瘤取天狗
@RITSUHIBI
一
疲れた――。
安元二年丙申の秋、葉月十五日の夜。硬翼を無理に広げて風を受けつつ、白狼は呟いた。
夜墨をぶちまけた漆黒の空には、鈍色の雲と、そこかしこで煌く無数の星。その狭間を過ぎ抜いて、蒼い目が瞬きながら西へ奔る。
地上からは、白狼の眼光は流星とも映ろう。陰陽師風情が訳知り顔で凶星と断じて、物忌がどうの、星祭がどうのと言い出すのだろう。
時は真夜の頂を削っていた。山川草木が悉く眠りに就く時分、外に蔓延るは真っ当なものではい。百鬼妖魔の類が燐火を灯して都大路を並び歩いている頃である。無明に染まった遥か下方に、光の粒が揺らめいているようにも見えるが、あれもその類だろうか。そうにも見えるし、或いは目が闇に幻惑されて、勝手に靄の如き光を見ているのかも知れぬ。
今の俺では、何も信用ならん――。
嘴を鳴らして、大きな溜息を一つ吐いた。身体の倍はある翼で虚空を打ち鳴らし、落下しそうな身体を無理やり押し上げる。鉛のように重い。翼だけではない。結袈裟、鈴懸、頭襟、手甲、脚絆。何もかもが重く、気怠い。全て闇に放り棄てれば楽にもなろうが、そうすると墜落して死ぬことになる。数百年かけて魔道に学んだというに、ここで墜死してはあまりに勿体ない。
戻るのだ。翼が折れ、通力をなくす前に。夜明けの鶏に叫ばれる前に。
白狼は双眸を見開いた。青白い火が迸り、夜風に流れ過ぎてゆく。無明に空いた金色の月を追い、西を目指して飛ぶ。月光に黒く塗り潰された姿は、翼を負う人の形であり、蒼い星光を帯びた頭は、猛禽のそれと同じだ。
天狗である。山に住む、有翼山伏姿の魔性。
あらゆる命を魔道に導かんとする外法物。
風貌によって、赤ら顔の鼻高天狗と、猛禽の顔を持つ烏天狗や木ノ葉天狗に大別される。白狼は、木ノ葉天狗と呼ばれる物の怪である。
木ノ葉天狗は境鳥とも呼ばれる、六尺の翼を持った鳥面人体の異形。地位は低く、鼻高天狗や烏天狗に使役されている。白狼は讃岐国白峰山に棲み、そこの大天狗に仕えている。
百年ほどになろうか。定命の理を蹴って、魔道に生きることを選んでから。百年で、木ノ葉天狗として魔道の修行に耐え、通力を学び、師に仕えて己の力を試した。白峰天狗の中では古参である。師にも篤く重んぜられている自覚がある。
――それなのに……。
ぎちぎち嘴を噛み合わせ、その狭間から呟きを噛み漏らす。地上と違い、空には道がない。帰途を覚える必要もなければ、迷う心配もない。星を呼んで方角を間違えなければ、必ずや白峰山には着く。百年を生きた天狗にとって、飛んでいる最中はただただ暇である。だからして、取り止めもないことが次から次へと浮かんでは消えてゆくわけだが、近頃はどうも、愚痴や不満ばかりが出てくる。
それがまた、天狗になる前は一度も抱いたことなどない類の感情なのだから皮肉である。
理を捨て、しがらみから解き放たれて生きるはずだった。が、そう甘くはないのだ。
魔道に堕ちたり、物の怪と化したりすることは、別に難しくはない。理を破り、境を踏み越えればそれで仕舞だ。たとえば寿命は、それぞれの命に与えられた限りの枷である。それを外して長く生きようとすれば道を外れる。猫は尾を二つに分かちて猫又となり、狐は尾を九つに分かちて世を掌握せんと企て、狸は己の八畳敷を被って罪なき悪戯をする。
白狼という名が示す通り、彼の前生は老いた白い狼である。白峰の奥地で命果てることを嫌って、魔道を選んだ。ところが天狗にも実は決まりがあって、畜類が魔道に堕ちても、良くて烏天狗、大抵は木ノ葉天狗にしかなれないのだ。一方、人が魔道に堕ちると鼻高天狗に変ずる。鼻高天狗は大天狗とも言い、神に通ずる力格を持つ。大天狗はこの国の山をどれか一つ統べること、そしてそこに棲む一切を眷属とすることを許される。
