も管理する人がいないのか、道具やら何やらがそのままに放置されていたらしい。


 放置されて一年ほど経った頃だろうか。

 その空き家にお爺さんの幽霊が出る、という噂が広まった。

 店舗になっている一階の奥で、お爺さんが丸椅子に腰掛けているのだという。


 当時中学生だった友達は、面白がって話を聞いた。

 数人が集まって、俺は見に行ったけど何もいなかっただの、何もしてないのに自転車のベルが鳴っただの言い合って、気づいたら仲間で揃って空き家を覗きに行くことになっていた。


 放課後。いつもの四人で連れ立って、日のある内に例の空き家へと向かった。

 流石に夜になってから家を抜け出すのは無理だろう、という話になったのだ。純然たる事実なのだが、なんとなくその場の全員が、別に怖いだとかいうダサい理由ではない、という言い訳の空気を漂わせていた。


 自転車屋は、団地の公園の隣にある。

 二階建ての木造建築に、軒先にオレンジ色のテントを被せた外観。

 入り口は引き戸で、店内の角の方に二階に続く階段が見える。


 微塵も管理するつもりがないのか、扉には鍵すら掛かっていなかった。


 四人で連なって、そろそろと薄暗い店内に入り込む。

 入り口の引き戸以外に光を取り込める場所がないせいで、扉の前に立つと更に暗くて見辛かった。


 本来は自転車の在庫が並んでいたのだろうスペースは空っぽだ。壊れて使えそうもない自転車が数台、壁際に寄せられている。

 隅の方には、半分ほど中身のなくなった道具箱と、よく分からない部品やチューブのようなものが転がっていた。


「椅子ってあれ?」


 店の奥にある倉庫の手前に、丸椅子が置かれていた。

 合皮が古びてあちこち割れている。長い間使われていたものなのは間違いなさそうだった。


 噂だと、あの丸椅子にお爺さんが座っているらしい。

 だが、少なくともその場の誰にも、爺さんらしき姿は見えなかった。


 遠巻きに、しばらく眺める。

 暗がりにぽつんと置かれた丸椅子は、ただの椅子以外の何物でもない。


 かといって、それ以上近づいて何かを確かめよう、という気にもなれなかった。

 退屈の他に、僅かだが確かに不安が漂っていた。


「やっぱなんもいねーな。てか、ベル鳴ったって言ってた自転車どれ?」


 Bくんが、やたらと明るい声で尋ねながら視線を壁際へと外す。

 つられたように全員が自転車へと目をやった、その時。


 ガタン、と何かが倒れる音がした。


 思わず声が漏れる。

 小声で突っつきあいながら音の方を振り返ると、丸椅子が転がっていた。


 無論、誰も触れてはいない。

 そもそも、触れられる距離にすら居ない。


「猫でも入り込んでんの?」


 現実的な予想でもって奥を覗き込もうとしたCくんの腕を、Dくんが掴んだ。


「出ようぜ」

「え」

「長居して誰かに見つかってもアレだし。なんか壊れてて俺らのせいにされてもヤじゃん」


 真っ当な言い分だったので、全員がDくんの言葉に従った。

 いや、別に言葉に従った訳ではないのかもしれない。いつものノリだったら、確実に誰かが揶揄いでも口にしただろう。

 だが、その場の誰からも、冗談でも反対意見は出なかった。


 くだらない雑談で間を埋めて、いつものように分かれ道でそれぞれ帰った。

 元々、強い興味があって行った訳でもない。

 その後は仲間内で空き家の話題が上ることもなかった。

 

