宮廷料理官は溺れるほど愛される~落ちこぼれ料理令嬢は敵国に売られて大嫌いな公爵に引き取られました~

山夜みい

第1話 奴隷以下のなにか

 ぱしゃん、とシェラは冷たい水を浴びた。


「この愚図っ! まだ下ごしらえも終わってねぇのか!」

「……っ」


 茶髪で髭を生やした先輩料理官は冷たく言い捨てる。


「これだからアナトリア人は……人参の皮剥き程度で1時間もかけやがって」

「……お言葉ですが、千個以上の皮剥きを一人でなんて」

「うるせぇっ!! 口答えすんな!」

「げほッ……!」


 思いっきり腹を殴られ、シェラは厨房の床に倒れ伏す。

 生ごみが散乱し、腐った魚の匂いがたちこめる床には黒い虫が這っていた。


「ほんと使えねーよな、こいつ」

「トロ過ぎるっつーかさー」

「おーい、クゥエル、お前担当だろーちゃんとしろよなー」

「分かってるよ、うるせぇな!」


 ぜぇはぁと荒く息をついたクゥエルはシェラの頭に足を置いた。


「おいゴミ、それが終わったら次は恐魚の解体、ボルドス鹿の仕込みとダダール豚の解体、それからベーコン百本仕込んどけよ」

「……」

「分かったら返事しねぇか! あぁ!?」

「……はい」


 シェラは立ち上がり、俯きながら頷いた。

 昨日終わらせた量よりはましだ。まだ少ない。だから大丈夫……。


「俺は仕事があるからな。ちゃんとやっとけよ。いいな?」

「……」

(同僚とギャンブルして遊ぶことが仕事?)


 シェラがこの職場に来てから一年経つが、この男がまともに仕事をしていることを見たことがない。シェラの担当であるクゥエルはシェラがある程度の下処理をこなせると見るや否や、自分の仕事をすべて押し付け、さらに仲間たちの仕事を代わりにやることで金銭を受け取っている。その仕事をやるのはもちろんシェラだ。たった一人ですべてをこなしていた。

 奴隷以下の存在であるシェラには何をさせてもいいと思っているのだろう。


「おいシェラ。これもやっとけよ」

「あ、俺も頼むわ。クゥエルには話を通してあるからよ」

「無理だったら鼻でパスタ食べてもらうからな。ぎゃっはははははは!」


 高笑いをあげる料理官たちがカードで盛り上がるなか、シェラは一人包丁を握る。

 いつもこうだ。他の料理官から仕事を押し付けられる。

 仕事量は故郷のアナトリアに居た時に比ではなかった。


(……もうやだ、こんなとこ……)


 食事は一日に二回、寝る場所は生臭い厨房の床・・・・

 朝起きて、倒れるまで働き、泥のように眠る日々。

 何のために生きているのか、シェラにはもう分からなかった。


(お姉ちゃん……)


 こういう時、姉ならどうしたのだろう。

 きっとさらりと全部やってのけて、こんな所抜け出しているに違いない。

 だって姉は一度やればなんでもできる天才だった。

 どんなに無理難題だって答えて見せて国からも期待を寄せられる姫巫女だった。


(私は、もう無理)


 一年間、じっと耐え忍んできた。

 大嫌いなイシュタリア人に虐げられながら、泥水をすするように生きてきた。

 蹴られ殴られ罵声を浴びせられるなんて日常茶飯事。仕事を押し付けられるのも当たり前。


 何度も死を考えた。

 包丁を握るたびに自殺を考えて──出来なかった。


(怖い、死ぬのが、怖い……)


 すべてを失った今でも自分は命にしがみついている。

 大嫌いな両親も最愛の姉も故郷も失って、残ったのはこの命一つ。

 だけどその命も、このままここに居れば尽きてしまうだろう。


 ここはあまりにも──地獄だ。


(逃げよう)


 シェラはそう決意した。

 一年前からずっと準備をしてきたのだ。

 故郷が滅びて帝国に売られた、あの日から。


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