第14話 ウーラ・マレフ殺人事件の記録
「さて、ミスターカラット。お願いしますよ」
「……まずは、事件の概要からお話いただかなくては」
「ええ、ええ。そうですね」
サンドローによって別の部屋に連れてこられたカラットは、ライラが座ったのと同じようなパイプ椅子に腰掛けて足と手の指を組んでサンドローと相対した。ユーリエはカラットの隣に少し距離を開けて腰掛けた。それはカラットとピッタリ隣が嫌とかではなく、できるだけサンドローの正面から外れたかったからだった。
サンドローが語った事件の概要はこうだ。
事件が発覚したのは昨日夜七時三十七分ごろ。帰宅途中の二十代後半のサラリーマンが第一発見者で、彼は仕事を終え少しだけ居酒屋によって軽く飲み食いをした上での帰路だった。その男性による救急への通報が夜七時三十七分のことだった。
現場は、中に遊具がいくつか設置されている公園も兼ねた林で、昼間は駅への近道として利用する人も多いところだった。遊具のあるあたりには街灯もあるし、木々も開けているので夕方頃までは人通りがそこそこあるのだが、夜日が沈みきると一部の場所を除きほとんど真っ暗になるので通る人はあまりいないようなところだった。
夜七時ごろであれば住宅街に面する道路付近と遊具のあるあたりは明るいが、少し奥に入れば茂った葉によって光が遮られ、深い闇が広がっている。そのため夜の通行者はほとんどいないのだが、たまに林を何度も通ったことあってどこに大きな根っこがあるかも把握できている人なんかはまま通行することも珍しくはないような場所だった。
第一発見者の男性は実家住まいで、子供の時からこの林を通っていたこともあり、ほとんど真っ暗闇となっても地面の特徴を覚えていて問題なく通行できるため、近道として利用していたそうだ。学生の時分にまだ慣れない酒に千鳥足となるほど酔っ払って通ったときも、転んだ記憶はなく、服が土で汚れていなかったこともあり、今でもよく夜中に通行しているらしい。
安全とは言えないので警察としては推奨できないものの、彼が昨日この道を通らなければ第一発見者が駅へ向かう学生や小学校に行く途中に寄り道をする子供になっていた可能性もあるためなんとも言えないところだった。
第一発見者の男性は頬が上気する程度しか飲んでいなかったので足取りはしっかりしていたし、記憶も鮮明だった。
彼が最初被害者を見たとき、それは落ちてきた大きな枝か太い木の根っこか何かだと思ったらしい。しかし通い慣れた道、それが根っこではないことには例え多少酔っていてもすぐ気づいた。では枝が落ちてきたのだろうか、しかし今日は晴天で、風もほぼ無風に近かったのでそれは考えづらい。
彼は落ちているものがなにか気になった。そうして興味津々に首を前伸ばすようにして近寄って初めてそれが人間の足であることにようやく気づいたそうだ。
しかし彼はそれが人であることを認識してもまだ「なんだ、酔っ払いか」と思っただけだったらしい。ただ行き倒れだったらアレかと一応顔くらい覗き込もうと数メートル近づいたところで多少の酒を飲み、ほろ酔い気分だったせいで気づいていなかった臭いが鼻を刺し、異変を察知した。
知っているものの、こんなに強く嗅いだことはないという鉄くさい臭い。その臭い正体に気がついた時、彼の酔いは一気に覚めて慌てて被害者の元に駆け寄り、声をかけながら肩を揺らした。
「おい! おい、あんた! 生きてるか!?」
彼が声をかけた時、まだ被害者はまだ生きていたらしく、彼の掛け声に反応するように指先が動いたそうだ。
「今救急車呼んでやるからな!」
とりあえず目の前で倒れている奴が生きているらしいことがわかって安心した男性はスラックスの尻ポケットからスマートフォンを慌てて取り出し、手が止まった。彼の大きな声に反応したのか被害者が薄く右目だけを開けたのだ。事情聴取で男性は確かに目が合った、と話している。被害者はそばに人がいることを認識すると薄く唇を開いた。
「……け、……」
「なんだ? なんて言ったんだ!?」
「か……」
男性は被害者がなんと言ったのか正確に聞き取れなかったそうだが、おそらく「け」と「か」と言っていたのは分かったらしい。
その後サラリーマンはスマートフォンを取り落としたり、番号が思い出せなくて何度もかけ違いそうになったりしながらも何とか救急に電話を繋げることが出来たが、救急車と救急隊員が到着した頃にはもう彼の息は確認出来なかった。おそらく、ギリギリ生きていたのを最後の力を振り絞って犯人について何か伝えようとし、力尽きたのだろう。
死因は頭部を強く殴られたことによる脳出血で、殴られたのは三回。頭蓋骨は骨折していて、これが出血の原因でもあったようだ。現場近くには凶器と見られる金属バットが落ちていたが、もちろん指紋は残っていなかった。殴られた跡が残っているのはうなじに近いところを首に対して垂直に一発。それから後頭部に二発。
