キャンディアンツ



◆キャンディアンツ



 体にチクチクとした感触があった。

 ワタシは自宅のベッドで目を閉じている。

 虫ケラに食われでもしたのかな。いや、なんだか動いてる。

 細かい毛に突っつかれているみたいだ。それもたくさんの。

 仰向けの状態で目を開けて、腕を見た。黒黒とした蟻が数匹、這い回っている。


 勘弁してよ。イモムシの次はアリンコ? それもこんなにたくさん、体じゅうにさ。


 再び目を閉じる。蟻のビジュアルを見たことにより、肌を歩き回るその感触が数倍不快なものに変わった。


『アンナぁ。起きなくていいのかァ? オレは起きてなんとかしてほしいぜェ。コイツら食ってもウマくないからなァァ』


「何言って————」と言い返そうとしてやめた。ちがう。これはまぼろしなんかじゃない!


 飛び起きた。

 ベッドのワタシの体があったところを挟んで、窓とは反対側の位置に飴玉が落ちていた。見覚えがある。勝瀬店長がくれた飴玉だ。それに蟻がたかっている。彼らはワタシの体を食品物流のルートにしていたわけだ。


 網戸を開けっぴろげ、そちらへ蟻を払い除ける。


『頑張れ頑張れェ』

 ワームは被害の少ない枕に移動し、はやしたてた。


 たぶんエプロンを洗って外に干す際にポケットから落ちたんだろう。すっかり意識の外にあった。昨夜は涼しかったから、不用心は承知で窓を開けて寝た。エアコンの使い過ぎが気になっていたせいもある。蟻たちは三階の、角部屋の、ベッドの上でたった一個の飴玉を発見し、そして行列を成して夜通し働いていたんだ。


 ご苦労なことだけど、夜勤手当てはあげられない。飴玉をベランダに出してからシーツを外ではたく。


 完全に蟻を出し切れてはいないだろう。バイトまで時間がないので本腰を入れて捜索するわけにもいかない。


『こうなったらしょうがないアンナぁ。この建物を燃やしたまおう。蟻どもを皆殺しにしようぜェ』


 人間様も皆殺しすることになるわ。


『イィィヒッヒッヒッ。それも良さそうだァァ』


 良いわけない。


 渋谷でワームの真の餌を知ってからというものの、小さく歪んだ口から発せられる言葉に警戒した。


 中指がデカくなるのは困る。それに肥大化する以上に良くないことが起きそうだし。


 しかし醜き我が左中指はワタシを唆し続けた。


 ワタシがイライラしやすい仕事中や、疲れて帰宅したプライベートな空間によく現れた。


『ほらやっちまえよォ、アンナ』

『こんな無礼なヤツはクソでも食わせりャァいいんだァ!』

『面白いこと思いついたぜェ、聞きたいかァァ?』


 あまりに集中していたり、ひどく眠い時など、恐らくワタシがワームを忘れているあいだは、彼は鳴りを潜めた。


 ちょっと待った、今なんて?


 彼……………………?


『呼んだかァァ?』


 バイト先。平日。

 カレーの盛り付けを担当するアレンジのポジションにいたワタシの口は中から押し開けられた。


 喉の奥から舌とすげかえられた憎きワームが、ワタシの鼻先でくねくねと身を踊らせる。


『アンナの口腔は気持ちイイぃなァァ。これからはココで寝るとしよう』


 まじ勘弁。


 ワタシは少し脅かすつもりでヤツを噛んだ。


「うッ!」

 加減を間違えたみたいで、鋭い痛みがワタシの舌に。


『気をつけなアンナぁ。舌が無くなりャァ飴玉も舐めらんなくなるぜェ〜』


 会話相手がアンタ1人になるのもサイアクだね。


『イィィィヒッヒッヒッヒッ! アンナを独り占めできるならそれもアリかもなァァ。でも安心しなよォ、オレはアンナをなにより大事に思ってんだからなァァ』


 それはありがとう。


「アンナちゃん、口おさえてるけどどうしたの? 大丈夫?」


 勝瀬店長がカレーの煮詰まり具合を確かめながらワタシを振り返った。7つのコンロの火を前にして、顔じゅうに玉の汗をかいている。


「ちょっと舌、噛んで」

「あ〜〜! 痛いよねぇ……」

『オイオイ気安くオレのアンナに声かけんじャァねェぞォ!』


 ワームが勝瀬さんの肩へと瞬時に移動し、カラダを上へと伸ばす威嚇姿勢をとった。


「店長」ワタシはスッと彼の肩に手を伸ばした。「肩にゴミが」


 スキ有りだ。


『ギャアアアアアアアアア!』


 ワームがカレー鍋に落ち、けたたましい悲鳴をあげた。


「ありがとう、アンナちゃん」

「どういたしまして」

「飴舐める?」

「大丈夫です」


 この薄汚い虫がワタシを第一に考えているのは本当のようだった。人をおとしいれ、おびやかす力には恐れを抱かずにはいられない。だけどヤツが油断したらワタシはすかさず攻撃した。


