02.最期の最後に悪夢を見るなんて

 頬に触れる冷たい指先に目覚める。ゆっくり開いた目に映るのは、見慣れた天蓋だった。見た目だけは立派な公爵家の自分の部屋をぐるりと見回し、はっとした。


 私は死んだのよ、この部屋に戻ってくるはずがない。焦って身を起こそうとするも、体は重くて動かなかった。泥のように重いと表現する人がいるけれど、まさにそれね。他人の手足を外から動かそうとするみたいに、ひどく疲れた。


「起きたのね、まだ動いてはダメよ」


 優しい声にびくりと肩が震えた。視線を巡らせた右側、ベッド脇の椅子に座るのは公爵夫人だ。オクタビア・リ・ソシアス――実母なのに私より妹を選んだ人。幼い頃は可愛がられたのかも知れない。ただ私が知っている彼女は、母親ではなかった。


 妹アデライダが生まれてから、一度も抱き締められたことはない。名を呼ばれた記憶もなかった。「あれ」や「それ」と指さされ、遠ざけるようメイドに命じる。愛情を注がれた記憶はなく、乳母が必死で守ってくれた。そんな乳母も私が6歳になったある日、突然解雇される。


 味方のいない公爵家の屋敷は冷たく、怖く、痛かった。メイドは私をいない者として振舞う。話しかけても答えてくれる人はいなくて、無言で部屋に引きこもる日々だった。


 庭で愛らしい猫を拾ったのは8歳の頃。嬉しくて、たくさん話しかけて撫でたわ。すぐにメイド経由で公爵夫人にバレて、猫は殺されてしまった。私が拾わなければ良かったの、そう泣いて夜を明かしたのも覚えている。それなのに、私に優しく声をかけるなんて。


「さ、触らないで」


 殴られても構わない。ただ怖かった。この優しい猫なで声の裏に何が潜んでいるのか。そうじゃないわ、私は古代竜の生贄になったはず! 生きているなんておかしい。あの崖の下は深く底が見えない暗闇だった。どうして私が生きて部屋にいるの?


 震えながらベッドの上を逃げる。反対側へ逃げる私に、公爵夫人は傷ついた顔をした。


「どうしたの? お母様よ、まだ熱で混乱しているのかしら。お医者様を呼んでちょうだい」


 お母様なんて、呼ばせてくれなかったじゃない。いつだって、嫌われ者の私が口にしていいのは「公爵夫人」という肩書だけ。生贄になり損なった今、なぜ母親面をするの? メイドが静かに頭を下げた。


「かしこまりました、奥様」


 私が高熱を出して魘された時も、お医者様を一度だって呼んでもらったことはないわ。怖い、なんなの? どうして心配そうな顔で私を見るのかしら。恐怖と混乱で叫び出したい気分だった。それでも喉の奥に貼りついた声は絞り出せない。


 もう嫌……放っておいて。ふらりと倒れた私は、ベッドの上で己の手で顔を覆った。これが走馬灯なら、最悪ね。夢も見ずに古代竜の餌になった方がマシよ。最期の最後に、優しい公爵夫人を見るなんて……悪夢だわ。

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