「左様ですか。そのようなことが、あったのですね」

 金泥の玉案と椅子に深く腰掛け、腕組みをしたままで閻魔王は呟きを返した。目を堅く閉じた、厳かな面持ちである。いつもなら背後に控えているはずの司命尊と司録尊の姿はなかった。番卒役の鬼どもの姿も、泰山府君の泰然自若とした姿もない。人頭幢もいない。閻魔王宮の裁きの場において今、言葉を発するのは閻魔王と篁の二人だけだ。玉案の上に畏まる篁を閻魔王が見下ろす形で、二人は対峙していた。玉案の上には真っ赤な座布団が敷かれていて、篁はその上に腰かけている。閻魔王との距離が、いつも以上に近いので、殆ど仰け反るようにして閻魔王の顔を仰ぎ見なければならなかった。たけ十丈の閻魔王が愛用する玉案の上は、人間である篁には居心地の良い場所ではない。あまりに広々としているし、金作りだからよく滑る。何より拵えが本物さながらで不気味なのだ。金の龍神や麒麟、獏、大蛇、鳳凰などが、王宮の外で爆ぜる業火の色を受け、ぎろりと怪しく煌く。浄玻璃の鏡の装飾同様、この拵えたちも命を持ち、時に首を捻ってこっちを見てくる。

 普段は玉案に頬杖をついている閻魔王が、今日はずっと腕組みをしたまま。ふとした気の緩みから篁を潰してしまわないための用心である。眉間に皺を寄せた、険しい顔の閻魔王に、篁は、猛禽にも似て冷然とした、鋭い視線を投げかけていた。

 彼は今し方、珍皇寺にある冥府通いの井戸から冥府に降りて、調べた結果を閻魔王に、余すところなく伝え終わったのである。閻魔王は始め、嬉々として篁の報告に耳を傾けていたが、話の中身が深刻になってゆくうちに、顔と眉を顰めた。そして篁の話が終わると先の呟きを返し、獄卒を呼び寄せて、過去一年分の閻魔帳を全て持って来いと言い付けた。

 獄卒が牛鬼に車を引かせ持ってきた閻魔帳の数は百を越え、積み重ねられている様は、ちょっとした小山である。閻魔王はそこから一冊を引き抜いて、ぱらぱらと捲った。捲り終えると山に戻し、別の一冊に手を伸ばす。その武骨な顔からは想像し得ぬほど、繊細で柔らかな指使いを見せる閻魔王の手。一冊を読み終えるのに、一秒もかかっていない。

 十五か、二十冊目の閻魔帳を貪り読んでいた時であった。頁の半ばほどで、その手が、ぴたりと止まった。閻魔王は目を見開き、その様子を見て篁もハッと息を呑んだ。

 御覧なさい――と、閻魔帳を篁の方へ突き出す閻魔王。篁の三倍ほど丈のある閻魔帳、その真ん中ほどに、「真砂」の二文字が確かにあった。生まれの記載も丹波の山村であり、何一つ違うところはない。篁が頷くと、閻魔王は閻魔帳を閉じて、深々と溜息を吐いた。

「探すところが、まず間違っていたのですね。十月前の閻魔帳に記載があったとは……」

「浄玻璃の鏡に映らなかったのも、十月前の閻魔帳に記載があったのも、みな一つの理で説明が付きます。即ち、鏡と帳面、そのどちらもが人の心を映し記すものだということ。真砂――さえは、たんのう丸に凌辱された後、心を狂わせてしまった。むろん十日前まで、さえは生きていました。だが、体の方は健在でも、心は既に死んでいたのです。だから、こんな奇妙なずれが生じた。この場に赴くより先に失われた心からは、浄玻璃の鏡でさえ、何も掬い上げられなかったに相違ありません」