 ただ、友達はどうもその時の様子が気になって、Dくんに何度か聞いてみたらしい。

 何か、自分たちには見えないものを見たんじゃないかと。


 しつこく尋ねる友達に、Dくんはしばらくしてから観念したように話してくれた。


 あの日、倒れた丸椅子の上には、首を括った妊婦がぶら下がっていたんだそうだ。

 ただの妊婦ではない。身体は若い女性に見えるのに頭だけが老婆のようで、開いた目がじっと此方を見ていたらしい。


 友達はそれを聞いた時、もし見えたのが自分だったら、あの場で軽く叫んでいただろう、と思ったそうだ。


 Dくんからすると、あんまりにも妙な光景だから現実のように思えなくて、理解が追いつかなかったのだという。

 ただ、その奇怪な姿態の幽霊が、空き家が放置され続けている理由のような気がしたそうだ。


 空き家はそれからも放置され続けていたが、一年前にようやく取り壊されたらしい。

 跡地には、幽霊が出るようなことはないそうだ。




「────怖かった?」

「ああ、うん。まあまあ。謎が残ってる辺りがいいよな」


 話を聞き終える頃には、マグカップの紅茶はすっかり冷めていた。

 季節は冬だ。もはや怖さよりも寒さの方が気になる。


 だがまあ、ベランダ以外で顔を突き合わせて聞いてくれ、と言われた日には逃げる他ない。

 故に、俺は怪談を聞く為だけに厚手の半纏まで用意してベランダに出ている。なんとも健気な話だ。


 ところで。この怪談だが。

 前に一度聞いたことがあったな、と途中で気づいた。


 此処に住んで半年が経つ。

 週に何度も聞いていれば当然、ネタ被りくらいは出てくるだろう。


 あるいは、こいつもどれを話したのか忘れているのかもしれない。

 そんなことを思いながら相槌を打った俺の耳が、小さな呟きを拾った。


「ふうん」


 あ。

 やべ。


 一瞬で気温とは別の寒さを覚えたので、俺はカップにつけかけていた口をぱっと離した。


「でもさ、これ前に聞かなかったか?」

「……ええ? そうだったっけ?」


 板を隔てた声が、途端に弾んだものになる。

 にょろにょろと伸びる舌を視界の端に捉えながら、俺は心中の焦りをなんとか取り繕って言葉を重ねた。


「俺の記憶違いかなあ、なんか聞いた気がするんだよな」


 予想が正しいなら、こいつは今、俺を試したのだ。

 自分が話した怪談を──つまりは友人・・の話をちゃんと聞いているか。適当に聞き流していないか。


「自転車屋が出てくる別パターンの話かもな、と思って聞いてたんだけどさ。やっぱり前にも話したんじゃねえかな」


 いや、でもさあ。

 言わせてもらってもいいんならさあ。

 友達と話した会話を全て覚えている奴、いねえと思うよ、俺は。


 カップを支える指が硬く強張っているのは、寒さだけが理由ではない。

 ただ、浮かべた笑みがどうにも引き攣るのも、恐怖だけが理由ではなかった。


「うーん、そう言われると、同じだったかも。今度はちゃんと、違う話用意しておくね」

「……まあ、繰り返し聞くのも良いもんだろ。面白かったら同じ動画だって何度も見るし」

「動画……」

「ほら、Y××Tubeとかさ、お前知らんかったっけ」

「むつかしい」

「そっか」


 声音はすっかり普段通りだった。どうやら機嫌は直ったらしい。

 その後も幾つか他愛無い言葉を交わしながら、俺は内心そっと胸を撫で下ろした。


 全く、メンヘラの彼女みたいなことしやがる。

 俺は友達を試すような奴は苦手なんだが、何処までが許容範囲か分からない以上、迂闊なことは口に出来なかった。


 隣からは、小さな鼻歌が聞こえてくる。

 鼻歌か。果たして、あいつに鼻と呼べる器官はあるのだろうか。謎だ。


「タカヒロ。ありがとね」

「……いや、……おう」

「おやすみ」

「……おやすみ」


 その礼は、一体何に対しての礼なんだろうな。

 考えることすら億劫になって、俺はカップを片手に室内へと戻った。

 窓の鍵を掛けて、カーテンを閉める。今日のベッドは至って普通だった。


 冷めた紅茶を流しに捨てて、ケトルのお湯で入れ直す。

 デスクの前の椅子に腰掛けて脱力してから、深い溜息を吐いた。


 ここ半年が平和だったものだから、すっかり油断していた。

 隣に住んでいる俺の友人は、紛れもなく、人間ではない。

 俺なんか簡単に殺せるし、逃げ出した二十三人だって必ず何処かおかしくしていただろう。


 気を抜けばすぐに、俺は風呂場の人型の染みとおんなじ運命を辿ることになる。


