10

 厨房に飛び込み、重たい扉をすぐに閉じる。サメの歯が扉にぶつかり、めり込んだのはその直後だった。

「急げ!」

 続く衝撃に備え、彰は全力で扉を押さえる。エレンが駆け、手近なワゴンを扉の前に押しやった。一台を横倒しにし、その上に一台を重ね、二台を押さえるように更に一台を運んできて、

「うお!」

「くっ!」

 凄まじい衝撃が扉を動かした。両開きの扉が押され、開いた隙間からサメの大口が覗く。足を踏ん張り彰は扉を押し返した。扉が動き、サメが押され、隙間が閉じる。

「エレン!」

「わかっている!」

 その瞬間に、エレンが扉を引く取っ手にワイヤーを通して縛り、両開きの扉が動かぬよう固定した。続けて近くの棚を倒し、バリケードのように扉を塞ぐ。再び衝撃が扉を揺らしたが、今度は扉が動くことはなかった。

「さて、これからどうする?」

 荒く息継ぎを繰り返しながら、エレンが問うてくる。

「……どうしたもんかね」

 同じく息を継ぎながら、彰はそう答えた。そうとしか答えられなかった。

 予定では、シャーク・マンが最上階に上がってきたときには、彰はスカイテラスに既にいる予定だった。そこにシャーク・マンを誘き寄せ、背後から近寄ったエレンが銃で撃って落とす手はずだったのである。だが金治郎の出現と、シャーク・マンの歯を投げる攻撃により、予定が大幅に狂ってしまったのだ。

「何か別の作戦は?」

「今考えてるとこだよ」

 厨房を見回しながら、必死に頭を回転させる。ここに立て籠もっていれば彰たちは安全かもしれないが……それではシャーク・マンを倒すという目的は果たせない。それに、しびれを切らしたシャーク・マンがホテルを下りていってしまったら、下にいる人間たちは無事では済まないだろう。それでは今までの努力が無意味になってしまうのだ。

「あまり時間をかけるのはまずいぞ」

「分かってる……ってか、お前も少しは考えろよっ」

 彰が苛立ちの声を上げ、同時に扉がまた衝撃に揺れた。微かにヤツの雄叫びも聞こえてきた。

「……ったく、あんだけ食ってまだ食い足りねぇのか、あいつは」

「ヤツの食欲は無限だ。サメと同じにな。食えるモノが目の前にあれば、どこまでも食らおうとするぞ」

「だったら肉だけじゃなくて野菜も食えってんだ!」

 八つ当たり気味に、彰は段ボール箱に入っていたキャベツを扉に投げつけた。ゴンと音が響き、扉の外からバンッと音が返ってくる。

「……野菜は嫌いらしいな」

「……サメだからな」

 嘆息し、彰は軽く首を回した。苛立ってもいい考えが浮かぶわけではない。冷静に、落ち着いて……振り返って周囲を見回した。何か使えるものがないか探した。ここは厨房だ。明日の正式オープンに備えて、食材はたっぷり保存されている。調理器具も充分だ。その一つ一つを確認しながら、

「エレン、あんたが持っている装備で、あと使えそうなものは?」

「まともな武器はもうないな。あるのはせいぜい、工作器具が一揃いといったところだ」

 エレンの答えを聞き、彰は満足そうに頷いた。思いついた一つの作戦、それを実行するには充分だった。

「よしっ……それじゃ、あいつにたっぷり肉をごちそうしてやろうじゃねぇか」


 ……食っても食っても、腹が満たされることはなかった。多くの肉を襲い、抵抗する肉を右腕のサメに食わせてきた。だがその度にサメは大きくなり、腹は余計減ってくる。腹が減ってくるからもっと襲いたくなり、だが襲えば襲うほど腹は更に減ってしまい……いつまでも、どれだけ食っても、腹が満たされることはなかった。

 自分の腹は、サメの腹は……自分たちの腹は、いつまでも空腹のままだった。

「シャァァァァァクゥゥゥゥ……」

 空腹に苛立ちながら、ほの明るい部屋の中を彷徨い歩く。邪魔なイスやテーブルを放り投げ、叩き壊し、踏み潰して……そうしながら、あの硬い扉の向こうに行く方法を考えた。あの向こうに二体の肉がいるのだ。一体は強い気配の肉だ。だが今の自分なら、容易に食らうことができるだろう。

