第33話

 風が強い。走る電車の車内から見てわかるほど木々や電線がざわめき揺れている。朝方空にかかっていた雲はスピードをあげ流れていった。


「風花のスマホじゃない?」


 大きな百合の花束を抱えて座るお母さんがこっそり耳打ちした。日曜日の昼、電車はバイブレーションも響き渡るほど人がいない。黒のハンドバッグの中を覗くと着信を知らせるライトが点滅している。画面にタップしメールの内容を確認する。


「渡邊さんから。今喫茶店でお昼済ませて皆で霊園に行くって」

「あらもうこっちにいらっしゃるの。早いわね」

「見て、ナポリタンの写真が添付されてる」


 喫茶アンティコのおすすめのナポリタンの皿を持って歯をみせて笑っている。『風花ちゃんも美味しいよお墨付きのナポリタンいただきました~』と書かれてる。硬派だと思っていたけど意外な一面を見た。


「本当に美味しそうね」

「今度食べたら良いよ。絶対気に入るから」

「そうしようかしら。前にいただいたコーヒーも美味しかったし、また飲みたいわ」


 駅を出るとお母さんは霊園行のバス乗り場へ迷うことなく向かう。標柱に書かれている時刻表を確認して待つ。もう五分もしないうちにやってきた。バスから数人のお客さんが下りてくる。入れ替わりにがらんとしたバスに乗り込み後ろの方の二人席に座った。たった二人のお客さんのために、運転手のくぐもった発車のアナウンスと共に走り出す。


「もしかしてよく来てるの?」

「ええ。月命日にはね」

「そんなに?」

「当然よ。大事な娘の命を救ってくれた恩人だもの」

「それは、その…償いのような気持ち?」

「そう、ね。色んな要因があってあの事故は起きた。やっぱり風花から目を離していた私にも責任はあるもの。でもこれからは違うかもしれないわね」

「どういうこと?」

「これまで露子ちゃんのことや事故のことは、お父さん以外には誰にも話せなかった。お父さんは気にするな、おまえが悪いんじゃないって言ってくれたけど、やっぱり自分が許せず責めていた。だから霊園に行って露子ちゃんに謝り続けてた。でもあの日、風花が露子ちゃんはここにいるって言って、彼女の言葉を伝えてくれたでしょう?それを聞いたときお母さん、少し許された気持ちになったのよ。まだ露子ちゃんの幽霊がすぐ傍にいるなんて信じられないけどね。でも感謝してるって露子ちゃんの言葉を風花が言ってくれたことが救いになったのよ」


 お母さんはまっすぐ前を向いていた。まだ悲しげではあるが、憑き物が落ちたようにすっきりした顔をしている。記憶がなかった私たち以上に向き合い続けた十年間は辛いものだったに違いない。


 十五分程走り続ける間、誰一人お客さんは乗ってこず、貸切状態で霊園に到着した。入口には喪服に身を包んだ男たちが待っている。ネクタイは誰もが着なれないと堅苦しそうにしていた。ゲンがこちらに気付いて手を振っている。


「お待たせしました」

「今着いたところですよ。渡邊さん、こちらが風花ちゃんのお母さまです」

「雨宮さんの同級生だった渡邊です。無理を言ってご同行させてもらいすみません」

「いいえ。娘から聴いております。先日も大変お世話になったそうで」

「とんでもない。俺も久しぶりにお会いできて嬉しかったです」

「それから古館さん、先日は大変失礼をし…本当に申し訳ございません」

「いいえ、こちらこそ隠し立てするような真似をしたばかりか娘さんを巻き込んで申し訳ございません」


 競うように二人で頭を下げるものだから私は思わず笑ってしまう。


「もう、なあに笑うなんて」

「ごめんなさい。でもなんだかこの間同じようなところ見たから」

「ああ、細井とゲンさんが謝り倒してたのも、こんな感じだったね」


 霊園には似つかわしくない朗らかな笑い声に釣られて大人たちも釣られるようにして笑う。


「ここで立ち尽くすのもなんですから」


 お母さんを先頭に後ろをぞろぞろとカルガモの親子の様についていく。同じ形が連なった道幅の広い石畳をゆっくりと歩いていく。石畳の道の両脇は芝生が続いている。道の真ん中は等間隔で幹の細い背の高い樹が植えてある。

 石畳は枝のように道が分かれ、それぞれの立て看板に『桜園』『ハナミズキ園』など樹木の名前が書いてある。お母さんによると、木を選んでその下に埋めてもらえるそうだ。ここの桜の木は大きく咲く姿も見事だと言う。その時期にまた来たいと渡邊君が言った。


 一番奥まで行くと立て看板に『菩提樹』と書かれた霊園に辿り着いた。黒っぽい石が低い塀の様にして円になり菩提樹を取り囲んでいる。五か所にお線香をたてる箇所や花瓶が添えられている。お花が少ない所へ行き、お母さんは持って来た花を飾った。


