第16話
「桃。今更だけどさ。怪我、治さなくていいの?」
私はくるくると南京錠を回しながら言った。一個800円もする南京錠は、春先に学校に買わされた一個2、300円程度のものとさほど差があるようには見えない。
ロッカーに鍵をかける役割を果たすのがあの南京錠で、今私が持っている南京錠は、もっと別の役割を果たそうとしている。
その差が約500円と考えると、安いのか高いのか。
むしろこの南京錠の役割を考えると、800円でも安い気がする。
「はい。せっかく実來さんに手当してもらいましたから」
「痛くないの?」
「ちょっと、痛いですけど。今日のうちはそれでもいいかなって」
「んー。まあ、いいけどさ。本当に痛かったらちゃんと治しなよ?」
「はい」
私たちは手を繋ぎながら歩いて、目的地に辿り着く。
海が遠くに見える場所に、小さな鐘が設置されている。その後ろには南京錠がいくつもついたフェンスがあって、恋人たちが楽しげに並んでいた。
鐘を鳴らして南京錠をつけると永遠の恋だの愛だのが叶う、らしい。
私はよく知らないのだが、有名な場所らしく、桃がキラキラした瞳で「行きましょう!」と言うのでここまでやってきた。
永遠を誓うのにも行列必至な世の中だ。
なんともおかしいというか、ちょっと間が抜けているというか。
「桃ってこういうの、好きなんだ」
「好きかどうかは、わかんないです。でも、実來さんとしたいって思って」
「私たち、恋人じゃないけどね」
「それでも、したいんです」
桃はきゅっと、確かめるように私の手を握ってくる。
軽い鐘の音が辺りに響いて、行列が減っていく。
前に進むと、フェンスにかかった無数の南京錠が目に入る。数えきれないほど多くの人たちの願いを乗せた南京錠は、何かの生物の鱗みたいにも見える。
いくつもの名前が南京錠には書かれていて、そこに私たちの名前も追加されると考えると、なんだか変な感じがする。
永遠なんて、信じていないけれど。
私はそっと、南京錠を握った。神社でおみくじを引いて、その内容で一日だけ一喜一憂する程度にしか、私は神様を信じていない。
けれど、桃が望むのなら、こういうちょっとむず痒くて恥ずかしくなるようなことをしてもいいんじゃないかって思う。
ちらと桃を見ると、彼女は微笑んだ。
その笑みはいつもとちょっと違って見えて、それが少しだけ私の心を波打たせた。
言い知れない違和感というか、なんだろう、この感じ。
「次ですよ、実來さん」
「ああ、うん」
私たちは繋いでいた手を離して、その手を鐘の方に伸ばす。
そこで再び、手が重なった。
一瞬薄れた温かさがまた手に伝わってきて、じわりと体に広がっていくような感じがした。
桃と私の力には差があって、そのせいか、少し鐘の音が調子の外れたものになってしまう。
大きく鐘の音が辺りに響いて、それが鼓膜を奇妙に震わせた。
噛み合わなくて、不思議な感じっていうか。この変な感じが何を意味しているのかはわからないけれど。こんなので、本当に永遠が叶うんだろうか。
いや、別に。
別に、私と桃はまだ恋人じゃないし、永遠の愛もへったくれもあったものじゃない。
いやいや。まだってあんた。まだも何もないでしょうが。
私、そういうあれじゃないし。
「南京錠、私がつけてもいいですか?」
「ん、いいよ。せっかくだから、誰よりも目立つ位置につけな」
「はい!」
桃は鐘のすぐ近くに南京錠をつけて、しばらくぼんやりとそれを見ていた。
後ろの人からの視線を受けて、桃は慌てて鐘から離れる。
「なんかあった?」
「実來さんの、名前」
「え?」
「みくって、ああいう字なんですね」
「あ、あー。そうね。字は見せたことなかったっけ。桃は普通に果物の桃と同じだったね」
「はい。みくさん。ミクさん。……実來さん」
「なーに、桃」
「えへへ、ちゃんと漢字もわかってた方が、もっといい感じで呼べる気がします」
むず痒い。
名前なんて別に、そんな大層なものじゃない。名前をどうでもいいと思っている親でも役所に提出しなきゃならないからしょうがなくつけるものであって、そこになんの願いも意味もありはしないんだから。
でも。
桃から呼ばれる私の名前には、どうしようもなく意味があるような。
そんな、気がした。
「桃」
私が桃の名前を呼ぶときはどうなんだろうと思う。
桃の名前に込められた願いを、私は知らない。