何故、人間だけが優遇されるのか――。
白狼自身は、人間のことが死ぬほど嫌いである。天狗になる前――狼であった頃から、度々里に下りて、血みどろの戦いを繰り広げた。魔道に堕ちてからも、それは変わらなかった。木ノ葉天狗は気性穏やかで、滅多なことがない限り命を奪うことはないが、白狼だけは違う。師の目を盗んで山麓を襲い、人を食い千切り殺したのも一度や二度ではない。
そんな、憎んでも、厭うても限りがない人間――それに仕えねばならないと分かっていたなら、己は天狗道を選んだろうか。白狼は、近頃幾度となくそんな自問を繰り返している。
白狼の直接の師は、白峰山相模坊である。相模坊天狗は八大天狗にも名を連ねる大天狗、火之迦具土神の化身たる愛宕山の太郎坊や、毘沙門天の夜の姿である鞍馬山の僧正坊と比肩する格を持つ。白峰山はこの相模坊の天下、白狼を含めた数千の眷属を従えている。
白狼は、この相模坊に全てを捧げて尽くしている。相模坊は大天狗。人が魔道に堕ちてなった類であり、本来なら敵のはずだが相模坊だけは話が別だ。何せ、天狗となってからの自分に全てを教えてくれた師なのだから。それに相模坊は元人間と言っても、天狗に成ってからの年月が経ちすぎていて、一向人間らしくない。だから日頃の確執も忘れて献身的に仕えたとて、違和感を覚えない。
ところがこの度――また別の大天狗が白峰山に現れ、幅を利かすようになった。
そのことが白狼は、はらわたが煮えくり返るほど気に入らないのだ。
崇徳院――とか言ったように思う。本当につい最近、魔道に堕ちてきた男だ。
帝だとか院だとか、人間の世にはそう言ったものがあるのだ、というのは崇徳院が白峰に来るということになった時に相模坊から教わった。人の中では最も尊い格なのだそうだが、そんなに偉い人間なのに、何ゆえ魔道なんぞに堕ちることになったのだろうか。相模坊から話を聞いてみると、何の事はない。人世にありがちな権力争いに破れたなれの果てであると分かって、その時点で白狼の中では軽蔑の対象に決まった。詳しいことは、相模坊から聞かされており、嫌でも覚えている。
諱は顕仁。鳥羽天皇の第一皇子として生を受けながら、生涯父親に疎まれ、憎まれ続けた。生まれが、あまり良くなかったらしい。
母である藤原璋子が、実は鳥羽の父、白河院が寵愛していた女であり、実は顕仁も白河院の胤なのだとか。鳥羽天皇がそれを知らぬはずはなく、顕仁を叔父子と呼んでいた。
保安四年、白河法皇の意向により四歳で即位するも、六年後の法皇崩御に伴い、鳥羽は白河院の息がかかったものを排除し始める。そして体仁親王を授かった後は、叔父子を権力の座から追放することを決めたのである。
半ば騙す形で譲位させ、体仁親王を即位させた。崇徳は院として実権を握れるはずが、実際に権力を恣にしたのは鳥羽院であった。崇徳院は傀儡に過ぎなかったのだ。この時、まだ二二歳であった。
元々近衛天皇は病弱で、十四年後に十七歳で崩御した。崇徳院の第一皇子である重仁親王にとっては、千載一遇の好機である。重仁を即位させて天皇とし、崇徳院が実権を握る――崇徳院が実権を握る唯一の手段であった。
ところがこの最後の希望も、鳥羽院の根回しにより、あっさり根絶されることになる。
実際に即位したのは重仁ではなく、崇徳院の同母弟の雅人親王――後の後白河天皇だった。
