第11話

 息を呑んだ。まさか。


「娘はベランダから飛び降りたと言ったが、それは警察の見解だ。みんな、単純な事故死か自死で終わらせたかったんだ。年末も押し迫っていた時期だったからな。心理的にそう働いたに違いない。ベランダには、手すりを乗り越えるために使った椅子、その横にゴム製のスリッパが揃えて置かれていた。所轄の連中は、それだけで衝動的な飛び降り自殺だと断定したんだ。だが、美久はそんな事をするような子じゃない。あの子は強い子だ。旦那の浮気くらいで死を選んだりしない」


 親なら誰もがそう思うだろう。自分の子が強い人間だったと信じたい。本当は、そんな人はこの世に一人もいないと知っているのに。


「娘はいつも、ベランダを奇麗に掃除していた。あんたの部屋のベランダのように広いベランダじゃない。洗濯物を干したらどこにも立てないくらいの狭いベランダだ。そこの床をいつも奇麗に掃いていた。室内用の普通の布製スリッパで下りていたからだ。ゴムアレルギーだったんだよ、美久は。一応、ベランダには旦那用にゴム製のスリッパを置いていたが、自分は別の布製スリッパを履いてベランダに出ていた。普通はリビングで使う用の布製だ。そのスリッパは、使わない時は雨に濡れないよう、室内の隅に、サイドボードの横に置いていた。底合わせにして。俺は娘の死を聞いて現場に駆け付けたが、その時、ソファーで取り乱したように号泣している夫越しに見たんだ。そのスリッパはサイドボードの横に置かれたままだった。ベランダで椅子の隣に揃えて置かれていたのは、旦那用のゴム製スリッパだ。美久は履かない」


「その事を現場の人間に話したのですか」


「話したさ。だが、自殺するほど気がまいっている人間は、そういうものだと一蹴された。何度訴えても、取り合ってもらえなかった。俺が元監察の人間だから、ここぞとばかりの仕返しだったのかもしれん。誰にも取り合ってもらえなかった」


「動機については」


「遺書などは無かったから、旦那の供述通りに取り上げられた。不妊を苦にしての自殺だろうと。でも、そんなはずは無いんだ。最後に会った時、娘は諦めずに頑張ると言っていた。そんなはずは無い」


「それで、あなたは調べ始めた」


「そうだ。どう考えても、夫が怪しいと思った。それで調べてみた。あんたを調べたように。徹底的に。そうしたら、とんでもないスケコマシ野郎だと分かった。女もいた。だが、俺が一番許せないと感じたのは、怒ったのは、もっと重要な事が分かった時だ。美久は妊娠していた。治療が上手くいっていたんだ。親切な先生が病院から本人に、前日の検査結果を電話で伝えてくれていた。だから美久は、夫にすぐにその事実を知らせたんだ。あいつが急に帰らせて欲しいと言うから、俺は事情を知らなかったが、それを承諾した。美久はその日に死んでいる」


「その事実を証明する証拠は有るのですよね。医師からの連絡の通話記録などが」


「ない。既に自殺で処理されている案件の、俺の正式ではない捜査に、その医師は積極的に協力しようとしなかった。ようやく、連絡の事実を吐露した程度だ。だが、娘のスマホには着信の記録は残っていなかった。おそらく消去されたのだろう。夫の方も、自分への電話は自殺をほのめかす内容だった、だから急いで帰宅したと報告した。それが通っている以上、強制的に通話履歴を調べることはできない。だいたい、警察自体が自殺の一点から動こうとしないんだ。これ以上は無理だ」


「だったら、私が。正式な権限で、所轄に再捜査の指示を出します」


「あんたがか。冷静になれ。そんな事をしたら、全部を失っちまうぞ。これ以上、犠牲になる必要はない」


「私には、それくらいの事しか……」


「ここまでしてくれただけで、十分だよ。それに、たとえその夫を逮捕できたとしても、とうてい起訴には耐えられないはずだ。検察送致の段階で、せいぜい起訴猶予さ。証拠が無い。ま、それも警察が最大限に協力してくれた場合の話だが。俺の経歴では、それも望めない。まったく、嫌われ者役ってのは、損だよな」


「では、もう、こうするしかないのですね」


「と、俺は思うがな」


「葛木さん」


 癇に障る男の声だ。高くかすれた声。でも、奥の方がどこか甘い。嫌いな声だ。


「やっと来たな。まったく、一人前の刑事デカに育ててやろうと思ったのに、こんな調子だ。ガキのケツを拭くのは、いつも……」


 風が強くて聞こえない。急に声を落したのか。いや、少し向こうに離れたから。何を言ったのだろう。ただの独り言。


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