 無言で頷く閻魔王。口は固く閉じられている。彼の顔は表情こそ読み難いが、何しろ大きいので、喋り出そうとする気配や、それに伴う微細な動きなどは手に取るように分かる。閻魔王の口元を注意深く見つつ、篁はなおも言葉を紡いでいった。ここからが本腰、そう考えると、自然と体に力が籠り、じんわりと汗ばんでくる。報告は既に済んでいるから、本来ならば余程のことがない限り、このまま黙って退廷するべきである。今回ばかりは、それができなかった。伝えておきたいことが、まだもう少しだけあった。

「奇妙な事件でした。同時に人間臭い事件だったように、私には思えます。俗っぽくて、下らなくて、情けなくて……人の脆さというものが、人の生き様の哀れさというものが、ありありと出てきた話だと言えましょう」

「……」

「人世だとか何だとか言って、自惚れているように見えるかもしれませんが、人間という輩は、本当は誰よりも弱く、儚く、傷つき易いものなのですな。悲しいことや辛いこと、苦しいことに出遭うと、すぐに根を上げて、へたりこんでしまう。むろん胸奥では誰しもが真っ当に生きたいと願っているだろうし、逞しく生きたいとも思っている。雨上がりの空に向かって真直ぐ伸びる竹の如く、道を踏み外さず歩んでいきたいというのが共通する気持ちなのでしょう。にも拘らず、事ある毎に躓き、その度に諦めて、拗けて、気付けば、こんな風にはなりたくないと思っていた、卑屈で意地悪い下衆に成り下がってしまう――愚かしい話だが、それが人の性に他ならぬのでしょう」

「……」

 口のへの字に結んでいる閻魔王。憮然たる面持ちのようだが、話を聞いてはいるらしい。

「辛い目に負うても、それを撥ねつけるくらいの気根があれば良いが、そんな豪傑など、そうはいない。心が弱ければ、己を襲うた悲しみや苦しみに耐え抜くことも、また難しい。ならばもう――逃げ出すしかない。現から目を背けて、己の身を守るしかない」

「……」

「あまりに悲しい現を、受け入れられない時、残された唯一の道は、忘却しかない。心を遠くに消してしまい、過去の一切を忘れ去ってしまう。己自身の存在をも、含めてです。むろんそれは、絶対に許してはならない最後の手段――それを真砂は選んでしまった」

 自身の言葉に、次第に熱が籠っていくのを篁は感じていた。じんわりと汗ばむ体を突き動かしているのは、説明することのできない何かであった。気付けば、眼前にさえの瞳を幻視していた。心を失ったが故の温かみがなく、空虚で寂しい、哀れな眼差しであった。

「自らを殺さずとも、歳を取れば、自然と忘れっぽくなってしまうもの。それは心の中に、悲しみや憂いが溜まりに溜まった結果なのかも知れませぬ。嘆きが頂きを削り、これ以上耐えられないと知って、全てを捨て保身を図るのでしょう。今では思うのです。忘却とは、老い耄れた証ではなく、端から人の中に備わっている、最後の救いなのだ――と。それもまた、人間の愚かしくて哀しい生き様の一つなのです」

 ここまで言った時、漸く閻魔王が動いた。手を突き出し、篁を制すような仕草を見せる。

「随分とまた、情に流されておいでのようだ。篁殿、聡明な貴殿らしくもありませぬ」

 辛辣な言葉ではあったが、物言いは穏やかだ。咎められているのか嗤われているのか、それとも憐れまれているのか、どれとも判断が付かず、篁は答えられないでいる。

「浄玻璃の鏡のことは、確か泰山殿からお聞きになったのでしたな。儂が、それを貴殿に教えないでいたことに対し、何かしら不思議に思われていたかも知れませぬ。忘れていたわけではなく、敢えて伝えなんだのですよ。真実を伝える必要よりも、それを貴殿が知ることで起こる弊害の方が気になったのです。どうやら、その読みは外れなかったらしい」

