第5話 新天地の目覚め
生まれ育った家にシェラはいた。
オーク材の長机に母と二人で座っている。
刺繍をする母に糸を差し出すと、母はぶっきらぼうに頭を撫でててくれる。
長年料理に携わる彼女の手は荒れていて、少し痛い。
けれどその痛さより、指先から伝わってくる温もりのほうが遥かに気持ちよくて。
こつん、とおでこを弾かれたら「もうお行き」の合図だ。
シェラは暖炉のそばで本を読む父の膝に乗り、なでなでを要求。
父は仕方なさそうにしながら、シェラの頭に触れてくる。
(あぁ……これは夢か)
在りし日の夢。
まだ父と母が名前を呼んでくれていた頃の夢。
──別に虐待されているわけではなかった。
ご飯はちゃんと食べさせてくれたし、ベッドの毛布はふかふか。
教えることはちゃんと教え、初等学校にだって通わせてくれた。
二人は言葉足らずだけれど、ちゃんと愛してくれていたと思う。
だからこそ辛かった。
姉と比べられて期待に応えられない自分が。
役立たずでなんにもできない自分が大嫌いだった。
いつかもう一度、両親に名前を呼んでほしくて。
ただ、それだけで自分は──
「シェラ」
窓の外から声が聞こえた。
シェラは父の膝から立ち上がり、玄関を出る。
白いもやが立ち込める、川のほとりにシェラはいた。
「お姉ちゃん」
姉のアリシアは川の向こう岸に立っている。
優しく微笑む姉の姿に、シェラは感情が決壊して走った。
「お姉ちゃん!」
川の水は冷たい。どんどん深くなっていって溺れそう。
構うものか。シェラは川を進み、姉に向かって手を伸ばした。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
シェラが迷子になった時、姉はいつだって駆けつけてくれた。
おんぶを要求すると、「シェラは甘えただなぁ」と嬉しそうに笑った。
その優しい微笑みが大好きだった。
「あのね、あのね、私──!」
「だーめ」
姉が、寂しそうに笑った。
「ダメだよ、シェラ」
「おねえちゃ」
濁流が押し寄せた。
空気も風も花びらも鳥の囁きもすべて押し流す。
シェラの身体は溺れ、姉の姿はどんどん遠ざかる。
「おねえちゃああああああああああん!」
流されていく。どこまでも、どこまでも。
どこに続いているとも知らない川を流されていく。
(ねぇお願い。私も、一緒に)
シェラは必死に手を伸ばした。
伸ばして、伸ばして、伸ばして、そして──
「お姉ちゃんっ!!」
シェラは跳ね起きた。
はぁ、はぁ、と荒立つ息を整え、肩の力が抜けていく。
「夢……?」
呟くと、額から頬にかけて汗が滴り落ちた。
どうやらどこかのベッドに寝かされているようだ。
寝汗にまみれた服がびっしょりと濡れていて気持ち悪い。
「起きたか」
声の方に目を向けると、こちらに背を向ける男が居た。
水桶に手を突っ込んでいた男がこちらに振り向く。
銀色の髪がはかなげに揺れる。
「あなたは……」
シェラは目覚める前の記憶を思い出す。
姉を殺した男だ。すぐに分かった。
シェラはぐっと拳を握った。
「……私を助けたんですか」
そう思ったのは、殺すつもりなら既に殺しているだろうからだ。
あるいは兵士に引き渡すなりすればすぐに処分されるはず。
問いかけるシェラに、男は冷たく言った。
「助けたつもりはないが」
「じゃあどうするつもりです」
男は肩を竦めた。
「ちょうど料理官が一人辞めたのでな。代わりを探していたところだ」
「……だからあそこに?」
料理官を探していたから火の宮まで赴いた。
確かに理屈は分かるが、シェラが抜け出したのは真夜中だ。
人員の補充なら昼間に事務官を通せばいいはずだし、将軍自ら火の宮を訪れる意味が分からない。しかも時間は真夜中だ。シェラは疑念を隠さず見つめるが、男は答えるつもりがないようだった。
「君には今日から俺の屋敷で働いてもらう」
「は?」
「食事は一日三回。部屋はここをやる。朝から昼は月の宮で下働き、夜はこの家で俺の夕食を担当してもらう。詳しい仕事内容については月の厨房で聞け。必要ならものがあれば言えば買ってやる。以上だ」
「いや、ちょ」
まくしたてるように告げられた内容に理解が追いつかなかった。
あの地獄から解放された。
また仕事。
イシュタリア貴族の家。
いや待って。
今、俺の家って言った? 一緒に住むってこと?
──お姉ちゃんを殺した人と、一つ屋根の下で?
シェラの目から光が消えた。
「……」
男は今、背を向けている。
腰に佩いている刀であればシェラでも扱えるだろう。
そっと近づいて、刀を抜き、背中を刺せば……。
男はシェラに振り向き、
「そう言えば、名を聞いてなかった」
「……シェラザード」
「そうか」
男はにやりと口の端を上げる。
「俺の名はリヒム・クルアーン。せいぜい
仕事は明日からだ。リヒムはそう言って去っていた。
シェラは奥歯を噛み締め、拳をぐっと握った。
(なによ、なによなによ、あいつ!)
殺せるように、と言った。
シェラが何を考えているのか全部分かっているのだ。
分かったうえで自分を傍に置く、その精神性が信じられない。
(あんたなんか、大っ嫌い!)
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