「死にたくねえ〜……」


 思わず呟いてから、死ぬほど馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった。


 死にたくねえよな。

 そりゃそうだよ。


 すっかり身体が冷えていたので、俺は風呂に入ってから寝た。



     ◆ ◇ ◆




 現在の俺の仕事は、あのマンションで生活を続けることである。

 月給十五万。まあ、その他にバイトもしているのだが、その話は一旦置いておくとして。


 つまりは、この生活をする上での雇い主がいる。

 あの日電話した俺に面談をしてくれた人で、名前は神藤カンドウ光基ミツキさんと言う。


 三十代半ばの柔和な顔立ちの男性だ。

 何でも屋は本来は彼の兄がやっているらしく、神藤さんはあくまで代理で、普段は会社員をしているらしい。


 奥さんと小学生の娘さんがいるが、二人とは離れて暮らしている。

 どうも、このマンションの件を任されてから何やらおかしなことになって、離れた方がいい、と他県まで引っ越したらしい。


 いわば兄の仕事に巻き込まれた形になると言うのに、神藤さんには特に気にした様子もなかった。

 『いつものことなんだよ』なんて困ったように笑っていたのを覚えている。


 迷惑をかけられても笑って許せるほどの信頼が、二人の間にはあるようだった。

 まあ、家族というのは、本来はそういうものなのかもしれない。


 神藤さんは至って普通のおじさんだった。特別な力も無いし、何を見ることもない。

 そういうのは全部お兄さんがやっていて、何やらあって四国まで行ったお兄さんがちっとも帰ってこないので、仕方なく色々と回しているらしい。


 看板に貼り付けた文言を考えたのは神藤さんではなく、お兄さんだそうだ。

 あんな書き口で来る訳ないだろう、と思っていたのに俺が来たので、神藤さんは最初あれこれと俺の心配をしてくれた。


『高良くん、まだ二十歳でしょう? 人生をどうかしてしまってもいい歳じゃないよ。もっと真っ当な仕事に就きなさい』


 真剣に心配してくれてるところ悪いが、俺はもう本当にどうなってもいいから此処に来たのだ。どうにかならないと助かる気がしなかったから。だから来たのに。

 あんな風に書いておいて、来たら断るだなんて不誠実じゃないですか、と問い詰めると、神藤さんは困ったように眉を下げた。


 まあ、今なら分かる。神藤さんは本当にどうかな・・・・ってしま・・・・った・・人間を見てきたから、まだ未来ある(と思われる)俺をあんな場所に置くのは嫌だったのだろう。

 二十歳そこそこのろくな職歴も無い人間でも、若者というだけで価値があるように見えるに違いない。


 だから仕方なく、俺はあの人の話をした。したくなかったけどした。

 俺が産まれたせいで親父に逃げられたあの人が、一体俺をどう扱ってきたか、出来る限り覚えていることを話した。

 頼れる親戚も誰一人いないし、奨学金は使い込まれそうになった──というか使い込まれたから学費も払えなくてなんとか手続きして途中で受給を辞退して逃げ出したし、先日居場所を突き止められて、どうにか金を産む存在として使おうとして来たし、無論俺は逃げるつもりだけれど、逃げるつもりなら県外にでも向かえばいいのにどうしてあんな場所にいたのか本当にわからないし、いやわかってはいるし、俺はずっとあの人の言うことを聞かないと死ぬんだと思っていたし、多分これからもそうだろうと思うし、なんなら今もそう思っているし、


 だからやっぱり、どうにかなってしまうような場所でないと助からない気がする、


 という話を、出来る限り落ち着いて話した。と思う。

 自分が落ち着いていたか、そもそもきちんと話せていたかすら、その時の俺にはよく分かっていなかった。


 神藤さんはしばらく考えてから、渋々了承してくれた。本当に渋々だ。顔を見れば、だからこそ真っ当な職に就くべきだと考えているのは分かった。

 そもそも神藤さんはあのマンション自体を取り壊すべきだとすら思っているようだったし。


 ともかく、俺のクソみたいな手札の中から切れるカードは、クソみてえな不幸自慢だけだった。

 神藤さんからしてみれば、そんなものは納得の材料にはならなかっただろう。


 でも、実際のところマンションの入居者がいなくて大家は困っていたし、通話で同席したお兄さんは『いいんじゃねえの』と言っていたし、俺以外に人生がどうにかなっていいと確信している人間は応募して来てなかった。


