第38話 疲れ果て、想いも尽きた①
靴の底が擦り切れ、足も鉛の如く重くて1歩歩くだけで多量の体力が奪われてしまう。それでもヒンメルは歩き続けた。真っ暗闇の世界に次々と映し出される幼い頃の自分とラフレーズは、どれも関係良好とは言い難い。当然だ、歩み寄ろうとするラフレーズを嫉妬と意地で拒否し続けたヒンメルの自業自得だった。
隣国との更なる関係強化により結ばれた婚約は、ヒンメルよりも王妃ロベリアが嫌がった。表向きは未来の娘となるラフレーズを気に入っている素振りを見せつつ、自分と信頼の置ける侍女ばかりになるとラフレーズが抵抗しないのを良い事に虐げ続けた。ヒンメルが言ってものらりくらりと躱されるか、告げ口をしたと余計ラフレーズが追い詰められた。
ラフレーズを守ろうとした結果が逆に追い詰めた。先日の件の時も、自分よりも父が止めた方が効果があると知っていたから、あの場には行けなかった。
どこで間違えたのかと自問し、最初から間違えたのだと自答する。
ラフレーズが持ってきたクッキーを食べていたら、彼女が好きなスイーツを一緒に食べていたら、少しでもラフレーズに歩み寄っていたら、と過去の光景を見ていく度にヒンメルの心を傷付けた。
傷付き、泣いているラフレーズを慰めるのはクイーンであったり、ラフレーズの父シトロンや兄メルローであったり。そこにヒンメルが映し出される事はない。
1度だって泣いているラフレーズを慰めた記憶も、ましてや泣いている場面に遭遇すらしていない。
光景が突き付けて来る。
お前はもう取り戻せないと、諦めろと。
ラフレーズとヒンメルの光景は偶にメーラとヒンメルに変わる。不思議なのが最初はマリンだったのにすぐにメーラに変わるところ。が、ヒンメルにはどうでもいい。
ラフレーズ……ラフレーズ……と紡ぐ。
会いたい、ラフレーズに会いたい。会って今までの事を謝りたい。そして、最初からやり直したい。
もう歩く力すらなく、へたり込んだヒンメルは真っ暗闇の世界で涙を流した。
誰も来ない、助けもないこの場所に永遠に居続けるのが罰なのか。
「あ……」
ふと、視界が明るくなった気がして顔を上げた。淡い光が目の前にあった。
手を伸ばして触れると懐かしい温もりを感じ、光りはヒンメルの体を包んだ。
“――……か…………んか”
誰かが呼んでいる。
ヒンメルが今最も会いたい人の声に酷似している。
“――……んか……殿下……”
ああ、この声は間違いない。
ヒンメルは名前を紡ぎ、眩しい光に身を委ねた。
〇●〇●〇●
「頬の腫れも引いたな。血も止まったし、問題ないだろう」
トビアスとメーラを外から室内の様子を窺っていた騎士数人に連れ出させ、後日お詫びをしに来るとメーロも退室した。
ラフレーズは治癒が完了されると自分の顔に手を当てた。感覚的に腫れていると思っていた頬はクイーンの言う通り引いており、鼻血も止まっている。血は既にふき取り済み。みっともない姿を見られらと恥ずかしそうにしたら、重傷を負ったのに恥ずかしがるなと叱られてしまった。
未だ、ヒンメルは目を覚まさない。
引き続き魔術師が治癒を担当する。ラフレーズのお陰か、最初と比べると顔色も随分と良くなり、微かに此方の声に反応してきている。
時間が解決してくれると助言をくれた魔術師に礼を述べ、一旦王太子の部屋から出た。一緒に出たシトロンに聞いてもいいのかと悩みながらも、話し掛けたい気配を向けていたせいでバレてしまい、思い切って訊ねた。
「さっき、メーロ様が言っていた公爵様とメーロ様の妹様の……」
「ああ……。殆ど知られてはいないがメーラ様は、トビアス様とメーロ様の双子の妹アップル様のお子だ」
花祭りの際、メーロの出る言葉の端端から浮気に対しての辛辣さは尋常ではないと感じてはいた。
真の理由が夫と実の妹の不貞ともなれば、浮気の2文字が憎たらしくなるのも頷ける。
「公爵様とメーラ様の今後はどうなってしまうのですか?」
「メーロ様の判断次第だろうな。情を捨てた相手に、メーロ様は一切の容赦はしない方だから、良い未来がないのは確かだ」
不貞の証だと冷たくメーロに言い放たれたメーラの顔が忘れられない。唖然とし、捨てられたくないとメーロに手を伸ばしていた。騎士に無理矢理部屋から出される時もメーロにずっと手を伸ばし助けを求めていた。
ヒンメルの恋人になる以前から様々な嫌がらせを受けてきたが、母親に捨てられた瞬間を見てしまうと何とも言えない気持ちになってしまった。
暗くなったラフレーズの頭に手が乗った。
クイーンだ。
「お前は気にするな。ファーヴァティ公爵家の問題だ。他家の人間がどうこうできる問題じゃないだろう?」
「そう、ですね」
「今日は伯爵と帰りな。ヒンメルが目を覚ましたら、いの1番に知らせる」
「分かりました」