 廊下の肉はもう食った。あと近くにある肉は、あの扉の向こうの二体だけ。それも食ったらどうしよう……そこまで考えたところで、この下に行けばまだ肉が見つかるかもしれないと思った。今日感じた気配と、さっき食った肉と、今ここにある肉……数を計算すれば、食っていない肉の方がずっと多いことに気がついた。

「シャァァァァァクゥゥゥゥ……」

 ふと……この肉は後回しにしてしまおうかと思った。この肉を食うのに手間取り、他の肉を逃がしてしまったら、そちらの方がもったいない。どのみち肉など、どれも味は似たようなものではないか。食えるのなら、どんな肉だって構わない。

 そう思い、体の向きを変えたそのとき――硬い扉が開いた。同時に鼻先をくすぐったのは、強烈な血の臭いだった。

 サメの脳を震わす、血の臭いがした。


 狭い中に身を潜め……彰は生きた心地がしなかった。自分のアイディアながら、正気ではないと後悔する。

「シャァァァァァァァァァァァク!」

 中から外は見えない。だがシャーク・マンの雄叫びと、ヤツがこちらに駆け寄ってくる気配は確かに感じた。凶悪なその気配。緊張と恐怖に奥歯を噛みしめ、だが彰はしっかりと目を開けていた。

 そして――自分の近くのワゴンが殴り飛ばされる音を聞いた。次いで、ドンッと肉が床に落ちる重たい音。続いて生肉を噛むニチャリとした音が聞こえ……シャーク・マンが一口で肉を呑み込む気配を間近で感じた。

(ここまでは予定通りだ……!)

 生肉を載せたワゴンを使い、それでシャーク・マンの気をひくのがこの作戦の第一段階だ。生肉にはエレンや彰の血もかけてある。普通の肉よりもヤツの注意をひけるはずだった。血の臭いはサメを誘き寄せる、そのサメの本能に賭けた作戦だ。

 彰が潜むワゴンには肉は載せていなかった。だが、彰自身が隠れている。シャーク・マンがこちらに気づかないことを祈りながら、

(……二台目……三台目……四台目……)

 彰は殴り飛ばされていくワゴンの台数を数えた。血の臭いに興奮したシャーク・マンが暴れ、次々とワゴンの上の肉を食らっていく。だがその肉は、死んだ動物の肉であり、サメが好む生きた人間の肉ではない。さらに量も少なく、人間を一呑みするシャーク・マンの腹を満たせるようなものではなかった。中途半端に食欲が刺激されたせいで、シャーク・マンがより興奮していくのがわかった。

(……今だ!)

 六台目のワゴンが宙を舞った瞬間、彰はテーブルクロスで覆ったワゴンの中で、腕の傷口に貼ったガーゼを乱暴に引きはがした。肉に血をかけるために切った傷。そこからまた血が流れ始める。その血の臭いを感じ取り、

「シャァァァァァァァァァァァク!」

 シャーク・マンがこちらに駆け寄ってきた。興奮したヤツが、大口を開けた右腕のサメを突き出し、ワゴンごと自分を食らおうとする……その様子を想像し、危うく漏れそうになった悲鳴を彰は必死に呑み込んだ。

 そして――ワゴンを衝撃が襲い、

「シャァァァァァァァァァァァク!」

 シャーク・マンが苦痛の声を上げた。作戦が上手くいったことを悟り、彰はテーブルクロスを押しのけてワゴンから脱出する。その直後……彰が隠れていたワゴンは、それをくわえ込んだサメの腕によって、高く上に振り上げられていた。そして振り下ろされ、振り回される。だが、ワゴンはサメの口の中にあるままだった。決して口から落ちることはなかった。

 ワゴンの周囲に取り付けられた、無数の刃物……包丁やナイフが、サメの口に突き刺さっていた。また同時に、サメの歯がワゴンに刺さり、ねじ曲がった金属がそこに引っ掛かっていた。興奮した状態で思い切り噛みついたため、ナイフも歯もより深く刺さり、抜けなくなってしまっていたのだ。

「ざまーみろ!」

 苦痛に暴れるシャーク・マンを見て、床に転がった彰は罵声をぶつけた。だがもちろん、これで終わりではない。これだけでは、とてもではないがシャーク・マンは殺せない。

「エレン!」

 彰が名を呼べば……スカイテラスの方から懐中電灯による合図が送られてきた。彰がシャーク・マンの気をひいているうちに、エレンがスカイテラスの戸を開け、仕掛けを施す手はずになっていたのだ。

(次は、あっちに誘導する番だ!)

