血ゲロのひとつも吐かされたことのない野郎ry 覇血

   引き続き「 」のターン


 どうやってここまで来たのか、ほとんど記憶にない。

 気が付いたら、霧沙希邸の中庭に出てきていた。

 先をゆく篤の背中を見たら、ついていかねばならないような気がしたのだ。

 そうだ、この背中だ。

 射美と一緒にディルギスダークに追い詰められた時、いきなり現れた謦司郎の背中と、どこか通じるものがある。

 超然としていて、何事にも揺るがない、強固な〈自分〉を持っている背中。

 ――ボクとは違う……背中だ……

「見ろ、攻牙」

 篤がひしっ、と指差した。しかしそれは天を指しているとも地を指しているとも言い難く、眼の前の庭園を指しているようにも、彼方の星々を指しているようにも見えた。

「見ろって……何をだよ」

「見えるもの全てを、だ」

 攻牙は首を傾げる。

 月明かりが、夜天の雲を青く浮かび上がらせている。

 かすかな虫の声が間隙を満たす。

 夜風が優しく吹き抜け、攻牙のふわふわした髪を揺らす。

 樹々の梢が、地面にくっきりとした影を投げかける。

 射美のバスすらもが、どこかノスタルジックな陰影を宿している。

「海底の夢だな」

 まるで、この光景に題名をつけようとでもいうように、篤はつぶやいた。

「これが昼間と同じ場所とは信じがたい。何かの命題を感じさせるほどに玄妙な色彩だ。まことに不可思議である」

 見ると、篤は腕を組んでしきりに頷いている。

 不意に、こちらに目を向けてきた。

 透徹した眼差し。

 その口が、何事かを聞くために開いた。

 攻牙は、逃げるようにうつむいた。

「……お前は何歳までサンタクロースを信じていた?」

「ほかに聞くことはないのかよ!」

「む……」

 篤はわずかに首を振る。

「お前が何かを深く憂えているのは、顔色を見ればわかることだ。その上で何も言ってこないのならば、何らかの事情で今は話すことができないということであろう。ならば俺は何も聞かぬ」

 そして篤は、あるかなしかの笑みを浮かべる。

「助けが必要ならばいつでも手を貸す用意がある――などと、わざわざ言わねばらなぬほど浅い付き合いでもあるまい?」

「う……あ……だけどよ……」

 攻牙は、頭をかいた。

「言わなきゃならねえような気がするんだ。だけどボクは……言えねえ気がするんだ」

 ――弱いから……な。

 攻牙は胸中でそう自嘲した。

「それでよい」

「え」

「恐怖を抱かぬ者に、真の勇気は宿らない」

「よくわかんねえ……」

「ふむ、では歌え」

「は?」

「言葉にならぬ思いは歌にするのだ」

「できるかっ!」

 と、怒鳴ったところで――攻牙は全身を稲妻で貫かれた気がした。

 ――今なんか重大なヒントを貰った気がする……!

 篤は何の気なしに言ったことであろうが。

 言葉にならぬ思いは歌にする。

 そのセリフから導き出される、圧倒的閃き。

 アイディアが具体的な形を成す前に、攻牙お前は今までお前たお前の枚数。

 なっ! 座ったままであんな跳躍を! 座ったまま!? す……座ったままァ!!

「どうした? 攻牙?」

 篤あ…ありのまま 今 ありのままをありのまま!

 ……俺は俺を俺るぞ俺ーッ!!

「すまねえが今ボクが考えていることを言うわけにはいかねえ」

 攻牙あの勃起の重ねられた勃起を見たとき……

「ふむ」

「ただこれだけは言っておく。ボクたちは今とんでもねえ危機に陥っている」

 攻牙フフ……その、勃起なんですが……『勃起』しちゃいましてね……

「だが……たった今解決策を思いついた。効果のほどは自信ねえが希望はある」

 篤君がッ 君まで 君るのを君ない!!

