とらとらの短編集

とらとら

夜に会う

 ゆらゆらと揺れながら、私は暗闇の中を進んでいた。

 目の前に、うっすらと浮き上がるように聳える太い柱が現れ、私はその柱に寄りかかって休んだ。そこは小さな古い木造家屋の玄関先だった。

 少しの間だけ、休ませてもらおう。そう考え、私は目を閉じた。草むらで夜の演奏会を始めた虫たちの鳴き声が、そこかしこで響いている。私は鈴虫の歌声にうっとりと聴き入っていた。


 不意に、カラカラという引き戸を開ける音がした。私は目を開けて、戸口を見た。そこには、背の高い儚げな青年が立っていた。

 青年は細い腕でゆっくりと戸を締めると、何かに気付いたようにこちらを振り返った。夜にもかかわらず、青年はサングラスをかけていた。


「誰か、いるの?」


 薄く綺麗な形をした唇で青年は言った。

 私は戸惑った。勝手に人の玄関の柱にもたれ、休んでいるのだ。追い払われても仕方が無い。


「ご、ごめんなさい……」


 私は小さく声を出した。そして、その場から離れようと体を動かす。


「待って、どうして謝るの?」


 そう聞いた青年の視線は、私を捉えていなかった。


「僕はね、目が見えないんだ」


 沈黙する私に、青年は気づいたようにそう言った。その口許に微笑が浮かんでいる。


「ごめんなさい……」


 私はまた、小さく謝った。


「謝らないで、こんな所に人が来るのは滅多に無いんだ。嬉しいんだよ」


 そう言われて、私は辺りに目を向けた。

 青年の家は森と畑に囲まれ、孤立するように建っている。民家の明かりは遠くにポツポツとあるだけだ。


「あの、疲れているんです……少しの間、ここで休んでいてもいいですか?」


 小さな声で遠慮がちに私が訊ねると、青年は微笑んだ。


「どうぞ、こんな所でいいのなら、いくらでも休んでいって」


 青年の言葉に私は驚いた。


「いいの……? ここで休んでいても」


 震えるように響いた私の声に、青年は頷いた。

 あぁ、何て優しい人だろう。大きな感動の波が私の心に打ち寄せる。


 今まで私が出会った人たちは、皆、一様に私を追い払おうとしてきた。さっきも箒を持った年配の女性に追いかけ回されて、私はフラフラになりながらここへ辿り着いたのだ。


 突然、激しいクラクションの音が鳴り響いた。


「あ、夏月かづきちゃんだ。ごめん、僕もう行かなくちゃ」


 青年はそう言うと、白い杖をつきながら舗装された道路に向かう。途中、振り返って、私に言った。


「好きなだけ、ここで休んでいていいからね」


 夜の闇の中で爽やかに響いた青年の声を残して、車は走り去って行った。後には、柱に寄りかかって休んでいる私と、草むらで歌う鈴虫の鳴き声だけが残された。


 * * * * *


「ごめん、遅くなって」


 そう言って、僕は車に乗り込んだ。


「何してたの?」


 聞き慣れた、夏月ちゃんの声が車内に響いた。夏月ちゃんと僕は幼稚園からの幼馴染だ。


「家を出た時、女の子に会って……少し話をしてたんだ」


 夏月ちゃんが車を出発させるのを感じながら、僕は説明した。


「ちょ、ダメじゃん! 知らない人と話しちゃ……悪い人だったらどうするの!?」


 慌てたように夏月ちゃんが言うのを聞いて、僕は笑った。


「大丈夫だよ。悪い子じゃなかったから」


 体が大きく傾く。どうやら、道がカーブしているらしい。


「そういう事じゃなくて……もう、いいわ。で、その子の名前は?」


 夏月ちゃんに聞かれて、僕は黙り込んでしまった。そう言えば、名前を聞くのを忘れていた。

 僕が黙りこくっていると、夏月ちゃんがイライラしたように声を出した。


「ちょっと、空太そらた!」


「あ、ごめん。その子の名前、聞くの忘れちゃった」


 僕が言うと、夏月ちゃんが大きく息を吐く音が聞こえた。

 僕は見えもしない目を、窓の外に向けてみた。車のエンジン音が車内に響いて、僕の体にまで振動する。


 車とは、どんな乗り物なんだろう?

 色や形、走っている姿はどんなだろう?