 彰は立ち上がり、スカイテラスに向けて駆け出した、

「ぐあ!」

 その背中に何かがぶつかり、彰はその場に吹き飛ばされるようにして転倒していた。衝撃と痛みに、肺から一気に空気が吐き出され、一時的に呼吸困難に陥ってしまう。

「なっ……んだ……」

 苦しい息の下、どうにか振り返ってシャーク・マンを見る。傷口から血を流すサメの腕をだらりと下げ、あいた左手にはレストランのイスを持っていた。それを持ち上げ、振りかぶり、

「ちっ……くしょ!」

 勢いよく投げてきた。彰は横に転がるようにして、紙一重でそのイスを避ける。サメの歯が使えなくても、投げるモノなら他にもある、そういうことだろう。

 シャーク・マンはゆっくりと近づきながら、イスを、テーブルを、ワゴンを彰目掛けて投げ続けた。彰はそれを、立ち上がっては転がり、尻餅をついたまま後退り、時には他のイスやテーブルを盾にしながら、かわし続けた。

 そうしてようやく……スカイテラスの入り口に彰は辿り着く。疲労にふらつきながら、それでも立って、シャーク・マンと対峙した。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 シャーク・マンはほんの数メートル先に立っている。感情を感じさせない黒い瞳で、だが確かに彰を睨みつけてきていた。ダラダラと流れ続ける血が、シャーク・マンの足下に血溜まりを作っていた。

「へっ……」

 彰もシャーク・マンをにらみ返しながら……挑発するように笑って見せた。シャーク・マンの人間の顔を見て、真っ直ぐ目を合わせて、嘲るように嗤った。そして、右手を伸ばし……シャーク・マンの右腕を指さす。人差し指で、そのサメをつつくように。その指を、今度は自分へと向けた。人差し指で、同じように自分自身をつついてみせた。

 それからもう一度。彰は、今度は声を出しながら同じ動作をした。

「そいつで……」

 サメを指さし、

「俺を……」

 自分を指さし、

「……食ってみな!」

 挑発するように嗤った。

「シャァァァァァァァァァァァァク!」

 シャーク・マンが怒りの叫びを上げる。ナイフが更に刺さるのも構わず、サメの口に力を入れていた。ワゴンがひしゃげ、潰れる。ほとんど真っ平らになったそれを、シャーク・マンは左手で乱暴に引っ張り出し、放り捨てた。

「ああ、いいぜ! こいよシャーク・マン!」

「シャァァァァァァァァァァァァク!」

 シャーク・マンが己の右腕を振りかぶり、振り下ろす……その勢いを利用して、サメごと飛んできた。大口を開けたサメがぐんぐんと迫ってくる。人間を丸呑みにできるほどの深く暗い穴。その口の中に、抜けきらなかった包丁やナイフがまだ数本刺さっていた。それを見て、彰はにやりと笑い、

「エレン!」

 その名前を叫びながら、スカイテラスの床に身を投げ出した。そして迫り来るサメが……何かに引っ張られたかのように、彰を飛び越えていった。

「てめえもサメだろ! だったら海辺へ帰りなっ、シャーク・マン!」

 視線だけでそのサメを追いながら、彰は叫ぶ。スカイテラスの縁に立つエレンが見えた。そこで彼女は、たった今そこから、厨房にあった戸棚を下に落としたばかりだった。その戸棚にはワイヤーが縛り付けてあり、ワイヤーのもう一方はシャーク・マンのサメに突き刺さったナイフや包丁に結ばれているのだ。自分自身の飛ぶ力と、落下していく戸棚の重さによって、シャーク・マンがはるか下の地面へと落ちていく。やがて……ドンッという重たい音がこの最上階にまで届いてきた。シャーク・マンがホテルの中庭に、海を模したあの巨大プールの側に落ちた音だった。それきり、もう音が聞こえてくることはない。シャーク・マンのあの叫び声が聞こえてくることもなかった。都会のど真ん中に作られた偽物の海辺、そこに横たわるあの怪物の死体を彰は想像し、

「へっ……シャーク・マンにはそこがお似合いだ、くそったれめ」

 全身の痛みに顔をしかめながら、その場で仰向けに寝転がった。満天の星が見えた。今日がよく晴れた日であることに、彰はそのとき初めて気がつき……唇の端だけをつり上げるようにして、安堵の笑みを浮かべた。

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