第3話 逃走
イシュタリア帝国の厨房は五つの建物が星形に連なって出来ている。
火の宮、水の宮、風の宮、空の宮、月の宮だ。
シェラの働く火の宮は星形の底辺に位置する。
広すぎる大部屋の中には下処理を行うための台が三百個。
右に加熱担当となる巨大な大鍋が五つあり、小さなコンロが百個続いている。
南には洗い場があり、絶えず洗い物を片付ける音が響いていた。
シェラが目を付けたのは厨房の南端。
残飯を運ぶための通称『流星の道』であった。
なんでもこの道は各農地や羊の牧場に繋がっており、厨房で出た食材の滓やゴミなどはすべてこの道を通して肥料に加工され、農地に配られるのだという。
(出口の候補を見つけるのは一日で出来た。問題は……)
真夜中である。
イシュタリアの料理官たちが悉く帰宅し、シェラは一人、厨房で後片付けをしている。
「……」
視線の先には『流星の道』。その前に立つ見張りの兵士が居た。
各地から連れてこられた奴隷やそれ以下の存在を見張る処刑人。
(あれに追いつかれたら殺される……)
実際、殺されている奴隷を見たのだ。
脱走者が出ないように見せしめとして生首を見せられた時は吐いてしまった。
奴らを出し抜くために、シェラは一年の時間を掛けた。
(まず、六の鐘が鳴るころに兵士の一人が寝る)
ここ半年ほど脱走者が出ないため気が緩んでいるんだろう。
壁にもたれかけながら寝息を立て始めた相棒を、モルゾフというもう一人が呆れたように見る。続いて彼は誰も見ていないことを確認してから夜食を食べようと厨房をうろつき始める。それでも視線は『流星の道』から外れていないのだから面倒くさい。
だからシェラは一手打つことにした。
「モルゾフ様……こちら、余ってしまったのですが……」
「ぁ?」
しおらしい奴隷の態度を装いつつ、コンロで調理したケバブを差し出す。
この時のためにこっそりと良い肉を拝借していたのだ。
「いつもお疲れさまです」
「ハッ、なんだ。分かってるじゃねぇか。へへ」
肉汁したたるケバブを見てモルゾフは喰いついた。
内心でにやりと笑いながらシェラは彼の胸板にすり寄る。
「あの……よろしければ」
さりげなく上衣をはだけさせて、決して中身は見せない。
見えないところに興奮する性癖なのだとモルゾフが語ったことを知っている。
「──ごくり」
生唾を呑む音が聞こえる。
肩を抱かれたシェラは人目がつかないところまで連れていかれた。
あとはもう簡単だった。
「なんだ、期待してたほど胸が──!?」
くぐもった悲鳴。
口元を押さえ、股間を蹴り潰して首を強打したシェラは上衣を整える。
「小さいって言うな」
見張りが機能していない『流星の道』を堂々とくぐった。
(……まだドキドキしてる)
石造りの冷たい通路を歩きながら、シェラは胸を押さえた。
兵士二人の癖を探り、計画を練りに練ること半年。
こうまで上手くいくとは思わなかったが、ここからが問題だ。
(私、ここから出たことないのよね)
奴隷として連れてこられた者達は大部屋が与えられ、そこで雑魚寝している。
小姓にもなると個室を与えられ、優雅な生活なのだとか。
アナトリア人であるシェラはどちらでもなく、厨房の生臭い床に寝かされていた。一年間、一度の外出もなく、食べ物をくすねて生き繋ぐ日々。
宮殿の外なんて見たことがない。
イシュタリア人に連れてこられた時も目隠しをされていたからだ。
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ……。
心臓の音がやけに大きい。
足音が反響してうるさい。大して暑くもないのに汗が止まらない。
もうすぐだ。この無駄に臭い通路を抜ければ、もうすぐ、自由に……。
「……」
石造りの通路の向こう側は、雑木林に繋がっていた。
ここがどこなのかも定かではないが、一年ぶりに吸う外の空気は最高に美味しい。思わず深呼吸したシェラは周りを見渡しながら人目がないことを確認する。
(静かだな……)
鳥のさえずりや鈴虫の声しか聞こえない、良い夜だった。
けれどその分、足音がよく響くから注意しないと。
その時だった。シェラの視界の端に何かが映った。
「!?」
咄嗟に木陰に隠れ、そぉっと覗き込む。
そこでは、宦官の服を来た二人の影が重なって見えた。
(あ、逢引きの現場だ……!)
さすがに一年間も厨房に居れば色んな話が聞こえてくる。
どうやらイシュタリア帝国では小姓や宦官が愛を育むことは珍しいことではないらしい。帝国の法律上、同性同士の恋愛は禁止されているが、死んでも貫きたい愛もあるそうだ。
(見つからないように、ここを離れて……)
パキ、と音が鳴った。
「誰だ!?」
「!?」
逃げようと身を翻したシェラは上から取り押さえられた。
地面に押し付けられ、頭を押さえられたシェラは動けない。
「誰だこいつ」
「宮廷の料理官だ。見たところ奴隷以下の『ゴミ』だな」
「どうする、見られた」
「やるか」
「どの道、脱走者は処分対象だ。ちょうど『処理場』も近くにある」
「よし」
「ん˝ー! ん˝ー!」
激しく首を横に振って助けを求めるが、宦官二人は聞く耳を持たない。
イシュタリア帝国にとってアナトリア人はその程度の存在なのだ。
「悪いな。痛いのは一瞬だから」
(やだ、死にたくない、やだ、やだ、やだ……助けて、助けて、お姉ちゃん!)
宦官が刃を振り上げたその瞬間だった。
「──何をしている?」
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