第31話

 外は薄暗くなっていた。まだ人通りも多い時間で、門限にも十分間に合うが、ゲンさんは車で送ると言ってくれた。恐らくすっかり腫れぼったくなってしまった顔を気にしてくれたのだろう。

 車に乗る前にケーキなどの付属品についてくる小さな氷をタオルに包んでくれた。それを瞼に当てるとひんやりして心地が良い。何度か露子さんに腫れがひいたか確認してもらう。まだ赤いとけらけら笑っていた。


「ええ?もう戻ってるでしょう?」

「まだ赤いね」


 バックミラー越しに目が合う。薄暗いのに見えるんですかと茶化したら、目は良い方だよと露子さんと同じ様に笑った。二人は変なところで気があうものだ。もう!と怒りながらも釣られて笑う。さっきまでの号泣が嘘のように気持ちはすっきりしていた。

 対向車線のライトが何台もすれ違う。「すぐ着くよ」とゲンさんは言う。私は「はい」とだけ相槌を打つ。


「送っていただいてありがとうございました」

「風花ちゃん」

「はい」

「何度も言うけど無理して思い出すことはないからね。何よりも自分の心を大事にして」

「はい」


 テールランプが見えなくなるまで見送った。


「ただいま」

「おかえりなさい。遅かったわね」


 お母さんはぎょっとする。どうやら目はまだ赤いらしい。


「どうしたの。なにがあったの?」

「佐藤さん、団地に住んでた頃の知り合いだって言う人に会ってね、事故のこと聞いちゃった。吃驚して泣いちゃって」


 動揺して言葉を失っていた。隠してきたことが徐々に日の目を見ることを恐れているのかもしれない。


「お腹空いちゃった」


 笑みをみせるとお母さんの下眉がより下がった。



 晩御飯もすっかり平らげて、ご飯はおかわりをするくらい空腹だった。

これまでは悔しいときや憤ったとき、自力ではどうしようもなくやるせない気持ちになったとき、いつも感情を押し殺して、言いたいことも言えずただ泣くことしかできなかった。蓄積する感情は腐る速さが早く、気持ち悪さから食べ物も喉を通らなくなる。それを知っているお母さんは私の食欲を見て漸く安心したようだ。


「よく食べるわね」

「沢山泣いてすっきりした」

「そう」


 珍しく急須で緑茶を淹れている。もう長話になることを想定しているようだ。


「お母さんは嫌がるかもしれないし、泣いたついでというのもなんだけど、話、聴かせてほしい」


 お母さんは熱い緑茶に音を立てて口をつける。今まで隠し通した秘密を語る時を迎えたと言わんばかりに大きなため息をついた。


「どこまで知ったの?」

「露子さんが事故にあった時のこと。私を助けてくれたんだって」

「他に思い出したことはある?」

「ないよ」

「何が聞きたいの?」

「お母さんが知ってること、できるだけ全部」


 おでこを指でさすって苦渋の表情をみせた。まだ話すことを躊躇っている。


「お母さん、信じてもらえないかもしれないけど、この話ね、露子さん本人から聞いたのよ」


 さすっていた指を止めて顔をあげた。


「どういうこと?」

「和傘を貰って来たでしょう?露子さんは亡くなったあと、その和傘にとりついた幽霊になったんだって。地縛霊のようなものみたい。その彼女から事故の様子を聞いたの。露子さん言ってた。私のせいだって言ったら事故はあらゆる要因が重なった結果だって。露子さんは私のせいじゃないって」


 暫く目を白黒させていたが、次第に落ち着きを取り戻す。というより無理矢理切り替えた。


「ごめんなさい。ちょっとまって?想像の範疇を超えてて…露子ちゃんが幽霊になってここにいるっていうの?」

「そうだよ…信じられないかもしれないけど、露子さんは今ここにいる。お母さんの目の前にいるんだよ」


 姿を見せたい。ここにいるのにそれを証明する手立てがなくてもどかしくてたまらなかった。


「妖精の花園…ってなに?」


 露子さんにそう言ってみてと言われ声に出した。私は全く意味がわからなかったがお母さんは両眉をあげ目を大きく見開いていた。


「そのメモ帳をもらったって言ってるけど…」

「私があげたのよ。当時流行っていたキャラクターのメモ帳をね」


 お母さんは突如立ち上がって電話機の引き出し、四段目を開ける。小さなお菓子の缶を取り出して持って来た。蓋を開けると二つ折の紙が積み重なっていた。


「これは?」

「露子ちゃんが私にあてて書いてくれた手紙」

「え、やり取りしてたの?もしかして凄い親しいとか?」


 こくりとゆっくり頷いた。手紙を手に取り開くと、露子さんが言っていた妖精の花園というキャラクターらしき可愛らしいイラストが描かれていた。メモのスペースには丁寧なボールペン字が書かれている。


