晶姫様はご機嫌麗しゅう

 へくしょん、と彩光あやみつはくしゃみをして唾を畳に飛ばした。

 親方の不躾な行為に供をして近関藩このぜきはんの城内にある屋敷の一室へ通された年上の弟子である彩緋あやあけは酷く顔を顰めた。

「親方」

「ああ、ちくしょう。どいつだ俺の噂してんのは。彩緋も怖ぇ顔すんなよ、俺のせいじゃねぇよ」

 地元の方の城で弟子が勝手に師の名前まで出して仕事を受けたなんて事は露知らず、彩光は鼻を擦った後は素知らぬ顔で依頼主を待つ。

 やがて、さり、さりと涼やかに床を絹が擦る音が彩光の耳に届く。

 彩光は両手を拳にして揃えて畳を押さえ頭を軽く倒して視線を伏せ、後ろに控える彩緋は両手を八の字に揃えて畳に付き深く腰を折って身を伏せる。

 女中の手によって静かに襖が開かれ、姫が着物の裾で畳を擦りながら上座に着く。

「よく来て下さいました。どうかお顔を上げてくださいな」

 まずは彩光が顔を上げ拳を畳から離し太股に添える。

晶姫あきひめ様はご機嫌麗しゅう。帛屋きぬや紡衣ほうえ彩光、並びに内弟子彩緋、御前おんまえにお見えするに恐悦にございます」

 彩光の堂に入った挨拶は宮中でも通用するものだ。

 それを都に近い方ではあると言っても一つの藩の姫が受けては動悸が抑えられるものではない。晶姫は広げた扇を顔に持って来て赤らむ頬を、そして垂れる振袖が赤らむ喉を、男子の目から隠す。

「お戯れを。お呼びしたので主と客の立場で席を用意させていただきましたが、そちらは我が父よりも位の高いお方ではありませんか。どうかお気遣いはなさらないでくださいませ」

 晶姫は我が屋敷でありながらいさよわしくなり果てる。彼女からすれば仏典に出てくる菩薩に敬われたに等しい心境だ。気後れもするものである。

「おお、それじゃあ遠慮なく。お姫さんに呼ばれて隣の藩よりえっちらおっちら罷り越したぜ」

「親方、砕け過ぎです。年頃の姫にそのような不埒な口の利き方をなされるな」

 彩光が姫の畏れを知って気安くなれば、即座に彩緋に窘められて顔を顰める。だがそれも、晶姫がくすりと笑って緊張が解けたようなので良しとしよう。

「先代からの弟子なんだが、こいつぁ堅物でな。俺も昔さんざ叱られたからよ、文句も言えねぇんで厄介なんだ」

「あらまぁ」

 彩光が肩越しに指差して付添人の紹介をするから、晶姫は扇を更に引き寄せて鈴の様に鳴ってしまう口元を隠す。

 彩緋は彩光の物言いに眉を顰めるものの、今度は苦言は呈さない。彼とて、朝廷から官職を頂きながらも年若い姫君の笑いを誘って和ませる親方の人柄を好ましくは思っているのだ。

「それで文にはうちの藩の跡取り様に向けて空染そらぞめを頼みたいってことだが、詳しく教えてくれるかい?」

 場の空気も和らいだところで彩光の方から本題を取り出した。

 晶姫も笑んでいた顔を一旦は引き締め一つ頷いた。

「実はこの度、わたくしが行恒様へ嫁ぐ話が進んでおります」

「ほぉ。あれか、近関藩の立て直しを円滑にするためか」

 彩光も最近の事情は一通り把握している。近関藩より起こった先の厄戦において彩光もまた恒正と共に討伐に立っており、その後の援助についても恒正と懇意である為に進捗の度に話を聞いている。

 流石に息子の嫁取りの話はこの場が初耳だが、若と姫の仲はそれこそ城仕えの者達の口の端に幾らでも上る話題だ。今更驚くには値しない。

「ですが、この機による輿入れに、どうも行恒様は得心が行かぬようなのです」

「なるほど」

 男としては分からないでもない。相手の実家が窮地に陥っての縁談とあっては、どうしても弱みに付け込んだ感がある。

 そもそも姫が髪上げしてから五年も放置するへたれの言い分か、と内心では貶しつつも、一番弟子と違って当事者の前でそれを口に出さないくらいの分別が彩光にもあった。

 襖の前に控える女中も、彩光の後ろに控える彩緋も、軽く瞼を伏せたまま身動ぎもせず、庭の岩の如くに背景となっている。

 果たして話を進める主体は、姫と親方の二人しかいない。

「わたくしも女として、お家の為に扱われるのは本望です。お相手が、その、ふふっ」

 晶姫は堪えきれずに喉を鳴らしてしまい、それから朱を頬に差して恥じらい、咳払いして自分を窘めた。

「お相手が幼い頃よりお慕いしている殿方であれば、不肖の身ながら己の福徳に、心の一つも浮き立つ想いです」

「幸せそうで何よりだよ」

 単に惚気を聞かされるために呼ばれたのではないと重々承知しているとは言え、彩光は軽口の一つも放ってやらないと聞いてられなかった。

 姫は今一度咳払いをして、緩む頬を窘めた。

「ですので、わたくしの気持ちを行恒様にお伝えするのに、空染をお頼みしたいのです」

「ほう。だが、空染もタダじゃねぇ。いやさ、文を送るよりも遥かに金がかかる。今のこの藩で姫さんがそんな無駄遣いする金があんのか?」

 報酬に関して彩光は触れないでは済まされない。これでも古くから続く一門を継続させる責務をその肩に背負っている。貰うものを貰うのは正当な権利だ。

 加えて、先の厄災で近関藩は土地も荒らされ人も喪っている。復興に当たって資財は普段以上に余裕がない筈だ。

「はい、勿論、お支払いはわたくしの方で用意させていただいております。小判ではなく物になりますが、私物の反物や簪、扇などを」

 女中が姫の後ろに回り戸棚から桐箱を取り出して中身を彩光に見せる。日の浅く差し込むばかりの室内にあって、その中の真白な布は絹光きぬびかりをしっかりと見せていた。

 言うまでもなく報酬の一部、用意があるとの証拠を出された訳だ。これで彩光には支払いが足りないと仕事を退ける事は出来なくなった。

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