「わかった。俺にできることは?」

「今はねえ。ただ明日にゃ考えをまとめて作戦を伝えられると思う」

 『ブッ殺す』……そんな言葉は ブッ殺す必要がねーんだ。

 吞ま!! 酒ずにはいられない!!

 マンモーニよォ……


 ●


 七月二十六日

  午後十一時三分五十八秒

   霧沙希家中庭にて

    「俺」のターン


 俺は、去りゆく攻牙の小さな背中を見ながら、ひとつうなずいた。

 奴はきっと、乗り越えるだろう。

 もともとあまり心配もしていなかったが。

 それでも、攻牙が落ち込んでいると謦司郎や射美がツッコミ欠乏症を罹患して頭痛・吐き気・麻痺・猛毒・石化などの諸症状を訴えてくるので、早め早めの対応が肝心である。

「さて……」

 空を見上げる。

 砕いた金剛石をばら撒いたような、賑やかな星空だ。

 人里離れた山中なので、まるで手を伸ばせば届いてしまいそうな迫力である。

「確か……屋上があったな」

 もっと夜空に近づいて鑑賞したいところだ。

 俺は霧沙希邸の西側の屋根に存在する小さな屋上へと足を運んだ。

 三階分の階段を踏破し、ステンレスのはしごをよじ登ってゆく。

 と、

「おぉ……」

 そこはすでに天空の領域に属する場所だった。

 視界が開けた分、煌めく夜天から受ける美は、圧迫されるような印象を受けるほどだった。

 闇よりもなお星明かりの方が色濃い。

 ふと。

 不思議な感覚を覚える。

 空気の質が、さっきまでと変化しているような気がしたのだ。

 澄み切った匂い。星々の光が粒子となって溶け込んでいるかのような、優しい匂いがした。

 この屋上に来てから、自分と世界との関係に、神秘的な変化が訪れていた。

 地表へと眼を転ずる。

 一面の森。

 しかし闇に閉ざされてはいない。天の光が樹々の底にまで差し込んでおり、ぼうっと淡い緑の燐光を宿していた。

 その幹や枝は、視点が高くなったせいだろうか、どこかユーモラスな絵本のようにねじまがり、今にも木陰から不思議な生き物が顔を覗かせそうな気がした。

 そして――

 眼を見張る。

 ――海が、あった。

 それが海であることに気付いたのは、何秒か経ってからのことだった。遥か彼方、視界のある一面を、広大な平面が覆っていた。まるで巨大な鏡のように、星の天蓋をくっきりと映し出している。

 よくよく眼を凝らせば、わずかにさざなみが立って、星の像に揺らぎを与えていた。

「……ふむ」

 朱鷺沢町は内陸部に存在する街だ。当然、ここから海など見えるはずがない。

 では、この光景は何なのだろうか?

