18

 いつまでも起きない王子の部屋から退室したチェルは、外に誰もいないことを確認してから螺旋階段を下り始めた。けれども階段は長い。また足が痛くなるなと思いながら、チェルは王子について、あるいはサン・ドリヨン侯爵について、情報を仕入れなければならないと考えていた。

 女神ポリムから聞いた話ではこの世界の物語のことわりに沿うと、この後お城で舞踏会が開かれることになっている。そこで王子とシンデレラが出会い、恋をし、王子はシンデレラが残していったガラスの靴を使って街に彼女を探しに行く。ガラスの靴がぴたりと合う女性こそがシンデレラとして認められ、結婚することになる。確かそんな流れだった。

 だとすれば舞踏会の予定があるのか、それともこれから舞踏会の予定が立つのか。どちらにしても二人の出会いの場としてそれを行うことが必須条件だ。まずはそれについて誰か知る人間を探す必要があった。


「あっ」


 声を出したのはチェルを見つけ、指を差した彼女とほぼ同時だった。

 ジルは両手で大きな籠に入れた大量の衣服を抱えたまま、階段を下りてきたチェルを横目で見て、口を開けたのだけれど、


「あんた、ちょうどいいところに来たわ。これ手伝ってよ」


 にんまりと笑みを浮かべると、チェルの返事を待たずにその籠を差し出した。


「いいですけど」


 そう答えつつ籠に手をやるとずっしりと重い。


「まだまだあんだわ」


 ジルの手が離されると重いどころではなく、背中と腰がぴんと張り、彼女の細腕は耐えることを拒否した。籠は傾き、床に汚れの目立つシャツやらパンツやらが広がってしまった。


「何やってんのよ」

「これ、あたしには無理」

「無理じゃないわよ。ちょっと重いだけじゃない。とにかく、アタイは残り取りに行ってくるから、それ、裏の洗い場まで運んどいてね」

「え、いや、それは困るんだけど」


 しかしジルはこちらの反応を確認することもなく、小走りに行ってしまった。

 仕方なくチェルは籠を置き直し、散らばったシャツやパンツを拾い集める。誰が着たものかも分からない。家に居た頃は忙しいが口癖の母親が、それでも知らないうちに洗濯をしておいてくれたものだ。けれどもう母親はいない。これからは自分で全てしなくてはならないのだ。もしそれが嫌なら使用人を雇える立場になるしかない。

 けれど今はチェル自身がその使用人的立場だった。


「やるか」


 諦めて、よいしょと掛け声で籠を掴む両腕に力を入れる。人間一人を持ち上げているような重さに感じたが、それでも何とか籠は上がり、一歩、二歩と歩き始めた。

 ただ、前が見えない。

 そもそもチェルはこの城の構造に関しては何も知らない。

 先程ジルが「裏の洗い場」と言ったが、どこが裏なのかすらよく分からない。

 尋ねようにも通路には誰もいない。

 歩き始めたものの、十数歩進んだところで彼女は籠を足元に置いた。

 まず最初に洗い場の位置を知るべきだ。

 籠を通路の隅に寄せ、チェルは人を探して歩き出す。


 見上げるような高い天井とどこまでも続く赤い絨毯、意匠を凝らした白い柱が等間隔で並び、それを見ているだけで目眩がしてくる。

 と、対面からエプロンをした女性が歩いてくるのが分かった。

 身長はジルよりも頭一つ分は高い。ぴんと伸ばした背筋、かつ、かつと革靴の音を響かせながら歩く。右腕に布を複数枚束ね、掛けていた。

 けれどチェルが注目したのはその歩く姿よりも目元をおおう二つのガラスだ。円形のそれがつながり、縁取りから耳へと細く黒い柄が伸びている。おそらく眼鏡と呼ばれるものだ。話には聞いたことがあるし物語にも出てきたことがあるから知ってはいたが、目にするのは初めてだった。

 その眼鏡の女性は髪を後ろで綺麗にまとめ、険しい表情をして、チェルを見た。


「あなた……その赤い頭巾は、うちの者ではありませんね。部外者でしょう?」


 声だけで相手を緊張させる異様な圧力があった。それはオオカミ卿と初めて対峙した時の比ではなく、チェルの本能に訴えかけてくる危険信号だった。


「名は? 名乗りなさい」


 互いの距離は二メートル。逃げ出したとしても明らかに相手の女の方が早い。足の長さもそうだが、動きの機敏さが違う。何よりチェルは自身の手足が萎縮いしゅくしているのが分かった。これではとても逃げるなんて選択肢は取れない。


「チェル」

「知らないわ。どこの娘が紛れ込んだものか分からないけれど、不法侵入者は殺されても文句は言えないわよ」

「道に迷ったんです」

「どこかの森からいらしたの? けれどここに辿り着くには表門か裏口か、番兵に会わずには来られないわ」

「用件を告げて中に入ったから」

「そう。では、どのような件があるというのかしら」


 全てを見抜かれている、と感じた。そして、この城の中でそれだけのものを感じさせる人物に、チェルは一人だけ心当たりを持っていた。


「侍女長ヒルデガルト様にお伝えすべきことがあり、この城までやってまいりました。侍女長ヒルデガルト様はどちらにいらっしゃいますでしょうか」

「私よ。私が、その、侍女長ヒルデガルトよ」


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