「ここが雨宮さんの…」


 青々と生い茂った菩提樹の葉は、来客を喜ぶかのようにさわさわと音を立てて揺れる。


「露子ちゃんの家の宗派がわからないので、それぞれ思うように拝んでください」


 木の下にある「永久に」と書かれたひとつの墓石に向かってお母さんが初めに数珠を持って手を合わせると、それぞれが続いて手を合わせ拝む。私も同じように目を閉じた。暫く黙祷が続く。肌を撫でる風が心地いい。


 誰もが示し合わせたわけでもないように同じようなタイミングで目を開ける。

 渡邊君は菩提樹を見上げ木洩れ日を浴びていた。光を浴びた空気を体の中に溶け込ませるように深呼吸を一つして口を切った。


「漸く此処に来られました。ずっと気がかりだったんです。クラスでは葬式には参列させてもらいましたが、担任に訊いてもお墓の場所だけはどうしてもわからなくて…勿論親御さんにも訊ねることはあの時の俺には出来なかったし。親もまだ中学生だった俺が深く傷つくのを恐れて忘れるように何度も促していました。無論忘れることなんて出来なかったし、気持ちだけが宙ぶらりんになってしまいました。年月ばかりがすぎて…やっとあの時の気持ちを整理できる気がします」


 空を仰いだ。


「風花ちゃん、傘を見せてくれるかい」


 私は塀に立てていた傘を手渡した。広げた傘に木洩れ日が当たりゆらゆらと影が動いた。


「親骨がいっちゃってるのか…やはり修理は…」

「そのことなんですが、お断りしようと思って」

「いいのか?」

「私がそう、風花にお願いしたの」


 渡邊君は目を大きく見開いていた。


「もしかして…雨宮さん?」


 私はこくりと頷き、ずっと背が伸びた渡邊君を見上げた。あの頃も大きくて少し怖いくらいだった。義理の父の影響もあって身体の大きな男性が苦手だった。あまりにも怖がっているからきっと沢山困らせてしまったんでしょうね。


「風花のお母さん、ごめんなさい、風花にお願いして身体を借りていたの。体や精神には影響がないから安心してください」


 皆驚いていた。ゲンだけは除いて。彼は果然として腕を組み呆れ笑っていた。


「風花はどうしても直したいって言ってたけど、人間に寿命があるように物にも寿命があるでしょう?この傘は事故に巻き込まれたときに痛んでしまったのね。渡邊君もそれはきっと解っていたんでしょう。あの時も骨が弱ってるって言ってたし」

「ああ。強い衝撃を与えた結果だと思う。他にも要因はあるかもしれないけどそれが一番大きいだろうな。でも十年もよく持ったものだよ」

「そう、私も風花も驚いていた。私が長いこと傘に取り憑いていたことでなんとか持っていたのかもしれないねって風花が言ってたわ」

「じゃあ折れたってことは、まさか露子さん…そんなのって」

坊やは泣きそうな顔でこちらを見ている。

「決めたのか、露子」

「ええ。風花と交わした約束は全て果たして貰った。だからこれでいいのよ。長く居すぎたくらいだもの。風花も解ってくれているわ。本当は知っていたの。傘の骨が折れた時、少しずつこの世と離れていく感覚が確かにしたの。きっと事故で痛んだ箇所が全て折れた時には成仏するんだろうなって。記憶を取り戻したしもう心残りもないもの。短い人生だったし、振り返れば良かっただなんて言えるようなものではなかった。でも郁子さんや風花と出会って、渡邊君があの公園でいつも来てくれた時間は今でも一番大切で大好きな時間だった。生きていてよかったって思えたの」


 開いた傘が、またぽきんと音を立てる。渡邊君は動揺しているようだった。もう止められないことを悟っているようにも見える。


「もう一度傘を持たせて」


 開いたまま渡された傘を受け取る。渡邊君のごつごつとした指が触れ合った。近くでみると指も手も傷だらけで荒れている。あれから多くの傘を手掛けたのでしょうね。風花の体を通して感じる温かな指が心地よい。渡邊君は傘を持つ私の手をぎゅっと握り締めて、名残惜しそうにゆっくり離す。

 私は傘を肩に乗せくるりと回してみせた。


「うん…似合ってるよ」

「ありがとう」


 風花の体から抜けると私の体は人の形をなんとか保っているが、光が強すぎて揺らいでいる。本当にもうすぐお別れなのね


「露子さん!」


 幽体に重さなんてないのだろうけど、まるで軽くなったように感じる。地面から少しずつ遠ざかっていた。風花は左手で和傘をしっかりつかみ、必死に右手を伸ばしている。手の形はすでにしていない私の光で風花の手を包む。


「使役はこれでおわり。あなたは私との約束を叶えてくれたんだもの。だから胸を張りなさい」

「露子さん…」


 風花は背筋を伸ばした。


「露子さん、ありがとう。遊んでくれて、私の事一番に思い出してくれて、一緒に、過ごしてくれて…本当にありがとう!」


 涙声で精いっぱい声を張り上げた。沢山笑った。


「どういたしまして」


 露子さんは十四歳のあどけない笑顔を向けていた。優しい目を最後に光は空気に溶けていった。

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