 そう思いかけて、俺は無言で首を振る。

 重要なのは、この眺めが美しいということだ。

 美への感動に理由をつけられるほど、俺は〈観の眼〉をものにしているわけではない。

 ただ感じ取れば良いだけのこと。

 屋上に寝転がると、組んだ両腕を枕にして、満天の芸術を鑑賞することにした。

 冷たい石畳が心地よい。

 だがその感覚も、徐々に消えていった。

 無数の光点が、密度に変化をつけ、何か意味ありげな模様を奏でている。

 まるでこの体が大地と同化し、星そのものとなって宇宙の暗黒淵やみわだを旅しているような感覚。

 そしてそれは、ある意味事実でもある。

「わっ、わっ、びっくりした」

 ……どのくらい、そうしていただろうか。

 突然聞こえた霧沙希の声に、俺の意識は自分の体へと戻っていった。

「む……」

 目を細め、顔をそちらに向ける。

 天窓が開き、霧沙希がひょっこりと顔を出していた。

 その眼が、困ったように微笑んだ。

「諏訪原くんも、眠れなかった人?」

 眼を細めて、首を傾げる。瑠璃青の髪がさらりと揺れて、淡い光の軌跡が夜気に残った。

「その髪は……?」

「え?」

 霧沙希は薄く輝くそのセミロングを、軽く手で梳いた。光の粒子がふわりと舞い上がる。

「なにかついてる?」

「いや……いい。なんでもない」

 俺は不思議に満ち足りた気持ちで、視線を天に戻した。

 彼女が屋上にあがり、俺のすぐそばで両膝をついた。朱子織のロングスカートが、空色の光沢を宿している。

 折り曲げた肘の先に、彼女の体温を感じた。

「きれいね」

「うむ」

 二人で、渦巻く光の天象を眺める。

「ずっとここで星を見てたの?」

「いや、ほんの五分ほどだ」

「でも、もう二時よ?」

「なんと……?」

 攻牙と中庭に降り立ったのが十一時ぐらいのことであったから、すでに三時間もここで寝そべっていた計算になる。

 藍浬はおっとりと笑う。

「ふふ、そっか。今夜は月がふたつ重なっているものね」

「むむ?」

 言われて、月を探す。屋上の手すりに阻まれていたので、身を起こして見る。

 あった。

 銀青色の臥待月が、大小二つ。研ぎ澄まされた光輪に抱かれて、まるで親子のように寄り添い重なっている。

 そう、今宵の天空には、月が二つあったのだ。

「こういう夜はね、時間の進み方がちょっとおかしくなるの」

「ふむ……不思議なこともあるものだな」

 だが、冴え冴えと冷たい夜天の王を見ると、月の持つ霊光力とでも言うべきものを信じられるようになってくる。

 それから俺と霧沙希は、他愛のない話をしながら、ゆっくりと少しずつ回ってゆく星の海を散策した。

 まるで精巧な点画のように、星々が何かの形を成している部分もあった。

 魚にも似た影が光の飛沫を上げて進んでいる。

 二本足の鹿のような生き物が星の草を食んでいた。

 優美な軌跡を描いて舞っていたのは、四つの翼を持つ鷹だ。

 その背景には、螺旋にうねる触手を持つ半透明の龍が、ゆったりと回遊している。

 この世のどこにもいない、しかしどこかにいてもおかしくない。そんな生き物たちの様子が、克明に描かれていた。

「しかし不可思議な空である。人里で見るような、見慣れた星座はどこにもない」

「もう、ひどいなぁ。まるでここが未開の地みたいじゃない。でも、そうね……星座というより、光の集まりが絵になってるみたい」

 霧沙希の視線の先には、翼の生えたネズミのような生き物が二匹、くるくる回ってケンカしていた。

「ふふ、かわいい」

「……攻牙と鋼原に似ている」

「あら、言えてるかも」

 それから、あの生き物がクラスの誰それに似ていると言っては、小さく笑い合った。

 しばらくして、彼女は白い繊手を夜空に差し伸ばす。

「諏訪原くん……少し、相談していい?」

「聞こう」

 視線を上に向けたまま、霧沙希は微笑んだ。

 取っ組み合う二匹の有翼ネズミを見ながら――否、広がる星の銀幕すべてを見ながら。

「……守ってあげたい。優しくしたい。ほっぺをスリスリしたい。笑顔も見たい。そのついででいいから、わたしのことを好きでいてほしい」

 ため息を吐く。

「だめだってわかってるのに、わたしはつい、そう考えちゃう」

 俺はかるく首を振った。

「駄目なことはなかろう」

「ううん、だめなの。それは……なんというか、とても傲慢な在り方だと思う。出会った人すべてから好かれるなんて……そんなこと、あるわけないのに」

 人格者の苦悩……と、一言で片付けるにはあまりに穏やかな口調だった。

「きっとわたしは、弱かったの。誰かの敵になるのが怖かったの。だから、ここは怒らなきゃ、戦わなきゃ、っていうところでも、ついつい相手を抱き入れちゃう。それで大抵の人はお友達になってくれるから、わたしは味を占めて、どんどん戦わなくなってゆく」