無論、例の精霊の治療も終えたら必ず呼ぶようにするとクイーンは約束してくれた。マリンの尋問は精霊と同じ日にするとも決まった。
シトロンの転移魔術でベリーシュ伯爵邸に戻った。部屋で休むより先に、自分を呼ぶ声に誘われて庭へ足を運んだ。
「メエ!」
「クワワ!」
「メリーくん、クエール」
体に包帯を巻いたクエールに寄り添うメリーくんは、ラフレーズの姿を見るとこっちと呼ぶ。モリーの姿はない。近付いてモリーの居場所を聞くと例の精霊の治療に当たっているとか。
「クエール、怪我は大丈夫?」
「クワ!」
「良かった」
大半はモリーが治療して、後はクエール自身の回復力で治すだけだと教えられ安堵した。メリーくんも現場に駆け付けたかったが、実力の差が大きく行っても足手纏いになると自分自身理解していたから行けなかった。
クエールとメリーくんの間に座ったラフレーズは白くて柔らかい身体に挟まれ微笑んだ。
「殿下の目覚めと精霊の治療が早くきてくれますように」
「メエエ」
「クワ、ワ」
「ありがとう、2人とも」
2匹もラフレーズと同じ祈りを捧げたのであった。
――ヒンメルが目を覚ましたと、クイーンからの連絡をクエールが持って来たのが3日後であった。同時に精霊の治療も終わり、尋問は先にクイーンがモリーを同伴させて行っている最中。マリンの尋問はその次となる。
精霊の尋問が終了するまで時間かかる。
ラフレーズは先にヒンメルに会いに行った。
許可を貰って寝室に入ると魔術師にベッドの上で検査を受けていた。
自分の名前、年齢、国の名前、家族の名前、他にも日常生活に必要な基礎的知識や専門知識の質問を行い。問題がないと分かると魔術師はヒンメルの側を離れ、扉付近で立ったままのラフレーズに近付いた。
「意識や記憶に問題は御座いません。後程、医者を連れて参ります」
「ありがとうございます」
予め国王が人払いをしていたらしく、魔術師が去ると室内にはヒンメルとラフレーズしかいなくなった。
いざ、2人だけになると何を言えばいいかと言葉を探した。最後が拒絶の言葉を一方的に言い放って終わったから。罪悪感が湧き、動けないでいるとヒンメルに呼ばれた。今まで聞いた事のない、優しい声。
恋人になったメーラに聞かせていた声。
ドレスの裾をギュッと握り締め、呼ばれるがままヒンメルの側に行き、頭を下げた。
「殿下がお目覚めと聞き馳せ参じました。お体の具合は?」
「魔術師の方にも言ったが特に問題はない。そこの椅子に掛けてくれ」
「失礼します」
促され、椅子に座ったラフレーズは早速謝罪の言葉を述べた。上から感じる緊張の気配に顔を上げたくなるも、3日前ヒンメルに放った非礼を詫びた。
慌てた声のヒンメルに釣られ顔を上げた。折角、良くなった顔色が青く染まっている。
「謝らないでくれ。ラフレーズは何も悪くない」
「1度放った言葉は決して戻らない。小さい頃から、父によく言われました。後先考えずに言葉は放ってはいけないものだと。あの時、私は殿下に、仮令相手が殿下でなくても、人に向けてはならない言葉を出してしまいました。私の自己満足だと思って頂いて構いません」
「いや……そんな事は決してない。私は……相応の過ちをしてしまったのだから」
2人の間に流れる重い沈黙。
どちらも相手の言葉を待っていながら、話す機会を探している。
「……殿下」
先に開口したのはラフレーズ。
「今日は殿下にお伝えしたい事があります。殿下がお眠りになっている間に、私と殿下の婚約は正式に破棄されました」
見る見る内に目を見開き、唖然となるヒンメルの姿に胸がチクリと痛んだ。多少なりとも情を持っていてくれたのか、単に病み上がりで聞かされた話の質が違ったからか。
この後はメーラについて話さないとならない。メーラの今後はヒンメルの返答次第となる。
『魔女の支配』を探る為に近付き、恋人にまでなった程だ。
少なからずメーラに対し情があるのは確かで。
「次の王太子妃候補はメーラ様に決定されました」
「ま、待ってくれ!」
ベッドから身を乗り出す勢いで動き出したヒンメルを止めるも強く両腕を掴まれた。焦り、悲し気に染まるヒンメルに見つめられ心が苦しくなってしまう。
「私が眠っている間何が起きたかは、ある程度父上から聞いた。だが婚約破棄の件は何もっ」
「……私が陛下にお願いしたんです。婚約破棄の件は私から言いたいと」
ヒンメルの手を離したラフレーズは寂しげに笑んだ。
「殿下が何故メーラ様と恋人になったかの理由はお父様に聞きました。そして私も決めました。状況が落ち着いたら、婚約破棄をさせてもらおうと」
恋人には甘く優しく、婚約者には甘い声も顔も瞳も情も何も与えないヒンメルには疲れ果て、想いは尽きたと。
静かな声で紡いだ。
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