その後、病院で正式に死亡が確認された遺体は検死に回され、彼の遺留品から身元は最近警察も目をつけていた闇金業者の男だと判明した。この業者、ぱっと見は普通の金融機関のようで初めは応対も丁寧らしいのだが、問題なのは金を借りた後だった。最近被害相談が増えており、警察も取り締まりのために動き出そうか重い腰を上げようとしていたところだった。
しかしこの業者、取り立ての仕方がいかにも闇金と言った感じだったが、契約書はしっかりとしたものだったし、金利は返済期限内は法定利だった。ただ返済までの期日が異様に短く、逃げようものなら地の果てまでも追いかけてくるらしい。その上借金の額は返済の期日を過ぎようものなら雨上がりの竹のように急激に増えていく。
そう、ライラに押しつけられた借用書、実はあれだけでは法的拘束力があるものだった。つまり、あの借金自体が法外であるとは主張できず、ライラの父が本当に保証人なのか、それをライラが支払う義務があるのかを焦点にしなくてはいけないものだった。
「押収したスマートフォンを解析した結果、被害者があの林に来ていた理由が金を返してもらう約束で誰かと待ち合わせしていた、ということまでは掴めています。ただスマートフォンからはそれが誰なのかは分かりませんでした。また、詳細な時間、場所について書かれたメールなどもなく、削除されたものを復元しても発見されませんでした」
被害者はスケジュールアプリに集金の予定などを記載していたが、人物は番号で管理されており、詳細が分からなかった。そこで直近の通話履歴と被害者が所属していた闇金業者とのメールの内容から、直近に返済の予定があったらしい三名を警察は容疑者として挙げたのだった。
「つまり、被害者は口頭か電話で約束した誰かと待ち合わせをしていて、恐らくその人が犯人であるがそれが誰かは分からない、と?」
「そうなります。ですから私どもも手を焼いているのですよ」
ヨヨヨ、と右手で目尻を拭うような動作で泣き真似をして嘆いて見せたサンドローだが、カラットの冷たい眼差しにすぐに表情と手の位置を戻して続きを話し始めた。
「また被害者の服におそらく犯人のものと思われる頭髪が残されていました」
「頭髪?」
「ええ、オレンジ色を主とした長い髪の毛です。およそ五十センチはあります。これがその実物と、写真です」
そう言ってサンドローは別々の袋に入れられた頭髪二本と服についているオレンジ色の髪の毛の写真をテーブルに乗せた。カラットはそれを覗き込み、写真を手に取って顔に近づけて見た。
写真は髪の毛の本数分、つまり二枚あって、どちらも黒い布と髪の毛のみが写っている。この服を着ている人物が被害者ということだろう。服が黒いせいで頭髪らしき細い線がよく見える。
一枚目の写真はテーラードの襟が写っていることから髪の毛が付着していたのは肩のあたりであることが分かる。もう一枚の写真は右左どちらか分からないが肘のあたりに弧を描くオレンジ色の線が写っている。
「この頭髪は長く、色としても目立ちやすいものです。被害者はその服装を見る限り、身だしなみ、というか出立ちにはこだわっているようでした。そんな彼でなくともこんなにも目立つ髪の毛が自分の服についていたとしてそのままにするとは考え難い」
「ええ、普通は払いのけるでしょうね」
「よってこれは現場でついてしまったものであると私たちは考えています」
「確かに、明らかに他人の毛髪が服についていれば嫌悪感を感じる人も少なくないでしょうし、そうでなくとも気がつけば取って捨てるでしょう。しかしこれは本当に
カラットは袋を持ち上げ天井の電気に透かすようにして中の毛をまじまじと観察した。
「というと?」
「普通地毛は茶色、金、黒と言ったところです。たまに赤毛もいますが、これはそれとは色が違うように見えます。つまり、オレンジ色の髪の毛というのは人工的に染められた色である可能性が非常に高く、そういった色は目立ちます。これから人を殺すというのに目立つ髪色のまま犯行を行う理由がありません。これは犯人が自分の容姿を誤魔化すために使用したウィッグか何かから抜け落ちた人口の髪の毛ではないですか?」
「それは私どもも考えました。それで鑑識に回しましたが間違いなく人間のものであることが確認されました。さらにおかしなことに、この髪の毛、虫眼鏡や顕微鏡で見るとよく分かりますがまだらなんです」
「まだら? 模様があるってことですか?」
「そうですね、模様というか、一色じゃないんです」
「それは……染めているから地毛の色と染料の色が混じっているだけなのでは?」
「いいえ、それであれば普通生際と毛先の間で二色に別れるはずですが、これはまだらなんです。オレンジ色がメインですが、所々不規則な間隔で茶色や金、黒っぽいところがあるんです」
「それは……」