 伸ばした手を軽く握り締め、胸元に持っていった。

「けど……それじゃあ救えない人もいた」

「……タグトゥマダークか」

 こくりと、彼女はうなずく。

「諏訪原くんが、彼を怒ってくれなかったら、きっとみんな……今頃こうしてはいられなかったと思う。もっと怖いことになっていたと思う」

 目元に、恐れを滲ませて。

「怖かったわ、本当に。そして、とても痛々しく思えた。きっと諏訪原くんと出会うまで、彼に真っ向から対立しようなんて人はいなかったのね」

 彼女はうつむく。

「……幼馴染なのにね。彼のことはなんでもわかってるつもりだったのにね……」

「霧沙希……」

「どうすれば」

 こっちを見た。髪がなびき、煌めいた。光の粒子が舞い散った。

「どうすれば、辰お兄ちゃんは救われたのかな……何が必要だったのかな……」

 夜天の生き物たちが、一斉に動きを止め、こちらの様子を伺っていた。

「……すまない。俺には、わからない。あの時も、無我夢中でいた。とにかくこの男を止めねば、という思考しかなかった。……救おうとまでは、とても考えが及ばなかった」

 これが、器の差、とでも言うものなのだろうか。霧沙希に見えていたものが、俺には見えない。

「そっか……ううん、気にしないで。ごめんね。変なこと聞いて」

「いや。ただ、やはり霧沙希は強いと思う。そうか、救う、か……ふむ」

 なかなかに斬新な考え方である。

 悪は倒す。それは正しいことだと思う。しかし、「倒さねばならない」というその思考自体が、ある種の妥協ではないのか? 倒さずに――否定をせずに、軋轢を解消する。そういったことを成す能力がないから、仕方なく倒す。いつしかそれを当たり前のことだと思うようになってゆく。妥協だとは思わなくなってゆく。

 それはとても、危険なことだと思う。

 俺は闘いを続けるうちに、こんな簡単なこともわからなくなっていたのだ。

 だが、霧沙希はわかっていた。決してブレることなく、正しさの裏側に隠された陥穽を見抜いていた。

 ――おお、

「そのしなやかにして明晰なる優しさよ」

「……うん?」

「霧沙希、やはりお前は、美しいな……」

 万感を込めて、言う。

「わっ、わーっ! わーっ!」

 妙に動揺した声とともに、天空の魑魅魍魎たちが大騒ぎを始めた。転げまわったり、同じところをぐるぐると駆け回ったり、互いにぶつかって眼を回したり。

「急にどうした?」

「どうしたの? ねえどうしたの?」

 会話が成り立たない。

 霧沙希は、何かの攻撃を受けたかのように身を引き、両腕を顔の前で交差させていた。

「……俺はどうもしないが……」

「い、い、いつかの下駄箱での時みたいに、ま、まっ、またわたしの肩を掴んで壁際に追い詰めて迫ってきたりする?」

 眼を潤ませる霧沙希。

「……しちゃう?」

 して欲しくないのか否か、よくわからない口調である。

「霧沙希が望むのなら」

「わーっ! わーっ! す、諏訪原くん……そういうタチの悪い冗談はちょっと……」

 屋上の手すりに背を押し付け、膝を抱え込む。

「で、でも……冗談じゃないのなら……その……」

 うつむきながらの声は、どんどん尻すぼみになっていった。

「……霧沙希?」

「ううん! わかってる。わかってるの。諏訪原くんにこういうことで深読みしてくれることを期待しちゃいけないってことぐらいは。たぶんわたしの方からどうにかしなきゃいけないってことはわかってるっ」

