短い夜の始まり

カツンッ…


パンプスのかかとがやけに高く音を響かせる。聞き慣れた声に、一瞬背筋が跳ね上がった。大股に歩いていた私はそのままの格好で硬直する。



天使の様なあの声は…



今すぐ振り返りたい衝動に駆られたが、滑稽な姿を晒している…彼女の反応を考えると振り返るのは恐ろしいが…。


その間数秒たらず…




「あっ、あま…天音さんっ!?どっ、どどどうしたんですかっ!!こんなところでっ…!」





『…終わった…私の恋…』



よりによってこのタイミングで……思わず首を項垂うなだれる…。滅茶苦茶な返事。すっとんきょうな声。無様なOLの波乱な仕事明け…彼女への抑えきれない私情丸出しの姿。


『気をつけてね。そそっかしいから。』


こんな時に限って青葉先生に言われた一言が頭の中で反響する。

彼女の困惑した表情が頭をよぎったが、思いきって顔を上げようとする…

と、彼女は応答に戸惑いながらも切り出した。



「ああっ、えっとあの…私…今日作品を出しに来てて…それで見掛けたので…笹木さんかなって…」


ハニカミながらそう言う天音ちゃんはとてつもなく可愛らしい…

…じゃなくて、


「そっそうなんですか?あれ?会社うちにってことは…出品間に合ったんですね~!良かったぁ…」


何とか普段通りの会話になっている。意外にも彼女が普通に返してくれたので安心した…

気のせいだろうか、天音さんが少し不思議そうな顔をしている。何というかほっとしたというか…いやいや、気のせいか。



「そうなんです…ギリギリですけど、何とかなりました。…笹木さんは今から帰るんですか?」


頭の中で独りごちていたが、すっかり忘れてしまっていた。


「あっ!そうだ…あまっ…じゃなくて、Hatmanに行こうと思って…」



あぁ…この人に会うために店へ向かうところだったんだ…あまりにも色んな事がごっちゃになっている。



「あっ、今日はお休みなんですよ!マスターが臨時休業にするって、昨日言ってたので…」


「えぇっ!?あのマスターが休みって…珍しい…。具合でも悪いんですかね…?」


「そうじゃないみたいですけど…。何でも急用とかで、出掛けなきゃいけない用事みたいです…」


「そんなぁ……。Hatmanで夕飯済ませようと思ってたのに…」


「…残念ですね…。」



悲痛な声を躊躇なく上げる私を見てか、彼女は少し間を置いた。…何か考えている様だ。眉を少し寄せて腕組みをするが、その素振りがまた可愛らしい。耳に掛けた長い髪が頬にさらりと垂れる。




「…あのっ……もし笹木さんが嫌でなければなんですが…。何処か一緒に食べに行きませんか?」




ん?


今なんて言った…?



一瞬耳を疑った。私は目を見開いて硬直する。


辿々たどたどしい口調で切り出した彼女から、信じられない言葉が発せられた。





これは…夢?

きっと夢だな…うん、きっと…。




「やっぱり嫌…ですよね」

「いやいやいやっ!!もうぜんっぜんっ!!全然まったく、そんな事はありませんっ!ぜひっ、是非とも一緒に行きましょうっ!!」



此方の様子を伺っていた彼女が、躊躇いがちに言葉を放つのと同時に、すかさず了承の返事を返した。




「えっ…いいんですか?…良かったぁ…。」


「もっ、もちろんっ!!むしろ私からお願いした……ああっ、いや!今から何処かお店探しましょうっ!」





こうして…思いがけず手に入れた一夜の幸運。


私はしばらく夢とうつつとをさ迷うような気分に浸り、日の沈みかけた空を仰いでみる。


うっすらと空色に桃色が混じり合い、紫めいた夕暮れ空に一滴ひとしずく…宝石ような星が光る。




嗚呼…何と言ったっけ…。

確か、空が一番綺麗な奇跡の時間…






『マジック・アワー』

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