『大丈夫じャァねェよ! 何すんだアンナぁぁぁあ!』


 じゃれてるだけでしょ。


 ワタシは仕事に戻った。


『オレがあの時助けてやらなきャァよ、アンナはあの薄汚ねぇホテルで穴という穴を犯されてたんだぞォ!』


 それについては感謝してるよ。


「じャァよ、こんなことすんじャァねェよ! オレはアンナをバグらせることもできるンだぜェ!?」


 そしたらアンタ、美味しい思いできないじゃん。美味しい思いできないならワタシから離れてよ。


『それは無理な相談だなァァ』


 じゃあ大人しくしてなよ。


『ぐぬぬゥ……!』

 ワタシの手に戻ったワームは缶を縦に潰したみたいに体を縮めた。


 いい気味だ。


『コイツをバグらせてやろうかァァ?』


 関係ない人に手を出さないでよ。


『お生憎様だァァ。イモムシに手は無ェ』


 ワタシの中指が普通のものに戻った。ということは————、


 やめて!


 心で叫んだ。


 ワームは勝瀬さんの耳からひょっこりと顔を出した。


『へへッ。スッポンポンで腹踊りでもしてもッ————』


 セリフを言い切らずに、ワームが勝瀬さんの耳から押し出されるように落ちた。


 ワタシは床まで転げ落ちた彼をさりげなく踏みつけようとする。


『あぶねッ! 殺す気かよォ!?』


 可能ならね。でも、猿も木から落ちるって言う通り、アンタも無様に落ちるんだね。


『んなわけねェだろ。同業者がいたんだよォ。追い返されちまったぜェ、ちくしョォ』


 お生憎様。…………え、待って、同業者って?


 聞き捨てならない単語が出た。


『同業者は同業者さァァ。アンナとそこの若店長とおンなじ。殺し屋が居合わせるようなもんさァァ』


 アンタみたいのが他にもいるってこと? そんなのアリ?


『蟻じャァない。イモムシだァ』


 不快害虫だよ。


『そりャァ仲間はいるさァ。この地球は人間様の物だと思ったら大間違いだぜェ』


 信じられない。

 いてたまるか。


 いや、でも……そしたら対処法を知ってる人がいるかもしれない。


『そうウマくいくかねェ……もごぅッ!』


 ワタシは普段はあまりつけない薄手のゴム手袋を左手にはめた。


 これならうるさい声も聞こえない。対処法を知るのも大事だけど、今は働かなくちゃいけない。


 勝瀬さんには、聞ける時に、聞ける感じになったら聞いてみよう。

 耳の中に蟻を飼ってませんか?

 聞けるわけない。


『べッ! こんな避妊具みてぇなのつけやがってェ!』


 手袋は有効と思われたけど、ワームは手袋の先端を噛み切ってしまった。


 まったく……。


『マッタクだぜェ! アンナはオレ好みのイイ性格してやがんなァァ!』


 カレーの盛り付けをおこなう。いい調子だ。でも最後にスプーンで添える大豆が、ぽつんと一粒、皿から調理台に落ちた。


『イタダキ!』


 食うな、虫ケラ。

 心の中で毒付きながら、盛り付け終えたカレーを提供台に。


 ワタシより先輩のバイト、童顔で年齢不詳のワタヌキさんが運んでいく。周りからは婉曲的ではあるけど、「使えない」と囁かれている人だ。今回も彼女はスープカレーとセットで持っていくはずのライスを忘れている。


「次のカレーもオッケー。盛っちゃって」


 勝瀬さんの言葉でワタシは次に取りかかる。盛り付けの間、戻ってきた彼女はワタシの作業を横でジーッと眺めていた。綿飴が巻かれるのを夢中で待つ子供みたいだ。


「あの、ライス、持ってくの忘れてるんじゃないですか」


 ワタシは手元から目を離さずに言った。


「あっ! ほんとだ! 深井さんの盛り付けに見惚れてたら忘れちゃいました!」


 ワタシは彼女を見た。純粋な目をした人だ。


 さっきのワームの言葉、受け流したその言葉の意味を理解する。


 イイ性格…………って。


『根性ヒン曲がった嫌な心の持ち主ってこったァァ。イィィヒッヒッヒッ!』


 なるほどね。

 たしかに、そうかもな。


 ワタシは絆創膏を中指の先端に巻いた。キツく。


『アンナぁ……! ぐるっ、ぐるじぃよォオオ!』


 イイ性格かぁ。



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