『風花ちゃんはお気に入りのブランコで楽しく遊んでいました。五時におうちに帰り鍵をかけたのを確認しています。今日もおやつをご用意くださってありがとうございました』


「その日あったことを書いて郵便ポストに入れてくれたの。最初は自分のノートを千切って書いてくれて、本当に嬉しくてね。彼女に当時流行ってたキャラクターのメモ帳を渡したら凄く喜んでくれて、それを使ってまた書いてくれて。大体はあなたと何して遊んだとか、本当の保育士さんのようで心強かった。私も時々返事をしてたけど、筆不精で彼女程多くなかったわ」


 仕事が終わって家に帰ると、家の事を片付けて気付いたら寝て、また慌ただしい朝を迎えて…と子育ての辛さから返事を書く余裕がなかったと話す。もっと露子ちゃんと話しをすれば良かったと今でも後悔していると嘆いた。

でも誰が責められようか。少なくともそれで生活していた私には出来ない。露子さんは「そんなこと気にしなくていいのに」と呟いた。


「あの頃はお父さんがリストラにあって私も働きに出ないといけないくらい苦しい生活だった。仕事に出るときもあなたはよくごねて泣いていたの。子供のころのあなたは今よりもずっと感情を表に出す子供だったのよ。朝は近所の人に預けて昼に迎えに行って、午後はお留守番をしてくれたけど、出かけるときはいつも大泣きしていたわ。いつからか、喜んで送り出してくれるようになったのは、中学生だった女の子が団地の公園で遊んでくれるようになったころからよ」

「それが露子さん?」

「そう。有休を貰ってあなたを遊ばせようと団地下にある公園で初めて彼女に会ったの。彼女は先にブランコで一人座っていたの。制服を着ているとはいえ正直近寄りがたい身なりでね、一度帰ろうと思って離れようとしたわ。そしたらあなたが彼女に駆け寄って一緒に遊ぼうって誘ったのよ。最初はおどおどしてたけど、四歳児の子供って本当にパワフルで、その勢いに押されたのね。あなたに言われるがまま遊んでくれたわ。その後彼女は家に帰るまで時間をつぶすために公園にいるって話してくれたの。詳しくは言わなかったけど家庭に問題があるってわかった。児童相談所に連絡しようかと言ったけど異常な程に嫌がってね。以前にも学校から連絡されたことがあったらしいんだけど、ご両親は何も問題ないと言って追い返した後に酷く叱られたことを怖がってた。彼女が言うには外面が良かったから職員の方も疑わなかったんだそう。若かったなんて言い訳にしかならなかったけど、そんな話を聞いて私自身怖くて何もしてあげられなかった。連絡するべきだったって今でも後悔してる。せめてもと思って家にあるお菓子とかコンビニのおにぎりを渡した。彼女は受け取るのを拒んでたからお菓子の代わりにあなたを見て欲しいと頼んだの。風花は毎日団地の公園で遊んでいたし、見かけた時でいいからって」


 午後のバイトに出かける前にお菓子とおにぎりを私に預けたと言う。全くと言っていいほど覚えがないが、確かにおやつは充実していたような気がした。


「事故の日は、幼稚園に送る前に佐藤さんと出くわして、ほんの挨拶程度の立ち話の時間だったけど、あなたから目を離してしまって…露子ちゃんの名前を呼ぶあなたの声に振り向いた時にはもう遅かった。必死に風花の名前を呼んで引き戻そうと、まるで時間を引き戻すかのように必死に叫んだ。そしたら露子ちゃんがこちら側に駆け寄って…トラックに…」