「弊害――。いったい、どんな悪いことが起こるというのですか」

「貴殿は、私が頼りにするほど、素晴らしい知恵を持った吾人です。しかし人であることには変わりない。そして人情という言葉がある通り、人間は、極めて情に篤い生き物です。その良し悪しは問わず、少なくとも地獄裁判では邪魔でしかない。前に申し上げたように、地獄裁判は一切の間違いが許されませぬ。一切の私情を差し挟むことも、認めらませぬ。情状酌量さえ滅多にはない。なのにそれを篁殿――貴殿は今、儂に求めているのですよ」

 今度は篁が黙す番だった。彼はフッと閻魔王から目を逸らして、床を見つめる。金色の玉案に、狼狽を隠し切れない己の顔が、胸糞悪いほどハッキリと映っていた。それが目に入った途端、堪え切れなくなった。きっと上を向いて、再び閻魔王と視線を交差させる。

 閻魔王の目はさっきから変わることなく、篁を静かに見下ろしていた。

「忘れてはなりません。ここは閻魔王宮。何よりも優先されるのは、絶対の正義であり、命の理です。真砂には、確かに同情の余地がありましょう。しかし貴殿自身も仰っていたように、真砂は自ら心を殺してしまった。それを論うことなく、同情ばかりを寄せるのはあまりに偏り過ぎている。篁殿――貴殿は、そうは思いませぬか」

 赤子をあやすような口ぶりだ。しかし、そこには有無を言わせぬ、静かな威圧もある。黙りこみながら篁は、閻魔王の顔を探しものでもするかのように必死になって眺めていた。

 と、その目が突然、ある一点をひたりと射抜き、そこから微動だにしなくなる。

「浄玻璃の鏡は心を映し、閻魔帳は心の死ぬ日を記す。それは心が、その命の生き様を、何よりも正確に記憶しているから。心とは、命そのものなのですよ。肉体は体に過ぎず、あらゆる生命の根源は心にこそ宿るのです。真砂はその命の源を、自ら断ってしまった。命の代わりとも言える心を殺したことは、やはり咎められなければならないのです」

 ――違う、そんなものは建前だ。このひとだって、それを分かって言っているのだ。

 閻魔王の手厳しい主張を大人しく聞きながら、篁は密かにそう呟いて、鼻を膨らませた。先程までの思い詰めた様子や張り詰めた感じがなくなっている。いつもの飄々とした中に鋭い知恵の光明を差しこませる、一癖も二癖もありそうな「野狂」篁の顔に戻っていた。

 気付いたのである。体裁を繕って、厳粛な言葉を並べている閻魔王だが、本心は自分と同じであるということに。その瞳を見れば分かる。居丈高な表情の中でも、目だけは嘘を吐けない。よく見てみれば、少し潤んでいるし、瞳の奥には淡い哀切の色が滲んでいる。

 不思議な笑いが込み上げてきた。偉そうなことを言っているようでいて、閻魔王も自分と変わりないのだ。何せ閻魔王は、この世で一番初めに死んだ「人間」なのだから。人であった頃から数千年の時が経っていたとしても、まだ胸の奥底には残っていたのだ。

 呆れるほど弱く、傷つき易く、それでいて哀しいほど優しくて温かな、人の心が。

 正義も理も一つの理想である。そればかりが罷り通るなら、自分はこの場所に必要ない。閻魔王が自分を頼りにするはずがない。理だけでは説明が付かないのが、命なのだ。

「色々と思われることはありましょうが、今度のことでは、貴殿はいつになく、情に心を動かされている。それを儂は聊か危険だと判断します。ここは――閻魔王宮。生前の罪を裁く、厳正にして公正なる場。我々は非情の眼差しで、真理を掴み取らなければならないのです。いかなる理由があろうと、理に反するものは糾弾されなければならないのです」

 冷厳たる面持ちで、はっきり言い切る閻魔王。そこでもう耐えられなくなったのだろう。彼はおもむろに背を向け、衣の袖で乱暴に顔を擦った。すん――と、鼻の鳴る音がした。

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