崇徳院には何も残されていなかった。一年後、鳥羽院が崩御すると、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す。」という噂が広まった。これを利用して藤原信西らが、崇徳院に圧力をかけ始める。崇徳院は、同じ苦境に立たされて謀反人の烙印を押されていた藤原頼長と結託、挙兵するしかなかった。こうして後白河派と崇徳派に分かれて、親子兄弟が殺し合うことになったのが、いわゆる保元の乱である。
戦は崇徳派の惨敗で終わった。敗者に対して、情け容赦ない処罰が課された。崇徳院は、讃岐への配流と決まった。天皇の配流は、四百年ぶりのことであった。
二度と京の地を踏むことを許されない崇徳院は、讃岐国での軟禁生活中、涙に掻き暮れて暮らした。己の血を搾って五部大乗経の写本作りに専念した。供養と反省の証にと、どこかの京寺に納めてもらうことを望んだのだ。
たとえ我が身は遠く讃岐にあろうと、遺したものが一つでも京に留まりさえすれば――。現世での栄華は諦め、願うは極楽往生のみ。京に送られた五部の写本には、崇徳院の悲痛な願いが込められていた。
ところが京都は、これを受け付けなかった。呪詛が込められているのではないか、と信西が奏上したためである。大乗経は送り返された。極楽往生さえ許されないと分かった崇徳院の心に蟠るは、永劫の憎しみ一つ。舌を噛み切って、五部大乗経の最後に書き連ねた。
――我、日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん。
来世を願って書かれた大乗経は魔道に回向され、崇徳院は爪や髪を伸ばし続けて夜叉の如き形相に変じた。その胸奥にあるのは、己を貶め放逐した京への、汲めども尽きぬ呪い。
崇徳院は魔道に堕ち、天狗となった。
死後に天狗道に堕ちるものを天魔、生きながらに天狗と化すものを、魔縁と呼ぶ。崇徳院は空前絶後の通力を持つ大魔縁となった。生まれ変わって間もない故にその力には奥底が知れず、霊山を司る大天狗にも手が届くほどの伸びしろがあるのでは――と評判なのだ。
だが――と白狼は嘴を苛立たしげに鳴らす。
たとえ素質があったとしても、あの様子ではとても物になるまい。
天狗と化した崇徳院が行っていること。それは皇を取って民となし、民を皇となすこと。
早い話が、魔道に堕ちて得た通力を駆使し、国を転覆させようとしているのである。
天皇になるべく生まれてきたのに、数多錯綜する謀りの糸に絡めとられ、鳥羽、後白河という巨大な蜘蛛に喰われ、掌中に権力を手にすることはなかった。――それが悔しくて、哀しくて、復讐を決意したのである。世を乱し、混沌の渦に巻き込もうと決めたのである。
馬鹿じゃないか――本気でそう思う。
人間を憎む心においては他の追随を許さぬ白狼、もし自分に今以上の力があるとしたら、やることは一つ人間の皆殺しだ。人間という種を、この世から跡形もなく消し尽くすのだ。
その白狼の願いは、崇徳院が本気を出せば叶えられないことではない。
力は十分にある。それを惜しみなく使うだけの憎悪も持ち合わせているはずなのだ。
人に恨まれ、騙され、貶められ、否定され、魔道に堕ちたのならば――人を害することに何の躊躇いがあろう。だから白狼は当初、崇徳院が魔道に堕ちたややこしい経緯を知って、軽蔑しつつも、崇徳院が魔道に堕ちたことそのものは歓迎したのである。それほどの恨みを背負って天狗となったなら、必ずや禍根を奉ずるであろうこと疑いなしだったからだ。
ところが、崇徳院のやることの一々が、思いの他規模が小さいのは、先の通りである。
源義朝、少納言信西を始めとして、自分に組しなかったり、自分を貶めたりした者たちや、その周辺の人間をちまちま変死させたりしている。その程度なのだ。大規模な地割れを起こして、悉く地獄の底に引きずり込むとか、数千万の雷を打ち鳴らして京の町を焼き尽くすとか、そういうことは一切せず、ただただ地道に策を練り、人の心の隙に付け入って操り、遠回しに怨敵を滅ぼして喜んでいる。そのまだるこしさ、生真面目さ……。
結局、人間の器から何も変わっていない。天狗になれたというのに、殻を破っていない。
そこに白狼は心底の失望と、怒りを覚える。
人の心を根強く持ち続けるこの未熟天狗こそが、今や白峰を治めているからである。
白峰相模坊は、崇徳院が大魔縁となってすぐ白峰を譲渡して、自らも崇徳院の眷属となることを誓った。相模坊が眷属に甘んずる以上、白峰の天狗全てが崇徳院の配下に収まることになる。相模坊が何故、そこまで崇徳院を立てたのか、白狼はどんなに考えても分からなかった。崇徳院に臆する器ではないはずだ。気まぐれな性格だから、面白いことになりそうだと思って、取り敢えず従っているのかも知れない。いずれにしても相模坊に対する白狼の信頼は、この時分からやや揺らいできている。相模、相模――と呼び付けられ、良いように使われる師の姿など、白狼は見たくなかった。
――だが何が嫌って……。
白狼の眼に再度、蒼い火がともった。かっかする腹をどうにも抑えきれなくなり、白狼は頭の向く先を下方に転じて翼を閉じ、闇中に身を投ず。颯にも追いつけない速さで、地に向かって落ちてゆく白狼。寸時を待たずして木の葉が舞い上がり、騒めく気配がした。
木々の狭間を通り抜けたようだ。次の瞬間、白狼は翼を広げて身体の向きを転じ、翼で三度、強く闇を叩いて再び舞い上がった。旋風の中に香る水の気配。どうやら、白狼が向かった先には小川が流れているらしい。白狼は滑落して川に向かい、激突する瞬間に嘴で水面を掬い、再び虚空に舞い上がったのである。
満月を背に風を纏って飛ぶ白狼。その嘴には、太った鮎が加えられていた。それを一息に胃に収めると、ほんの僅かではあるが腹のむかつきが和らいだ気がした。嘴に残る水を全て流し込むと、滑空のために研ぎ澄ました感覚と緊張とを解いて、再び沈思に遊ぶ。
――こうなることが、少しでも分かっていたならば。
師である相模を止めただろうか。白狼に、答えは出せない。
崇徳院が白峰を己の棲処と定めて、一人であれこれ頑張るだけなら、まだ良かったのだ。しかし、白峰相模坊が崇徳院の眷属になることを明言したため、全ては変わってしまった。白峰に棲む天狗は今、崇徳院の目的のため利用され、遣わされることになっている。
人を惑わせ、互いに憎ませ、殺し合わせ、魔道に誘う――確かに天狗の役目である。だがその目的は、国を傾けるなんてそんな矮小なものが目的ではなかったはずだ。人間それ自体を、損なうのが目的だったはずなのだ。だが白峰では今、そこには重きを置かれない。
この傾向は、仁安三年の秋に西行とかいう阿呆が白峰の御陵を訪ねて以降、いよいよ酷くなった。久しぶりに人に会った嬉しさで西行の前に姿を現した崇徳院は、鼻高々に大天狗となってからの自分の企みと成果を披露した。が、西行は感心も戦慄もせず、ただただ穢土に縛られて成仏できずにいる崇徳院を憂い、涙ながらに諫め、成仏を勧めた。そうして西行が讃岐国を去ると、崇徳院は誰の目にも明らかな躍起を見せ、件の宿願達成にますます心血を注ぐようになった。
白狼の醒めた目には、崇徳院の愚かな心が手に取るように分かる。大方、西行の言い分の中に一理を見たのだろう。それを素直に認めることは、崇徳院にとって、二度目の死よりも難しいことなのだ。故に崇徳院は止まらない。誰にも止められない。白峰山に生きる天狗たちは、私的な事情により使役される、陰陽師でいうところの式神に成り下がった。どんなに詰まらない、面倒な用事であろうが、一たび命ぜられれば是以外に答えはない。
――だから今日みたいなことが起きる。
白狼の愚痴に答えるように、翼が軋んだ。すっかり傷んでしまっている。長く飛んでいるからではない。潮のせいである。今日、白狼は相模坊を通じて崇徳帝から命を受け、最速を保って大洋へ飛んだ。白峰山に集う天狗の中でも、飛翔の技にかけては白狼に並び立つ者はいない。その能を買われての此度の遣いだったのだが、そんな遠い所で何をして来たのかと言うと――。
――人助けである。
鎮西八郎源為朝という男の命を救ったのだ。
為朝は源為義の八男、生まれもっての大豪傑である。保元の乱では、義朝以外の兄弟や父と共に崇徳院側に組して、三尺五寸の太刀と五人張りの強弓を携えて猛者を従えて奮戦し、一時は平清盛を退ける活躍を見せた。
結局、崇徳院側は奮戦虚しく破れ、為朝も捕らえられることになる。父や兄弟が義朝によって斬首される傍ら、為朝のみが武勇を惜しまれて助命、流刑となった。
流刑になっても崇徳院のようにめそめそしないところが豪傑の証。為朝は荒々しく立ち回って伊豆七島を悉く平らげ、勢力を蓄えた。そうして、上洛を決めたのである。
やり損なったことに、再び挑むために。
平治の乱の後、平清盛が他を圧して絶大な権力を掌中に収めたため、世は平家の天下。それを終わらせるに最も手っ取り早い方法を、為朝は躊躇なく選んだ。清盛を殺すのだ。
伊豆に流されようと、為朝の体内を流れる忠義の心血に変わりはない。亡き父や兄弟、そして亡き主君の仇を討とうと、主従三十人、船に乗って水俣の浦を漕ぎ出したのである。
その護衛を務めよ――白狼は、そう命ぜられたのだ。
この年の海模様は、素人目に見ても穏やかなものとは思えなかった。案の定、翌日には霧に覆われて、水面に飛魚や海月が目立ち始めた。ほどなくして海は荒れに荒れ、為朝らの乗った船は覆され、沈んでいった。
白狼が辿り着いた時、為朝らは大洋のど真ん中で既に運尽きようとしていた。二十余人の郎党らは互いに刺し違え、或いは自ら腹を掻っ捌いて入水していった。為朝自身も、もはやこれまで――と、寄せ狂う波の只中で、切腹の支度を整えていたところであった。
上空に静止し、為朝を見下ろしながら白狼は、馬鹿な男だと心底思った。
白狼自身は為朝に何の思い入れもないし、勝手に死にかけている、その阿呆さ加減に呆れていた。このまま死ぬのを見られれば、さぞ愉快であろう。だが院の命に応えられないと後が面倒だ。降り頻る雨と、渦巻く海面とが綯交ぜになって、轟々と唸る流水を見下ろし、白狼は舌打ち一つ響かせた。そうして翼で雨を叩き、為朝の許に向かったのである。
それからのことは、全てが飛矢の如く進んだため、白狼自身も朧気にしか覚えていない。
蟒蛇の如く鎌首を擡げて襲い来る波頭を次々と避けつつ、茫然自失の体であった為朝の身体を抱え上げ、近くの浜まで運んだことは確かだ。豪傑の身体は、岩のように重かった。
為朝は最後まで気を失ったままだった。窮境を救ったことに満足し、後は野となれ山となれという思いで、白狼はその場を飛び去ったのである。
そうして、今に到る。疲労困憊に軋む身体を持ち上げ、墜落しないように翼を叱咤激励して、ここまで来た。
海の中を割って入って飛ぶのは愉快だった。だが何が残念って、此度の甲斐が、そんな自己満足程度の物でしかないことだ。白峰に戻って崇徳院に成果を奏上したところで、大した労いなどなかろう。はわらたが煮えくり返るような思いで、人助け――しかも崇徳院の個人的な事情での人助けをしたというのに、そうした思いは汲まれない。為朝を救わなければ何かしら咎めがあろうが、救ったからと言って今の状況が良くなるわけではない。使い勝手が良いと判断され、今後更なる無理難題を押し付けられることになるやも知れぬ。
――まあ何にしても、とにかく一度、ゆっくりと眠ってからにしよう。
愚痴、不平不満、怨憎呪詛、溜息、口を突いて出るものを勘定していては切りがない。
だが考えたって仕方がないならば、これ以上考えまい。上手い具合に、数里先で赤々と燃える火の光。遠くにぽつねんと、しかしはっきり見える。眼を何度瞬かせても、ちゃんとそこにある。天狗の迎え火だ。天狗が棲み処としている深山幽谷の杉の梢で、松明丸と呼ばれる小天狗が灯す火だ。里に下りた天狗が迷わず帰って来るための目印である。
ここまで来れば大丈夫だ。安心の嘆息を深々と吐き、白狼は余力を振り絞って翼を軋ませ、夜を強く叩いた。
やがて、静かに一つ灯る天狗火を眼下に見下ろすところまで来ると、白狼は頭頂が天を、足の裏が地を指すよう身体の向きを変え、虚空で翼を畳む。飛力を失った白狼の身体はそのまま、一直線に地に向かって落ちてゆく。
山を覆う木々、そこから伸びる無数の枝と葉。樹冠の間を掻い潜って白狼は落ち、寸でのところで翼を広げて一度、ふわりと舞い上がった。その後は、音もなく地面に着地する。
帰った――。どっと滲み出てくる安堵と疲労に耐えつつ、白狼はぐるりと周囲を見回す。
その蒼い目に、さっと薄影が差した。白狼は眉間に皺を寄せて、足元を見やる。
白狼を誘った火が赤々と燃えている。が、それは梢ではなく、地面に積まれた薪と思しきものの上で、ぱちぱちと爆ぜているのだ。耐え難いくらいの熱があり、思わず二歩三歩と退く。そうして、火をまじまじと見つめた。
これは陽の火だ。天狗が灯す陰火とは違う。そして陽の火を白峰で見た覚えは、少なくとも百年間で一度もない。
ここは、白峰ではないのか。
よくよく見回せば、焚火に照らされて浮かび上がる木々の様子も、住み慣れた白峰とは、違っている気がする。枝の間から覗き見える夜空の様子も違うし、月のいる位置も違う。
猜疑は、一瞬で確信に変わって、冷たい汗と変じて背中を流れ落ちた。今の状況が示していることは、あまりにも明らかだ。
道を間違え、迷ってしまった。
空には道がないからと慢心していたのが失敗の許。星月を見て確認しておくべきだった。
途中で方角を違えたか、手前で降りてしまったか、行き過ぎてしまったか……そのうちのいずれなのか、もはや確かめる術がないことこそが最も悩ましい。再び夜空に舞い上がって見たところで、星模様だけで居場所を判断することなど無理な相談だ。
――こいつはまずい。
夥しい冷汗が全身を伝い、胸が早鐘を打ち始めた。この疲労では、長くは飛べまい。ここがどこかを知る術はなく、愚図愚図していれば夜が明けてしまう。人里に近い山なら、人に見つかって殺される。或いは、朝を待つ前に殺されるかも知れない。こうして傍らには、未だ赤々と燃える焚火があるのだ。この山に誰かいて、しかもその誰かは起きている。
じりじりと後ずさって、流木作りの太刀を抜いた。戦慄く剣先を四方八方に向けながら、幹に背を預ける。剣に覚えはあるが、心が不安と恐怖で萎びている。腕が鉛の如く重い。
その時であった。
不意に、眼前の叢がガサガサと音を立てて揺れた。そうして焚火が照らす中に、足音荒く現れた影――九尺はあろうかという巨体。それが十も二十も纏まって、次々やって来る。
戦意の欠片も砕け、思わず太刀を落とした。巨大な影は物言わず、次第に近付いてくる。
白狼は目を閉じた。極限の恐怖の中で、これまでの記憶が火花の如く脳裏にちらついた。
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