 同じだと思った。お母さんも自分を責めて追い込んでいるんだ。想像だけど、記憶を無くしていた私とは違って十年もそれを背負って生きてきたんだと思うと胸が苦しい。


「すぐにあなたたちに駆け寄った。私すごくパニックになってしまったせいか視界が白黒になったように見えた。投げ出された赤い傘が視界の端っこに映ってたけど今でもはっきりと覚えてる。その傘だけが赤かったの」

「それがあの傘…」

「本当にびっくりした。心臓が止まるかと思ったわ。あなたはびしょ濡れで帰ってくるし尋常じゃないことが起きてるって思った。でも記憶を無くしてるあなたに直接訊ねることは出来なかった。万が一あなたが露子さんの家族に会ってたとしたら恐ろしかった。またあの人があなたを責めてるんじゃないかって」

「あの人って?」

「露子さんのお母さんよ」


 お母さんはテーブルに肘をついてこめかみあたりを抑えながらゆっくり息を吐いた。


「弁護士を通して露子ちゃんのお葬式に参列させてもらった。お焼香だけでもってお願いしてね。その時初めて露子ちゃんのご両親を見たわ」


 特に憔悴しきった様子もなく、ただそこに座っているだけのように見えた。もしかしたら彼女を虐待していたかもしれない人、そう思うと悲しみの中から沸々と湧き上がる怒りを覚えたそうだ。でもここは葬式会場だし、彼女のことを責める資格なんてないと怒りをぐっと抑えて参列した。

 娘さんはとても良い子で、うちの子とよく遊んでくれて、そして守ってくれて、感謝してもしきれない。そう言おうと思っていた。

焼香が終わって遺族である彼らに向かった時、母親の方が立ち上がって椅子を叩きつけた。


 そこまで話すとまた大きく息を吸って吐く。感情を押し殺している。私がお母さんを追い詰めてるのではないか。ここで止めてもらった方がいいのかな。記憶を取り戻す不安がまた心を渦巻いた。でもここまで聴いて引くという選択肢はもうなかった。

「私は大丈夫よ」そう言って話を促すとお母さんは大きく頷いた。


「あの母親は露子ちゃんのことをどう思っていたのかは本当に定かではないの。でもどういう形にしろ彼女をずっと追い詰めていた一人だと思ったわ。そんな人が、私や風花を見て、「あの子が死んだのはあんたのせいだ」って叫んだ。持っていたハンドバッグが風花に向かったから必死であなたを庇った。背中を叩かれて罵声を浴びせられたとき、こんなことをあの子も受けていたのかと思うと本当に悔しくて…どうしてもっと力になってあげられなかったのかなって自分が許せなかったのよ」


 顔を覆って涙声で見えていない露子さんに謝った。露子さんはお母さんの手に触れていた。

 その後気を失った私は病院に搬送された。一晩入院するとまるで露子さんの記憶だけがすっぽりと抜け落ちた様子だったそうだ。その時の剣幕や自分のせいだと叩きつけられたことが抱えきれなくて、幼かった心を守るために記憶がなくなったんだと医師は言う。両親は相談して、このまま忘れてしまった方が私の為だと言って、あの団地を引っ越すことにした。


 事故はトラック運転手の過失として処理されたけど、細井家からは子供を助けてもらった手前和解金とは別にお金を渡すことになった。その後は向こうの家も消息不明になったと弁護士から聞いたそうだ。弁護士によると向こうの家族もずっと虐待の疑いをかけられていたから早々に切り上げたがっていたと言う。

お母さんは一通り話し終えると顔を伏せたまま肩で泣いていた。


「露子さん、感謝してたって」

「え?」


 露子さんはお母さんの傍に寄り添って話した。


「家も学校も嫌になって、もう死んでしまおうかって何度も考えてた時に、あなたたち親子に出会ったの。ごはんも碌に食べれないくらいジリ貧で、お風呂なんて週に一度は入れれば良かった。不気味だ、不潔だと忌み嫌われていた中で、風花はこんな私に懐いてくれて、あなたはごはんやお菓子を、そして何より愛情を私に与えてくれた。そして友達も出来て、プレゼントを貰って人生の中で一番輝いた時間だった。風花がトラックに引かれそうになった時、全然迷わなかった。死んで、幽霊になってこの世につなぎ留められて、なんでだろってずっと考えてたけど、今わかったわ。言えなかった謝罪と感謝を伝えるために『ここにいる』んだって」


 お母さんは耳を傾け、涙が一筋零れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る