「うむ?」

 霧沙希は身をすくませてうずくまり、自分の膝の中に顔を抱き込んだ。

「ちょっとタイム! 一分だけ!」

 それから、沈黙が降り立ってきた。彼女の体は、かすかに震えていた。

 のろのろと、時間が動く。

「……ぷはっ」

 やがて顔を上げた時、霧沙希は、いつもの霧沙希だった。

「……ふぅ、やっと復活。びっくりした?」

「いや……うむ……」

 なんとも言えない。

「あのね、諏訪原くん。今はちょっと無理だけど、わたし、諏訪原くんに言いたいことがあるの」

「うむ? 今聞こう」

「い、今はだめ今は無理っ。……だけど……そうね、この夏休みが終わるまでにはぜったいに言うから、ちょっと待っててくれる?」

「うむ。構わんぞ」

「よかった」

 そうして、ふたたび星を見上げる。

「……それには、生き残らないとね」

「同感だ。というより、それは絶対の前提だな」

「うん……もしぜんぶ上手くいったら、みんなでどこかに遊びに行きましょ?」

「異存はない」

「ふふ、霧華ちゃんも一緒にね。……あっ」

 藍浬は声を弾ませ、立ち上がった。

「どうした?」

 屋上の手すりまで駆けていった藍浬。

「ほら、諏訪原くん、見て」

 篤は立ち上がり、そのそばに歩み寄る。

 星明りは、いつのまにか鳴りを潜めていた。

 代わりに、別の光が紺色の空を照らし出している。

 藍浬の白魚のような指先が、地上の一点を示していた。

 鏡面の海が大地に食い込み、深い入り江となっているその場所に、多彩な色の光が集まっていた。夜の海を漂う微生物のように、光の一つ一つが意志を持っているようだった。海岸や、山々の沢から、光の点が列を成し、入り江の一点に集まってきている。