確かにおかしい。髪の毛がオレンジ色であるというのはまあ、そういうこともあるだろう。その髪の毛の片一方側が違う色になっているというのであれば、地毛の色が出てきてしまったのかと考えられる。しかし一本の髪の毛のところどころにメインとは違う色が二色も三色も混ざっているのは明らかに不自然だ。もちろん髪の毛をどう染めようがその人の勝手だが、そんな人物がいたら記憶に残りやすくなる。明らかに殺人犯向きの髪ではないのだ。
「近づけて見てみてください」とサンドローに促され、カラットは髪の毛の入った袋を持ち上げて目に近づけてやっと何色かの色が差し色のように入っているのが分かった。しかし、これは間近に近づけなければなかなか見えない。
カラットは眉間を揉んで考えたが、答えは見つからない。そもそも昨日起こった事件とはいえサンドローもこの不自然さには気づいているのだからすぐに答えを見つけられるとも思っていないが……。
「私はライラ・リゲルにあった時、髪の毛をまず見ました。それから背丈を見て彼女が犯人である線が薄いと思ったのです。被害者の意識があったことからも事件が発生したのは昨夜の夜七時ごろ、そして彼女がアルデバラン鑑定所にきたのは?」
「確か……十一時前です」
「この頭髪が彼女のもの、つまり彼女が犯人であるとすれば昨夜七時から翌日午前十一時の間に髪の毛を切り、染め直したことになります。染めるだけならまだしも、髪の毛を綺麗に切るのは一人では難しい。ガタガタになってしまってもおかしくありません。しかし美容院や理容店では時間が合わない。それに被害者は首に近い後頭部を首に対してほぼ垂直に殴られています。被害者が倒れた後であればまだしも、その跡が一発目のものだとしたら相応の背丈が必要になります」
ライラの髪の毛は栗色で、長さは肩口より少し長いといったところだ。人毛を使ったウィッグという可能性がないわけではないが、それはそもそもすぐに用意できるようなものではないだろう。珍しいものというのはそれだけ足がつきやすい。そこまでして人毛のウィッグを用意するほどの利点があるだろうか。
さらに被害者の身長はおよそ百八十センチで、ライラの身長はおそらく百五十五センチから百六十センチといったところだ。その背丈では立ったままの被害者のうなじの上あたりを平行に殴るには高めのヒールか踏み台でもなければ難しい。
サンドローはそこで俯いて机の上に戻された頭髪をぼんやりと眺めた。
「ただ、現在名前が上がっている他の容疑者にはアリバイがあるのです」
つまり現在挙がっている容疑者の中でアリバイがないのはライラだけ、となる。
「しかし、この被害者は闇金の借金取りをしていたのであれば恨まれる心あたりはいくらでもあるのでは?」
「そうですね、なので今被害者が取り立てに行った人間を一人ずつ探しているところです」
事件というのは発生後も変わり続ける。現場をいくら保存しようと人が動けば元の空間のままではないし、人の感情や記憶はどんどん風化し続けてしまうのだ。そのため、直近に返済の予定があった人物から調べているというわけだった。
「まあ、そもそもその頭髪が捜査かく乱のために加害者によって用意されたものではないとも言い切れないのですが」
これだけ目立つ髪だ。加害者が自分とは全く関係のない人物の毛髪を人混みにでも紛れて手に入れ、染めたりした可能性がないこともない。しかし、もし犯人がライラであるとすれば、その犯行は衝動的かつ突発的になるはずだ、そんなものを用意することを思いつくだろうか。その上髪の毛のまだらは注視しなくてはほぼ分からないのだ。犯人にはそんなことをする必要があったのだろうか。
「現場の状況と不自然な毛髪についてはこれくらいですね。何か聞きたいことは?」
「そうですね……、先程被害者は第一発見者に声をかけられて目が合ったと言っていましたが、普通殴られたらうつ伏せに倒れているのでは? その状態で目が合うには相当首を捻らなくてはいけないと思いますが」
「ああ、それは第一発見者が被害者を動かして横向きにしたからです。どうやら彼は最近運転免許取得のために教習所に通っているらしいのですが、その時の講習で回復体位を覚えたそうで、それを実行に移したのでしょうね」
「そうでしたか……」
回復体位とは嘔吐や喀血、吐血などによる窒息を防ぐためのもので意識がなく呼吸が確認できる傷病者などに有効だが、今回の場合は嘔吐の危険はあったものの、頭を殴られていることから頭から首にかけての骨が折れている可能性などもあったため結果的には動かさない方がよかったことになる。
「他には?」
「いえ、とりあえずは」
カラットは顎に指先を添えて考え込むようにしながら答えた。
「また何か思いついたらおっしゃってください。それでは次に、現在上がっているライラ・リゲル以外の容疑者についてお話ししましょう」
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