 そして、車の窓から見える風景はどんなだろう?


 僕は小さな頃から頭にある疑問を、心の中で呟いていた。この世界のあらゆる物を、僕は見る事が出来ない。手で触れて、大まかな形は分かったとしても、見たことの無い物を想像するのは、とても難しい事だった。ましてや、色なんてものは全く分からない。言葉でいくら説明されても理解できないのだ。


『赤は暖かい色で、青は冷たい色よ』


 小学生の頃、夏月ちゃんがそう教えてくれたけど、僕にはさっぱり分からなかった。

 他の多くの人たちと同じように、僕の目も正常だったなら、どんなに良かっただろう。そう思うことも、しばしばある。

 大抵の場合、僕が感じている事と、他の人が感じている事は、違っているのだ。


 不意に、先ほど聞いた少女の声が思い起こされる。


『ご、ごめんなさい……』


 卑下するように聞こえた少女の声に、僕は何とも言えない親近感を覚えた。

 いつだったか、僕も毎日、謝って過ごしていた時期があった。それは僕の目が見えない事で回りに迷惑をかけていると思っていたからだ。


 少女にはどんな理由があるのだろう。何か、辛い事があったのだろうか。弱々しい彼女の声を思い出して、僕の胸は少し痛んだ。


 * * * * *


「こ、こんばんは……」


 私は勇気を出して言った。

 昨夜、出会った青年の家をもう一度訪ねると、青年は、何かを待つように玄関に座り込んでいた。


「その声は、昨日の」


 青年の顔がパッと輝く。


「何を……しているの?」


 玄関に座り込んだ青年を不思議に思い、私は訊ねた。


「君を、待ってたんだ。今日も会えるような気がして」


 そんな言葉をかけられたのは、初めてだった。皆、私とは二度と会いたがらないものだったからだ。


「どうして……?」


 私は震える声で聞いた。青年は腕で脚を抱えるようにして、クスッと笑った。


「さぁ、どうしてかな? 分からないよ」


 その夜から、私は毎晩、青年に会いに行った。青年も夜が訪れると、玄関に座り込んで私を待っていてくれた。私には、それがとても嬉しかった。

 誰かに、こんなに好意的に迎えられるのは生まれて初めての事だった。


 青年は草むらに潜む虫たちの演奏を遮らないように、小さな声で私に聞いた。


「こんな何にも無い所に来て、楽しいかい?」


 毎晩やって来る私を不思議に思ったのか、青年はそう聞いた。私は青年を真っ直ぐに見て答える。


「えぇ、とても」


「そうか」


 青年の視線の先に、私はいない。目の見えない青年の目は、何を映しているのだろう。青年はいつもサングラスをして、何も映さない瞳を隠している。私はどうしても青年の素顔が見たかったが、そんなことを言ってしまえば、青年は気を悪くして二度と私と会ってくれないような気がして言えなかった。


「ここに、ね」


「うん?」


「ここにはね、立派な柱があるから、休むのに丁度いいの」


 私は玄関のライトで浮き上がるように聳える柱を撫でた。


「この柱はそんなに立派だったのか」


 青年もそっと手を伸ばす。指先が触れそうになって、私はそこから飛びのいた。細くしなやかな指が、柱の表面を滑る。私はうっとりと、その光景に見惚れた。


「見てみたい……?」


 私の口から勝手に言葉が飛び出していた。


「え? なんだい?」


「貴方も、見てみたい? この柱を」


 私の問いかけに青年は、考えるようにして押し黙ってしまった。青年の手は柱に触れたままだ。


「……そうだね。見られるものなら」


 青年はそう言って悲しげに笑った。その手は、柱を離れ、膝の上に置かれた。


 何て残酷な質問をしてしまったんだろう。私は青年の目が見えないことに同情し、自分の無力さに涙を流した。そして、この青年の目が見えないことに感謝した。

 きっと、青年の目が不自由でなかったら、私とこんな風に話すことは無かったのだから。


 * * * * *


 毎夜、繰り返される少女との語らいで、僕は毎日、寝不足だ。それでも、少女に会うのを止めなかったのは、毎日少しずつ、少女が僕に心を開いていっている事に気付いていたからだ。

