キャベツワームとオニオンベイベー

朱々

オニオンベイベー



◆オニオンベイベー



 ふと手を伸ばした際、エプロンにつけていた名札が洗い物をするために溜めていた水に落ちた。


「ちっ」


 思わず舌打ちをしたけど、店内はお昼のピーク時。騒がしいキッチン内でそれを聞き取った者はなかった。


 ワタシは黙って水の中から名札を救出する。濁った水に浮いていた水菜の端くれがくっついてきた。サイアクだ。名札の紙の部分、『深井アンナ』の文字が汚水に滲み、ワタシは再度舌打ち。


「どうかした?」


 キッチンの最奥、仕込みのポジションについていた勝瀬さんがきいてきた。彼はワタシと一つしか違わない21歳だけど、『若手にチャンスを与える』という社風のおかげでここの店長を任されている。チャンスだなんて、人手不足の言い訳にしか聞こえないけど。


「なんでもありません」

 ワタシはタウパーで名札を拭きながら応じた。


 そうこうしている間にも、ホールから「2名さまお通しでーす!」や「C5卓さんの後出しドリンクお願いしまーす!」などと年下の先輩が言ってくる。


「はーい」

 キッチンの状況も考慮しないで好き勝手やってくれる。


 ワタシはオープンキッチンからホール側に移った。ラッシーをグラスに注ぐと、ご指示の卓にそれを持っていく。


「失礼いたしまーす」

 苛立ちが露呈しないよう努めてやわらかい声色を使う。


「下北のここのスープカレー店ってさ、いつも激混んでんだよ。今日は早くに入れた方だと思うよ。キミはボクと来れてラッキーだね」


 その卓にいたのはカップルだった。通路側に座る男は三十そこら。店員を眼中に入れない、ワタシの嫌いなタイプの客だ。


「失礼いたしまーす」


 身振りをつけた話し方をする客は気をつけないといけない。会話のモーションで置いたばかりのグラスをこぼされかねないから。


「ねえ、飲み物きたよ」

 ソファ側の派手な女が男に言った。こっちはおしぼりを綺麗に使って散らかさない、ワタシの好みのタイプ。


 ドリンクを置いて仕事山積みのキッチンに戻ろうとすると、別の卓の客に呼び止められる。たった今通されていた男二人組。


「あの、カレーの野菜が変更できるって知らなかったんで、今から変えさせてください。まず、ピーマンと大根と————」


 後から注文を変えてくるやつらか。


 店の前には行列ができていて、ホールの子はタイミングを見て予め注文を取りに行く。しかしいざ通されると客どもは、「あーやっぱり……」と心変わりをするもので。メンドーなことこの上ないだ。


「ヤングコーンと、あとブロッコリーに替えて、あ、やっぱり水菜も————」


 男たちは壁の『本日のお野菜表』を見上げながらこちらのペンの走り具合も考えずに言いつけてくる。隣席のオバンがうるさい。


 しかもこんな時にペンのインクが切れる。彫刻刀を持ったつもりでメモ帳の紙面をえぐる。


 ウルセェ、ウルセェ、黙って食ってりゃいいんだよ。


 キッチンの調理組に注文変更を伝えに行くと、矛先違いの溜め息をつかれた。


「今かよ」

「もう盛り付けてるんスけど……」


 数ある具材を揚げる『フライ』と呼ばれるポジションの社員と、スープカレーを煮込み最後の盛り付けをする『アレンジ』のポジションの学生バイトが口々に悪態をつく。


「いや、ワタシのせいじゃねえだろーが!」


 ワタシは出刃包丁を社員の頭に振り下ろした。カボチャを両断したのと同じように彼の頭が割れ、首から床へ落ちた。


「ひえェ?!」


 次は間抜けヅラで振り返ったバイトの首にペティナイフを突き刺す。ほとばしる血潮を浴びながら、刺したままナイフを鎖骨まで下げる。


 ここはオープンキッチンのため、それを見た客どもが喚きながら逃げ出す。


「ウルッセーんだよォオオ!」


 次に腹部を滅多刺し。彼はコンロの上に背中を乗せるように倒れた。傷んだ肉が焼ける臭い。


 火だるまになった彼はふと上体を起こす。


「あと、キャベツが無くなりそうなんすけど」


「切りますねー」


 人間、無くて七癖。ワタシは癖の一つである妄想マーダーをしてから洗い場についた。即座にアレンジから雪平鍋が放りつけられてきた。


 火にかけたばかりの鍋を無言で出してきやがって、あぶねえだろ。ワタシは鍋で後頭部をぶん殴ってやった。もちろんイメージで。


 ワタシのポジションは『ウォッシュ』だ。ただ皿を洗うなら楽だけどそうじゃない。接客の手伝いと仕込みの手伝い、ホールとキッチンの板挟みの中間職。一番大変と言われるポジションだ。


