八百万人事課 ――神様、ご異動願います――

@RITSUHIBI

箒神

「随分と長い間――お待たせしてしまいました」

「謝ることじゃありません。わたしだって、あなた達に見つかるのが怖くて、隠れていたんだもの」

 檜皮色の着物の神様は、微笑みながら、頭上を見上げた。

 夏の昼下がり。虚空から投げかけられる緑。蝉の声。水の流れる音。

 八月の酷暑も、ここまでは届かない。柱に背中を預けると、ひんやりとして気持ち良かった。一息吐いている間に、向こうから話しかけてくる。

「ここまで、遠かったでしょう」

「駅下のバスで二時間かかりました。目当ての社を見つけるまで一時間。さすが、この国のことはよくご存知だ」

 神様は答えず、目を閉じて水の流れる音を聞いているようだった。暫くの沈黙があった後、

「ここは、嘗てわたしが暮らしていた村なのです。もう、数百年も昔になりましょうか」

「村の様子も、その頃とはだいぶ変わったのでしょう」

 そうですね、と神様は肯いた。

「若い人が村を離れ、もうほとんど、人が残っていません。この地に骨を埋める覚悟のお年寄りがいるだけ。もう十年もすれば、この村もなくなるのでしょう」

「――」

「箒神の力があろうとも、こればかりは変えられません。ここなら、何かできるかもしれないと思って選んだ地でしたが――わたしの役目は、もうないようですね」

 視線を落とし、自分の両掌を見つめている。とても小さく見えるその背中に、語りかける。

「役目がなくなったのではありません。役目を終えられたのです。箒神様がずっと果たしてこられた役目が、人の手に移ったのです。後は人の手に委ねて、ゆっくりお休みになって良いのですよ」

「それは――分かっているのですけどね」

 穏やかな物言い。顔も微笑んでいる。が、こっちを見ようとしない。

 仕方のないことだ、とこっちも溜息を吐く。人も神も、お前は用無しだと言われて嬉しいわけがないのだ。殊に、何百年もの間、ただひたすらに、それだけのために生きてきたのだから。

「わたしはもう――この世に必要ないのでしょうか」

 神様は顔を上げ、問うてきた。思わず背筋が伸びる。さあ、ここからが勝負どころだ。

「必要ないというわけはありません。いつの時代も、お産には危険がつきものです。ただ――」

 言い淀んだ。どうすれば、気分を害さずに伝えられるか――相手が神様だと、余計に気を使う。

「ただ、箒神様への信仰それ自体が、時代を経る中で忘れられてしまったのです。そのうちに科学が発展すると、人間が縋る相手が、神様から医療へと移り変わった。――そういうことなのです」

 でも――と、少しだけ言葉に力を込めていった。

「そうやって人間が、自分の力で物事を良くしようとしている。少なくともお産に関しては、人間が人間の手で、母子ともの命を救うことができるようになって来ている。それ自体は――神様にとっても喜ばしいことではないですか」

「それは――そうですね」

 と、神様は自分に言い聞かせるように何度も何度も頷いた。そして、

「わたしは別に、自分の役割を奪われたなんて思いません。人間が自分の手でお産を成功させる、そんな嬉しいことは他にないものね。ただ――」

 今度は神様が言い淀む番だった。暫時は蝉の声と水の流れる音だけが響いた。

「ただ、どうしてもね。考えてしまう。わたしの力は、本当に必要なくなったのか。どこかで誰かが、わたしを頼っているのではないか――」

 神様はこっちを見た。そのビー玉のような澄んだ瞳の奥に、自分の顔が見えた。

「わたしは――ここにいてはいけないのですか」

「いけないわけではありません。しかし、ここにいても甲斐がないでしょう。これからずっと、おひとりで過ごすつもりですか。それだと……」

 あなたの心配はわかっていますよ、と、神様は遮って言った。

「でも心配は要りません。わたしは、祟り神なんかにならない。よしんばなったところで――わたしには大した力はありません」

 いいえ、とんでもない、と大げさに手を振る。背中を冷たい汗が流れた。

「箒神様が祟り神になったらどんなことになるか、考えただけでも恐ろしい。それは、箒神様とてご承知でしょう。ご承知だからこそ――人目につかぬ、こんな寂しい村に身を隠されたのではないですか」

 神様は俯いた。ややあって、絞り出すような答えが返ってきた。

「そう……ですね。わたしが、我儘でした。わたしが祟りを拗らせれば、大変なことになってしまう。そうなる前に――神様も、引き際が肝心ということね」

 おもむろに立ち上がる神様。その前に片膝をつき、頭を下げた。

「では――参りましょう」



 だらだらとした坂をゆっくり降りていく。周りに人の気配はない。この炎天下での畑仕事は、老体にも堪えよう。遠くの方にバス停が見えるが、そこまでの道に陽炎が立ち上っている。

 もう少しだな、と額の汗をぬぐった時だった。不意に、右横からガラガラと音がした。何だと思って立ち止まり、見てみると、ひとりの少年が竹箒片手に玄関を飛び出してきたところだった。

「ここにまだ、子供がいたんですか」

 思わず呟くと、肩辺りから神様の声が聞こえてきた。

「あれは、三日くらい前からきている子です。お母さんが出産を控えて、市の病院に入院しているんですよ。父親が単身赴任しているものだから、面倒をみる人がいなくてね。母方の祖父母の家に預けられているんです」

 少年は門扉まで来て、こっちの姿を見止めて、暫くもじもじしていた。が、やがて意を決したように、扉に連なる塀に、持っている竹箒を立てかけた。そうして、逃げるように家の中へ入っていった。

「――」

 神様は黙していた。が、何を考えているかは分かった。

 箒を逆さに立てれば、安産となる――。

 昔からの風習だ。我が子が無事に、元気よく生まれてくることを箒神に祈った、その名残だ。

 少年はおそらく、祖父母から聞いたのだろう。

 ひとり田舎に預けられ、母や生まれてくる子供の安否さえ定かでなく、不安の中にあって、自分にできることを探したのだろう。

 その思いの結実が、古き神の力に縋ることだった――。

「あの――まだ、時間はありますか」

 ぽつねんと、箒神様は言った。

「あの子の弟が、恙なく生まれてくるためのお手伝い――わたしに、させてもらえますか」

「――お願いします。また、改めて、お迎えに上がります」

 ありがとう。耳元でそう聞こえた瞬間、さっと風が吹いて肩が軽くなった。

 やれやれと肩を竦め、右横の家を見やる。物音らしいものはしないが、きっと落ち着かない気持ちでいることだろう。できることなら、心配ないと伝えてやりたい。何せ、箒神が憑いているのだ。何百年もの間、人間に寄り添い、その誕生を手助けしていた産土の力以上に頼れるものなどない。

 黒いジャケットを抜いで、肩にかけた。ネクタイも緩めた。くたびれもうけだったが、不思議と嫌な気分にはならなかった。バス停までの道のりも、そんなに苦に感じない。空はいよいよ青く眩しく、まるで今生まれたばかりのように、きらきらと輝いていた。

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