 出会った頃とは違い、少女におどおどした様子は無くなり、穏やかで物腰の柔らかな話し方に変わっていた。きっと、それが本来の少女なのだろうと僕は思った。


 その日の朝も、僕は夜更かししたせいで痛む頭を摩りながら起き上がった。


「空太~! 起きてる~?」


 ガラガラと勢い良く玄関が開く音と一緒に、夏月ちゃんの元気のいい声が聞こえてきた。夏月ちゃんの声は出会った頃から少しも変わらない。物怖じしない溌剌とした夏月ちゃんの声は聞いているこっちまで元気になってくる。


 僕は眠たい目を擦って、玄関へ向かった。


「おはよう、夏月ちゃん」


「……また、夜更かししたの?」


 僕の顔を見るなり、怪訝そうな夏月ちゃんの声が玄関に響いた。

 車に乗り込むと、夏月ちゃんは徐に聞いてきた。


「ねぇ、空太。その毎晩、話しにくる子って、誰なの?」


「分からないよ」


 僕は正直に答えた。目の見えない僕にとって、その人物が何者かを他人に説明するのは難しい事だった。どうしたって抽象的で、怪しさが拭えないのだ。


「名前、聞いたの?」


「あっ……」


 夏月ちゃんの言葉に僕は、またしても少女に名前を聞くのを忘れた事を思い出した。会う前に、今日は名前を尋ねようと決めていても、少女に会うと、途端にその思いはどこかへ消えてしまうのだ。もしかしたら、本当は名前なんて聞く気が無いのかもしれない。


「いつも忘れちゃうんだよね……」


 僕は言い訳するように呟いた。


「ねぇ、その子、本当にいるのかしら?」


 真剣な声音で夏月ちゃんが言ったので、僕は黙ってしまった。


「ねぇ、その子、幽霊とかじゃないわよね?」


 車が停まった。赤信号のようだ。再び車が走り出してから、僕は口を開いた。


「そうか、僕は毎晩、幽霊と会話してるのか」


「もう! 冗談言ってるんじゃないのよ!」


 夏月ちゃんは怒ったみたいだった。


 * * * * *


「綺麗な満月」


 私が言うと、青年は夜空を見上げた。月明かりに照らされた青年の顔が儚く浮き上がる。

 不意に吹いた風が、青年の少し長めの髪を吹き上げた。私はサングラスの奥に潜む、青年の瞳を追いかけた。

 彫刻のような横顔が俯いて、ポツリと呟く。


「見てみたいな……」


「満月?」


「いや、君を」


 その言葉に私は震えた。


「きっと、嫌いになるわ」


「どうして?」


 青年の問いかけに、私は上手く答えることが出来なかった。

 だって、皆そうなんだもの。今まで会った人は、皆、私を追い払った。そうしなかったのは、今、目の前にいる青年だけだ。だけど、それは青年の目が見えていないからだと、私は確信していた。


「私は醜いの。きっと嫌いになる」


「嫌いになんて、ならないよ」


 青年は優しく言った。その視線は遠く空の彼方を見ていた。小さな星がキラリと瞬き、私の代わりに涙を流す。


「私を見た事がないから、そう言えるのよ」


 私は半ば、怒ったように呟いた。青年に対して怒っていたのではない。自分の存在に腹が立っていたのだ。


 どうして私は美しく生まれることが出来なかったのだろう? 誰からも愛されるような、例えば、そう、蝶のように美しい存在に。


 微かに青年の笑う声が聞こえた。私は青年を見た。青年の顔はこちらを向いていた。

 ドキリと私の胸が高鳴る。けれど、サングラスの奥の瞳は、決して私を捕えることは無かった。


「嫌いになんて、ならないよ。僕は君を知ってるから」


 青年の言葉に、私はギクリとした。何を知られているのだろう?