 今日は土曜。ここ下北沢の地では『カレー祭』なるイベントの真っ最中。忙しい、忙し過ぎる、イライラする。


「ごめん、お手隙でちょっとだけキャベツ切っちゃってくれないかな……?」


 手隙なんてあると思うのかよ、タコ。


「はい、店長」

「もう、一歳しか違わないんだから他人行儀はやめてよー」

「いやー」


 曖昧に答え、キャベツのカットにとりかかる。


「この季節ナメクジとかいるから気をつけてね」

「ワタシ平気ですから」

「いや、お客さんに出しちゃったらまずいでしょ? って」


 分かってるわ。んなこと。

 ウルセェんだよ。


「深井さん、鍋も足りないっス。早めに洗ってもらえないスか?」


 ウルセェな、洗浄機の上を見てみろ。もう洗いあがってるから。


「アンナちゃーん、お冷出すの手伝ってー!」


 ウルセェって。一人でやれるペースで客入れろや。


「指切らないように気をつけなよ」


 てめえより野菜カットは速ぇんだからごちゃごちゃ言うな。


 四方八方から要求される。苛立ちがピークだ。頭上では換気扇のファンの音。洗浄機からの水音。通気口から入る蝉時雨。コンロを点けるカチッカチッ、レンジがピッピッ、豚角煮を煮込む巨大な圧力鍋がシュシュシュ。


 うるさい、アツイ、イライラしてたまらない。


 キャベツをぶった切る太刀筋が荒くなる。気が散る。玉の汗が頬を伝う。髪がキャップの中で蒸れる。蚊が耳元を過ぎった。


 ウルセェ、ウルセェ、ウルセェウルセェウルセェウルセェ——————。



『よォ、アンナぁ』



 ふと聞き覚えのない、しゃがれた声がした。


 手が止まる。ちらりとあたりに目をやるけどスタッフはそれぞれの仕事に没頭している。


 もしやお客の中に知り合いが?


 お皿の下げ口の窓からホールにつながる通路を見るけど誰もいない。


 はっきりきこえた、はずなのに。

 気のせい、なのかな。


 視線を手元に戻す。

 そしてギョッとした。


 露で湿ったキャベツの葉の隙間から、3センチほどの白っぽいイモムシが顔を覗かせていた。


「ちっ」


「えっ?」


 ワタシはそいつを挟んだ二枚の葉っぱをまな板の上からどかして、包丁の柄でもってヤツがいたであろう場所を押しつぶす。


「もしや出た? ナメナメさん」

「…………まぁ」


 サイアクだ。気持ち悪い。ホント、ムリ。


 キャベツサンドをゴミ箱に捨て、ガンコ汚れ用の強めの洗剤を何発か吹きつける。これはイメージじゃあない。ヤツが仮に潰れていなくても洗剤の泡地獄から這い出ることは不可能だろう。


 それにしても、さっきの声はいったい……?


 奇妙な体験だった。

 けれどワタシにはそれについてゆっくり思考をめぐらす暇はない。ホールの学生バイトの子みたいにちらりとスマホでLIMEをしたり、ちょっとサボることも許されない。傲慢と言われてもいい。ワタシが手を抜いたら営業に差し支える。それは逆に要領が悪いとも換言できるかもしれない。まぁ、そんなこと言うヤツがいたら万回殺すけど。



 怒涛のランチタイムが終わった。が、店内から客がいなくなる……いわゆるノーゲストになるまでかなりの時間を要した。


 2時間のアイドルタイムでの休憩はいつもの四分の一。三十分の寸暇。外にはディナータイムの列が既に伸びている。うんざりしない方が無理だ。


 メンツのこともあり、ディナーもウォッシュだった。汗と汚水に濡れながら働いた。


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