 そういう訳で、俺は今日もあのマンションで暮らすことで命を繋いでいるのだ。





 店内に入ると、先に待っていた神藤さんが軽く手を上げて俺を呼んだ。

 忙しいだろうに、神藤さんは俺を心配して度々顔を合わせる場を作ってくれる。経緯が経緯だし、仕事も仕事だから、生存確認も込めての場なのだろう。

 対面の席に腰掛けて頭を下げた俺に、神藤さんは紙袋を手渡してきた。


「高良くん、良かったら貰って。この間、涼香りょうかさんとこ行って来たからお土産」

「え。あ、ありがとうございます」


 神藤さんは、奥さんを名前にさん付けで呼ぶ。二つ年上の初恋の人だから、今でも呼び捨てしようとすると照れてしまうんだそうだ。

 いつまで経っても新鮮に照れるものだから、娘がたまにからかって母親を『涼香さん』と呼ぶらしい。


 俺は神藤さんから家族の話を聞くたびに、割と心底驚いてしまう。フィクションの世界以外に、『幸せな家庭』というものが存在することに。

 いや、在ることは知っている。そりゃあ、見たことだってある。

 俺のような人間と関わるような位置に、そういう種類の人がいることに驚いてしまうのだ。


 今なんてお土産まで貰っているし。

 あ。笹団子だ。あと柿の種。

 缶に入っている柿の種を見るのが初めてだったので、思わず取り出して眺めてしまった。


「あと、これは大家さんからボーナスだって。こんな平和に半年持ったのは高良くんが初めてだから、本当に感謝してるみたいだよ」

「おお……恐縮です……」


 追加で渡された封筒に、俺はぎこちなく頭を下げる。

 本当にただ住んでいるだけなのにボーナスなど貰っていいものだろうか。真っ当に働いている人たちに申し訳なくなってきた。

 以前は毎日怒鳴られながら必死にしがみついて貰っていた筈の金が、ただ生きているだけで入って来てしまう。

 突然知らんルールの世界に放り込まれたみたいで、正直ちょっと居心地が悪かった。


「あの。神藤さんって、あいつ・・・の好きなものとか知ってます?」

「人間以外に?」

「……ええ、人間以外で」

「どうだろうなあ……兄さんに聞いてみようか。でも、どうしてまた?」

「いや、あいつのおかげで貰ったもんなので、何か買って帰ろうかな……と」


 神藤さんは、なんだか変なものでも食べたみたいな顔でグラスの水に口をつけていた。


 分かっている。

 俺も、変なことを言ったな、と思っている。


 だが、俺は彼処に住んでいる限り、間違いなくあいつの友人なのだ。

 付き合いのある友達に何か好物でも買っていってやろう、と思うこと自体は、まあ、おかしくはない。筈だ。多分。


 記憶を辿るように目線を宙へとやっていた神藤さんは、メニュー表を開いて俺の方へと寄越しながら、スマートフォンを手に取った。

 どうやらわざわざお兄さんに聞いてくれるらしい。なんだか手間をかけてしまって申し訳ない。

 俺が直接尋ねられればいいのだが、お兄さんは神藤さん以外の連絡には碌に返事をしないそうだ。


 食べている間に返事が来ると思うよ、と言われたので、俺はとりあえずハンバーグ定食を頼んでおいた。

 どうでもいい話だが、食事を奢ってくれる大人という存在自体があまりに未知なので、俺は神藤さんと飯を食うたびに毎度変な汗を掻いてしまう。どうにも、未だに慣れなかった。


「ああ、来たね」


 言った通り、食事を終えた頃に返信が来た。

 神藤さんがメッセージアプリの文面をそのまま見せてくれる。


『食べ物しか受け取らんだろう』

『手作りは禁止』

『命食わせるようなもん』

『あれどうだ?』

『グミとか』


 雑に分断されたメッセージは、それきり途切れていた。


「グミ」


 画面を見たまま、とりあえず復唱する。

 グミ。

 グミかあ。


 惚けた顔で見つめていると、神藤さんも画面を確かめて苦笑した。


「グミ、らしいね」

「グミっすか……」


 化け物って、グミ食うんだな。

 まあ、とりあえず、手作りだけは絶対に駄目だと言うことは分かった。

 何処までを手作りの定義とするかはよくわからんが、市販品なら大丈夫ということなんだろう。


 とりあえず礼を言って、俺は何度か頭を下げてから、グミを買って帰るためにスーパーに寄った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る