 私は恐怖に震えながら、恐る恐る訊いてみた。


「私の何を知っているの……?」


「君はとても優しい」


 青年の言葉に、縺れていた心が解かれていく気がした。


「僕に会いに来て、色んな話をしてくれるし、僕の隣で話を聞いていてくれる。それに……」


 青年は少し躊躇うように息を吸った。その息を吐き出すと、青年は続けた。


「それに、君の声はとても美しい」


 涙が出そうだった。嬉しくて嬉しくて、天にも昇れそうだった。

 私が体を振るわせると、小さな風が起こった。私の心は、完全に解かれたのだ。


 私は、青年の願いを叶えてあげたくなった。『見てみたい』という想いを、叶えてあげたくなった。

 私に喜びと安息を与えてくれたこの青年に、同じだけのものを返したいと思った。その為なら、私は何を失ってもいいと思った。


 * * * * *


 その夜、僕は少女を待っていた。名前も知らない、声だけの少女を。美しく、透き通るような声の少女を。


 少女はいつも、足音も無くやってくる。腕の辺りに柔らかな風を感じると、もう、すぐ隣に少女はいるのだ。

 いつだったか夏月ちゃんが言っていた。


『ねぇ、その子、幽霊とかじゃないわよね?』


 僕は、もしかしたら、そうなのかもしれないと思った。だけど、それでもいいと思った。


 大抵の人は、僕が盲人だと知ると、同情して、あれこれ世話を焼いてくれる。だけど、そんなものは長くは続かない。多くの人は僕と関わるのを面倒だと感じ、やがて、僕から離れていくのだ。

 そんな僕に、少女は毎夜、会いに来てくれる。僕には、それが嬉しかったし、少女と話すのは楽しかった。


 いつか、一目でいいから少女の姿を見てみたい。そんな想いが、僕の中に生まれていた。

 そんな事は到底、叶いっこないと知っていたけれど。


「こんばんは」


 優しく撫でる風と共に、少女の声がした。


「こんばんは」


 僕は大して驚きもせず、声のした方に顔を向けながら挨拶した。


「今日は、あなたに贈り物があるの」


 突然の少女の申し出に、僕は首を傾げた。


「贈り物? なんだい?」


 長い沈黙が辺りを包む。いつもは煩いくらいに鳴いている鈴虫たちの声が、今日は聞こえなかった。


「立って」


 少女に言われるまま、僕は、前に少女が立派だと褒めていた柱を支えに立ち上がった。


「サングラスを外して」


 新しいサングラスでもプレゼントしてくれるのだろうか? 僕は、そんな風に考えながら、片手でサングラスを外した。


「これでいい?」


 僕がそう聞くと、何かが僕の目を覆った。柔らかで繊細な何か。僕には、それが何か分からなかった。

 瞬きを繰り返す僕の目に、微かな痛みが走った。


「痛い……!」


 言って、僕はサングラスを地面に放り、目を擦った。

 次に目を開くとぼんやりと、何かが見えた。


 見える? どういうことだ?


 混乱する頭で、僕は必死に目を見開いた。段々と視界がハッキリしてくる。薄暗い森や遠くに鎮座する山々、薄明かりの玄関。視線を上に向けると、空には少し欠けた月が眩しいほどに輝いていた。


