芙美花視点(4)
己が今いるこの世界からいなくなったとして、それを心から案じてくれる人間はいるだろうか? 芙美花は考えた。しかしそこに浮かぶ顔はひとつとしてなかった。
芙美花が失踪すれば両親は困るだろう。子供を儲けたのは世間への義務感のようなものからだということを、芙美花は肌で感じ取っていた。だがきっと、芙美花がいなくなっても、悲劇の主人公ぶって上手いこと切り抜けそうな気もする。
親しい友人も、恋しい相手もいない。そのことに気づいてしまうと、今いる世界に固執する理由は容易く失われた。
一方、異世界へ行けばなにかが変わるとも楽観視はできなかった。異世界へ行くことになったとしても、芙美花は芙美花なのだ。容姿も性格もそのまま異世界へ行ったとして、なにかが劇的に変わるとは思えなかった。
けれども――。
「会いたい、です」
架空の存在。ただの二次元のキャラクター。そう思っていた木槿が現実に存在すると聞かされれば、会いたくなってしまった。
実際の木槿がどんな人間かなんて、芙美花にはわからない。芙美花が見ていた木槿なんて、彼の一面に過ぎない。それは、わかっていた。わかっていたが―― 一度、会ってみたかった。
“偉大なる魔女”はわざわざ異世界から元の世界へ帰ることもできると言ってきたのだ。それが事実かどうかまでは芙美花にはわからなかったが、信じてもいいような気持ちへと秤は傾いた。
木槿は、芙美花が持つ心の支えのうちで、いつの間にかいちばん太くなっていたから。だから、その木槿に直接会えるという誘惑に抗うのは、芙美花には難しかった。
芙美花の答えを聞いた“偉大なる魔女”はニヤッと笑う。
「よしきた。それじゃあいざ異世界へ! ――あ、そうそう。言い忘れていたことがあった」
“偉大なる魔女”はおもむろに芙美花の手を取ったあと、そんなことを言い出したので芙美花はドキリとした。イヤな予感があまた脳裏を駆け巡って行ったが――“偉大なる魔女”の答えは、
「あたしのいる世界って簡単に言うと『男だけ美醜逆転』してる世界なんだ。まあ、だから、なんだって話なんだけどね」
というものであった。
「へ?」
芙美花が間抜けな声を出すと同時に、幾何学模様が散りばめられた空間が渦を巻いて歪む。
そして「あっ」という間に芙美花は異世界へ移動していた。
『魔女ノ執事』内で見たそのままの内装の屋敷に、放り出されるようにして膝から着地を決めてしまった芙美花はしばらく悶絶する。そんな芙美花を見ても“偉大なる魔女”は涼しい顔だ。
「じゃあ『執事』を連れてくるから」
「え……い、今すぐにですか?!」
「当たり前だろう。『善は急げ』と言うじゃないか。じゃ、呼んでくるから」
カツカツとハイヒールから軽快な音を立たせて“偉大なる魔女”は部屋から出て行ってしまう。“偉大なる魔女”に聞いておくべきことはまだ色々とあるような気もしたが、そんな時間は与えられなかったし、すぐに質問も浮かんではこなかった。
「え……? 今からムーさんと会うの……?」
芙美花は混乱のあまり大きな独り言までつぶやいてしまう始末。視線をさまよわせれば、窓の外には穏やかな春の日差しがあり、春バラが美しく咲き誇っている。今はその堂々とした可憐な姿が、鼻につくほど芙美花の心は平静からは遠かった。
このときばかりは「時よ止まれ」と言いたくなった。しかし“偉大なる魔女”が勝手に空気を読んでくれるはずもなく、ややあってから両開きの立派な扉がノックされる音がした。
「は、はい! どうぞ……」
「失礼いたします」
あまりにも聞き慣れた声が、扉越しにくぐもって聞こえる。一拍置いて、取っ手が下に動く。ガチャリ、という音と共に姿を現した人物は――
「ムーさん……?」
小さく呼吸をするように芙美花は気がつけばそう言っていた。切れ長ながら大きな金の瞳が、ゆっくりと細められる。木槿に微笑みかけられた芙美花は、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
「御主人様」
木槿の薄い唇が動く。芙美花は現実感を伴わない感覚のまま、「アニメーションがなめらかだなあ」などということを考える。しかしすぐに目の前にいる木槿が生身の存在なのだと思い出して、心が乱れるような思いをした。
「御主人様、立ち話もなんですし、どうぞソファにお掛けになってください」
「あ、うん……」
木槿に勧められるがまま、芙美花は手近な一人掛けのソファにぎこちない動きで腰を下ろした。クッションがよくきいた、いいソファだということがわかった。そんな風に今考えるべきでないことがたびたび脳裏を占めるほど、芙美花は冷静さを欠いていた。
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