 あれは、明かりを持つ人の群なのだろうか。

夢滓花ネロメリアのお祭りね」

 初めて聞く祭りだった。

 彼方の空から、薄桃色の発光体が、ひらりひらりと舞い降りてくる。周囲の雲が綿菓子のように浮かび上がる。

「銀河のくらやみを漂って、星の記憶をいっぱいに呼吸した花弁が、十五年に一度だけ、ひとりでに落ちてくる」

 藍浬は言葉を紡ぐ。

 花弁は、まるで鉱水に入れられた糖蜜のように、凛々とした光素を振りまきはじめる。

「だけど、花弁は地表まではたどりつかない。ただ、ひらりひらりと舞いながら、大気の中を融けてゆくの」

 その声は、まるで謡っているようだ。

 夢滓花ネロメリアの花弁は、徐々に小さくなってゆく。時々発光が強まって、弾けるように燐光を散らす。

「夢の粒子となって地表に降り注ぐ時、人々はそれを迎え入れるため、みんなで集まってわいわい騒ぎながら光を灯すの」

 眼を細め、いとおしげに。

 やがて、地表に届く寸前、ぱっと眩い閃光を放ち、それきり薄桃色の欠片は消えてしまった。

「これから先、十五年分の夢が、まちがいなく大地ここに届くように。迷子の夢が、出てこないように。ちゃんとみんなに届くように」

 真下にいた人々の歓声と感嘆が、ざわざわと風をどよもしている。

「霧沙希……」

 彼女はこちらの視線に気付いた。軽く息を呑み、眼を泳がせ、うつむいた。

「もう、そんな風に女の子をまじまじと見るものじゃありません」

 人差し指が伸びてきて、俺の頬をむにぃ、と押し上げた。最初はひんやりとつめたく、徐々に暖かさが滲み出てくる。そんな柔らかな指先だった。

 目をそらしながら、彼女は胸を押さえるようにこぶしを当てる。

「諏訪原くんは、ずるいんだもの……」

 伏せがちに、潤んで瞬く視線。

「ふむ」

 俺は腕を伸ばし、霧沙希の頬に人差し指を押しあてた。

「ひゃ」

 彼女は身をすくめる。瞬間、ぱっとその顔に光が当たり、桃色に染まった様子が見えた気がした。

 炭酸入りの薄荷を思わせる花火が、空に上がっていた。

「な、な、なにかな?」

 霧沙希は眼を白黒させる。

 人差し指に当たる頬が、熱くなっていった。

 俺たちは、腕を交差させ、たがいの頬を突き合っている。

「いや、特に意味はない」

 俺はゆるやかに目を細めた。

「ただ、こうして共に価値ある眺めを見て、洗われるような気持ちになると、不意に霧沙希に触れたくなった」

 彼女の危うくも美しい佇まいを眺めながら、つくづくと思う。

 かような、たったひとりの人間の中に、無限の優しさが詰まっている。

 その不思議を、思う。


 ●


    引き続き「俺」のターン


 あっくんが顔面によじのぼってくる感触で、俺は眼を覚ました。

「……ふぐう」

 白くてふわふわしたその体を抱き上げ、あくびをかみ殺した。

 瞼を全開にすると痛いような感覚。

「ふむ……いつもすまぬな」

 あっくんを定位置ずじょうに据えると、頭の中で暴れまわる眠気と戦いながら、服を着替え、顔を洗い、ダイニングへと向かう。

 朝の控えめな陽光が斜めに差し込み、透明な爽気に充ちていた。

「おせーぞ篤! 九時起きとはいいご身分じゃねーか」

「きのうは おたのしみでしたね! せいてき な いみで!」

 すでに全員が食卓についていた。すでに朝食は終わり、俺が来るのを待っていた気配がある。

 エプロンを着用した霧沙希が、ふわりと微笑んだ。

「ふふ、おはよう諏訪原くん。目玉焼きがいい? スクランブルエッグがいい?」

「ありがとう。目玉焼きを所望しよう」

「すぐできるから待っててね」

 踵を返し、調理台に向かう霧沙希。

 目玉焼きの黄身と白身を分離する作業に夢中でいた鋼原は、やがて白身をペロンと平らげた。

「うおー、諏訪原センパイ、いつも朝はボンヤリしてるでごわすけど、今朝はまた一段とボンヤレストな感じでごわすね」

「うむ、夢を見た。気がした」

「ほへ、いったいどんな?」

「確か、この家の屋上で、」

 そこへ霧沙希が顔を出した。

「諏訪原くん、コーヒーいかが?」

「うむ……いただこう」

 なぜか慌しげに往来する霧沙希。

「篤! とりあえずトースト焼きながら聞け」

「なんだ?」

「他のメンツにゃもう言ったが今日ゲーセンに乗り込むぞ!」

 唐突な、決戦の告知。

「……あと一日猶予はあったと思うが」

「いや期限ギリギリに行かなきゃならんわけでもねえよ。それより作戦を立てた。聞け」

「うむ」

「何を何るだァー! ゆるさんッ!」(訳:これより今回の作戦を申し渡す!)

 なぜか徐々に奇妙な暗号言語で話しだす攻牙。

 そのことに対して疑問を差し挟む間もなく、攻牙は次々と重大な情報を開陳していった。

 それは恐るべき陥穽。

 このまま何も考えずにディルギスダークと対峙していたなら、確実に敗北していただろうと思われるほどの。

 攻牙……そこまで考えていたのか……!

「……という感じで行くぞ!」

 徐々語を締めくくり、鼻息も荒く攻牙は言った。

 俺と謦司郎は揃って感嘆する。

「ほう……」

「へえ……」

 やはり、こいつは凄まじい男だ。

 俺は腕を組んでうなずいた。

「なるほど、考えたな」

「へん……小賢しい策を捻らせたらボク以上の奴はちょっといねーぜ」

「俺には到底真似できんな」

「おだてても何も出ねーぜ」

「相変わらず小さいな」

「明らかに不要な付け足しだ!」

「これを言わんと一日がはじまらぬ気がするのだ」

「やめろよそのイミフなこだわり!」

 そこで鋼原が頬を膨らませながら腕を振り回す。

「男の子だけで納得しないでほしいでごわすーっ! 射美にはわかんないでごわすよーっ!」

「どーどー、ちょっと待ってね。後で僕から説明するから」


 それから俺、謦司郎、霧沙希、鋼原の四人は、作戦内容を反芻し、綿密な打ち合わせを行った。

 その間も攻牙はひとりリビングで『装光兵飢フェイタルウィザード』を練習し続けているようだった。

 準備は、ととのった。

 ――死闘が開始する。

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