「あれが、月……?」


 僕は呟いた。ふと、手を見ると、透き通った細い糸のような物が絡まっていた。


「何だ……これ?」


 目の高さまで持ち上げて、見ようとすると、視界に太い柱が映った。そこに一匹の虫がとまっている。それはとても綺麗な白い蛾だった。

 目が見えない頃には分からなかった色が、今の僕には驚くほど理解できた。清純で穢れを知らないその色は、正しく白だった。


「そうだ、あの子は……?」


 僕は少女の姿を探して、あちこち見回してみた。暗い森や、静けさに包まれる庭。遠くに民家の明かりが見える道路の方にも行ってみた。

 それでも少女の姿は見当たらなかった。


 玄関に戻ってくると、僕は溜め息を吐いて、その場に座り込んだ。いつも少女が休んでいたであろう柱に目をやると、そこに、まだ白い蛾が張り付いている事に気が付いた。

 玄関のライトに照らされて、浮き上がるように輝くその小さな白い蛾は、ジッと動かずにいる。


「綺麗だな……」


 僕が呟くと、不意に蛾は、白い翅をひらつかせて飛び立った。蛾の翅が巻き起こした柔らかな風を頬に感じた。

 僕は立ち上がって、その蛾を見た。まるで方向が分からないというように、フラフラと所在なげに飛んでいる。

 僕の目から涙が零れた。


「ありがとう……」


 少女の名前を呼ぼうとして、僕は少女の名前を知らないことに気付いた。段々と、暗い森へと入っていく蛾を見つめて、僕は大きな声で言った。


「ありがとう……ありがとう……!」


 白い蛾の姿が見えなくなると、僕は俯いて地面を眺めた。その時、僕の足下を大きな蜘蛛が横切っていった。蜘蛛は、蛾の後を追うように、暗い森へと姿を消した。

 さっきまでは、あれほど静かだった草むらの虫たちが、盛大なおしゃべりを始めている。


 僕は、土の上に転がっているサングラスを拾い上げ、辺りを見回した。

僕の目は、確かに見えるようになっていた。


 * * * * *


 森に入って暫くすると、どこからともなく蜘蛛の声が聞こえてきた。


「さぁ、お前の願いは叶えたよ。褒美をおくれ」


 私は蜘蛛の声に導かれるまま、蜘蛛の巣へと飛んでいった。やがて、私の体は弾力のある柔らかな糸に行き当たった。

 柔軟で粘着質な蜘蛛の糸は、私の翅に絡まり、足に絡まり、全身に絡まった。体中に糸が絡みつくと私は動けなくなり、体の力を抜いて、グッタリと糸に身を預けた。まるで、何も無い空間に浮かんでいるような気分だった。


 闇の中で、再び蜘蛛の声が響く。


「お前も変な蛾だねえ。人間に自分の目をあげたいだなんて」


 そこら中に張り巡らせた糸の上を歩いているのだろう。段々と蜘蛛の声が近づいてきていた。


「献身的だねえ、涙が出そうだよ。だけど、これは約束だからね。願いを叶えた礼に、お前の命を貰うよ」


 言葉とは裏腹に、蜘蛛は嬉しそうに言った。蜘蛛はケタケタと笑い声を上げ、その響きは森中に広がっていく。声を潜め、隠れている虫たちの震える羽音が聞こえた。


 本当なら、とても怖いはずなのだけど、私は恐怖を感じてはいなかった。


 目を失ったおかげで、蜘蛛の口にある恐ろしい鋏角や、何者をも見逃すまいと光る八つの眼を見なくても済んだのだ。今の私に、恐れるものなど何も無かった。


「あぁ、本当に心が痛むよ」


 心のこもっていない蜘蛛の声が、グルグルと渦巻いて聞こえてくる。上も下も分からなくなって、私は青年の言葉を思い返していた。


『綺麗だな……』


 目が見えなくなった私には、青年が何を見てそう言ったのか分からなかった。けれど、例えそれが、私に向けられたものではないとしても、私の心は嬉しさに震え続けている。


 青年は見たのだ。その目で、私の目で。綺麗だと、口にしてしまうほど、綺麗なものを。

 それだけで私の心は満たされていた。


「さぁ、もうお休みの時間だよ」


 蜘蛛の甘い囁きが、遠くの方で聞こえた。

 わたしは呟いた。


「……ありがとう……」


 その呟きを最後に、何も聞こえなくなり、何も感じなくなった。


 ただ、私はとても幸せだった。


 * * * * *


「これって奇跡なの? ねぇ、空太!」


 僕の目が見えるようになったと伝えると、夏月ちゃんは目を潤ませ、僕に飛びついて喜んだ。

 また見えなくなるのではと、心配した夏月ちゃんの勧めで、かかりつけの診療所に行くと、先生も奇跡だと何度も呟いて、驚いていた。

 先生が言うには、僕の目は至って健康らしい。


「まったく、どうして急に見えるようになったのか、検討がつかんよ」


 そう言って、先生はまた呟いた。


「奇跡だ」


 だけど、僕は知っている。僕の目が見えるようになった本当の理由を、僕に目をくれた、一匹の美しい蛾の事を。


 目を閉じると、今でもその姿が鮮やかに蘇ってくる。

 照り返すように白く輝く翅を羽ばたかせて、森へと入っていく姿を、僕は忘れることはないだろう。


「良かったね、異常なしだって」


 診療所を出ると、夏月ちゃんがクルリと振り返って僕に言った。

 僕は微笑んで静かに頷いた。夏月ちゃんは満足そうに笑うと、またクルリと前に向き直り歩き出した。


 僕は高い空を見上げた。どこまでも続いていく青空の壮大さに、輝く雲の白さに、目に見える全てのものに、涙が滲む。


 僕は、ふと考えた。これは、僕の涙だろうか……それとも、彼女が泣いているのだろうか。

 僕は涙を拭って、夏月ちゃんの後を追った。視界の端で、白い蛾がユラユラと揺れていた。

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