それでも、いつも名前を呼ばれたがっている彼女が少しでも幸せになれるように、あるんだかないんだかわからない心を込めて、呼んだ。
「実來さん」
「……桃」
「ふふ。みーくさんっ!」
彼女はぎゅっと私の手を握って笑った。その笑みはいつも通りだ。
彼女は楽しげに私の手を引っ張って、そのまま道を駆け抜けて。
「もっともっと、今日という日の思い出を作りましょう!」
「は、ちょ、待って待って。何する——」
小さな背中から翼と尻尾が生える。
尻尾は私の体に巻きついて、翼は大きく羽ばたきながら、桃の体を空へと送り出す。
馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿。
桃の、馬鹿。
高いところ嫌いだって、言ったじゃん。
「行きましょう、実來さん!」
生えている木々を避け、そのまま海の方へ。
桃は私を尻尾で引き寄せて、そのまま横抱きにしてくる。
潮風を受けて目を瞑った。
思い出って。トラウマになるわこんなの。
翼の音が聞こえる。遠くで鳥の鳴き声が聞こえて、今私たちは鳥みたいなことしてるんだよな、なんて思う。
こんなところで飛ぶことなんて、今後多分、いや、絶対ないと思う。そうなると貴重な気がしてきて、目を開ける。
海が、見えた。
高く登った日の光を乱反射させて輝く青い海。遠くにはトンビか何かが飛んでいて、その向こうに太陽が見える。
めちゃくちゃだ、と思う。
こんなことができるのは桃に翼があるからだ。人には翼なんて普通ないから、こうやって生身で空に連れ出されると当然怖くなるし、体も震える。
だから仕方ない。
私は桃の体にぎゅっと抱きついた。
細くて薄いお腹の感触が、少し手に伝わってくる。
「実來さん! 見てください! 海が綺麗です!」
「わかってる、けど! 綺麗だけど! それ以上に怖いっての!」
「それならもっともっと強く抱きしめてください! 私も尻尾で抱き締めますから!」
「あー、もう!」
尻尾の締め付けが強くなって、それに合わせて私も必死に桃に抱きつく。
情けないとか、なんだとか。
そんなの考えている余裕がない。
「忘れない思い出にしましょう。今日ここで、私と実來さんが永遠を願ったことを、一生覚えていられるように」
「強引すぎだって。もー、ほんとに!」
桃が海の上を飛んでいく。
飛んで見る海は、普通に見る海とは趣が違う。こうして二人で海を見ていると。どこまでだって、二人なら行けるような。そんな気がしてくる。
確かに、私は絶対今日のことを、一生忘れないと思う。
いつか桃と別れる日が来たとしても。桃に抱かれて海の上を飛んだ記憶は、私の心にきっと残り続けるだろう。
桃の腕の中で見る景色は、やっぱり特別だ。
星を見たときだって、そう思った。あの日、私は桃を初めて知ったような気がした。遠ざかっていた自分という存在を確かなものだと感じると共に、桃という存在を強く感じて、心が心臓に戻ってきたみたいな。
今日桃と一緒に飛んで得たものは、あの日得たものとは違うけれど。
それはやっぱり、心に残り続けるようなもので。
私は桃からもらったものを全部抱きしめるように、笑った。
「桃」
「なんですか、実來さん」
「私、一生忘れないよ。桃と一緒に、こうやって海見たことも。一緒に鐘を鳴らしたことも。全部、一生忘れない」
「それなら……よかったです。私も、絶対。死んだ後も、忘れません」
桃は小さい声で言った。
海から視線を外して、彼女の顔を見る。それに気付いたのか、桃は私に笑いかけてきた。私もただ穏やかに、笑った。
二人でただ静かに、海を眺める。私たちはそれ以上、何も話さなかった。
大事なものはもう、私たちの胸の中にあるような気がした。
凪いだ海が、私たちを静かに見守っている。そんな海とは対照的に、ずっと、ずっと凪いでいたはずの私の心は乱れて、波が立って、どうしようもなく私になっていた。
私は、星野実來だ。
桃の契約者で、友達で、きっと、世界に溶けることもできなくて、他の誰かになることもできない。
それでもいいと思ってしまう。
桃とこうして二人でいられるのなら。私のままで、そのままで生きてもいい。二人きりの時くらいは、私のままで。
そう思いながら、私は彼女の腕の中で笑った。
桃の翼は、ただ静かに空気を切っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます