第4話 七枝(ナナシ)③

「ん……」


 ナナシは小鳥のさえずりで目を覚ました。あたりはまだ薄暗く、起きて行動するにはまだ早い時間帯らしいが、明らかに太陽は昇り始めている。焚火の火は消え、灰色になった木の枝が残るばかりだ。


「え? もう朝!? あれ?」


 見れば、自分にはしっかりとした作りのマントが掛けられ、同行者が夜露から守ってくれた事を伺い知れた。ではこのマントを掛けてくれた人物はどうしたのか。確か、眠る前に見張りを交替するよう頼んでおいたはずだ。ナナシは焦って自分の眠る前の記憶を辿った。


(あちゃあ……あたしってば、やっちゃった?)


 ナナシが恐る恐る視線を上げると、そこには赤毛の男、テンが愛刀の手入れをしていた。


「お? 起きたか」

「あ、うん。ごめんなさい……」

「気にすんな」


 テンを見る限り、怒っている様子ではない。ナナシは胸を撫でおろした。


「おら、さっさと飯食っちまえ。急げば昼前には街に着くだろ」

「あ、はい……」


 ナナシがテンの視線を追い掛けると、サンドイッチとカップに注がれたミルクが用意されていた。


「……ありがと」


 ナナシは両手でカップを持ち、そのカップを口に近付けながら、テンを見上げるように礼を述べた。だがその声はカップの中で反響するのみ。テンの耳には『もごもご』としか聞こえず、結果、上目づかいの美少女の視線のみが残る事になる。


「その視線は……そうか」


 ナナシと視線が合ったテンは左手を動かした。


「ちょっ!? 違うよ?」


 なにがなんだか分からないうちに揉みしだかれた昨日の事を思い出し、ナナシは後ずさる。


「ん? 違うのか? 野生のナナシがお代わりを欲しそうにこっちを見ていたんだが……」


 しかし、テンの左手には一組のサンドイッチ。


「へ?」

「いや、だからお代わりが欲しそうにこっちを見――」

「違うわよ! 違うけど、せっかくだから頂くわ!」


(はぁ~、テンって疲れるわ~)


 深いため息をつきながらもサンドイッチを頬張るナナシを、テンはカタナの手入れをしながらずっと待っていた。その表情からは何を考えているのかなど伺い知れないが、ナナシの中ではテンの評価は上がっている。

 不愛想で、おかしな事を言ったりするが、面倒見は悪くない。むしろ、ぶっきらぼうだが親切にしてくれている。


(はぁ。どうやってお礼しよ? あたし、お金なんか持ってないし。そもそも、親に売られたあたしがどうやってお金を工面すればいいのよ……)


 ナナシが人攫いに攫われた事情は複雑だった。貧しい農村の生まれの彼女は、その見た目と男好きのする身体から、口減らしの為に娼館に売られてしまう。

 彼女の親は娘を娼館に売り払うようなクズであった。口減らしの為に売るのであれば、別に娼館でなくてもどこぞの女中や侍女、住み込みの店員など、いくらでもあったのである。しかし、彼女の親は、一番高く売れるであろう娼館に売り払った。

 あんな親の為に自分の身体を売るなど真っ平である。ナナシは娼館を逃げ出した。そして、逃げ出し、疲れ果てて休んでいるところを運悪く人攫い達に見つかったという訳である。

 しかし、逃げ出す才能には長けていたようで、ここでもナナシは逃亡した。その後はテンも知る通りである。

 ただ一つ、テンの間違いは、ナナシは親には愛されてはいなかったという事だ。


(ナナシって名前も、親に愛されなかったからそう呼ばれてただけ。七枝って字を当てたのも自分だし。それに、あたしが娼館を逃げ出しちゃったから、あいつらの所には取り立てがいくだろうし、ザマァよね)


「ねえ、テン。えっと、これ、ありがとう」


 色々と考えながらの食事で、正直味など憶えていなかったが、それでも食事を終えたナナシは夜露でやや濡れているマントをお礼の言葉と共にテンに手渡した。


「おう」


 相変わらず、ぶっきらぼうな受け答えで受け取ったテンは、そのまま例の左手の八卦図の中にマントを取り込んだ。


「えっと……」

「便利だからな」

「……そうね」


 何かを言いかけたナナシを制するように、テンが簡潔に理由を述べた。そうなると、もうナナシには同意する事しかできない。テンの左手に関しては、もう突っ込むまいと心に決めたナナシだった。


 数日振りにぐっすりと眠り、まともな食事にもありつけたナナシは、昨日より幾分速いペースで歩いていたテンにも遅れることなく付いていく事ができた。

 それでも、少しでもナナシのペースが落ちると、それとなくテンのペースもゆっくりとしたものになる。


(おかしな人だけど……基本、優しいのよね)


 その優しさを押し付けてくる事はない。しかし、今のこの歩き方を見ているだけで、自分はテンに守られている事が実感できる。ナナシはその事を思うと、思わず頬が緩んでしまう。村での生活では感じた事のない、不思議な温かい気持ちだった。


「テン、ありがとね!」

「……いきなりなんだ?」

「うふふっ、なんでもなぁーい!」


 テンの前に回り込み、後ろ手に手を組んだナナシは悪戯っぽく笑った。

 そして、街まではもうすぐだ。テンとナナシの短い旅も、終わりを迎えようとしている。


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