第3話

 階段を降りようとしたさらさに、り手の亀綾かめあやが声を掛けてきた。


きよ様は居続けかい」

「あい。これから朝餉を取りに」

「身請けが近いってのにお熱いことだねえ」


 亀綾はとうに年季の明けた元女郎で、二階に設えられた火鉢の前に居座って見世の諸事に目を光らせるのを役目にしている。客については、金払いや女の扱いが悪くないか。女郎については怠けていないか、客に入れ込み過ぎてはいないか。つまりは、心中や――駆け落ちをしそうな気配がないかどうか。


「名残惜しいのでありんしょう。姉さんと清様は長年の馴染みでありんすから」


 先ほどの一幕を告げ口すべきか迷いながら、さらさはぎこちなく笑ってみせた。見世のためを思うなら、言わなければいけないのだろう。でも、あれはただの戯れのはずだし、何かと口煩い婆の亀綾よりも、姉とその情人の肩を持ちたいものだ。


「ま、唐織からおりも分かってるだろう。あの子はちゃっかりしてるからね」

「え……?」


 ふたりの仲を悪し様に言うのかと思いきや、亀綾があっさりと煙管をふかしたので、さらさは首を傾げた。その間抜け面にふうと煙を吐きかけて、遣り手婆は小娘の鈍さを嗤う。


「清様との仲を見せつけて、高田たかだ屋様を焚きつけたのさ。見目良いだけの若造に負けてなるものかと、張り合って金を落としてもらえるようにね」

「まあ、かようなこととは気づきいせんで……姉さんと清様はお似合いだとばかり」


 さらさは、普段ならなるべく亀綾の目に留まらないように急いで階段を降りている。けれど、今日に限っては意外なことを聞かされて、つい足を止めてしまった。唐織と清兵衛は思い合っていると、危うく口から出そうになるのを呑み込みながら。水揚げ前の小娘が遣り手に口答えなど生意気だろうし、今も語らっているであろうふたりに対して、余計な疑いを持たせてはいけない。咄嗟にそう考えたのだ。


 考えを巡らせながらのこと、間延びしてしまったさらさの答えに苛立ったのか、亀綾は苛立たしげに煙の塊を吐き出した。


「あんたもぼんやりしているね。清様だってようく弁えた遊び人だ。札差と競ったところで、そこらの若旦那に金が続くもんかい。花魁の情人いいひとに収まって、客の競争を盛り上げて――そうすりゃあ、見世では歓迎されるからね。さぞ良いご気分だろうさ」


 ならば、唐織と清兵衛は、互いに利用し合って仲睦まじい振りをしていたということなのだろうか。卵の四角にみそかの月――女郎に真がないのなら、その通りなのだろうけれど。それでは、寂しいような気もするけれど。


「あんたもそろそろ水揚げだろう。部屋を持ったら、清様を捕まえとくんだよ。他所の見世になんて取られて堪るもんかい」

「そんな、わちきは――」

「今だって何かと気に懸けていただいてるだろう? その調子で、姉さん同様ご贔屓に、って甘えるんだよ。何、あちら様だって頼られて悪い気はするものか」


 亀綾は煙管の灰を落とすと、その雁首でさらさを小突いた。火は消えているとはいえ、着物が汚れるのを恐れて慌てて飛び退きながら、さらさは亀綾の言葉に目を瞠っていた。


「清様が、わちきに……!?」


 思わずまさか、と言いかけるけれど、あり得ないとも言い切れない。だって、清兵衛はさらさにあのまじないを授けてくれた。気重な名代の役に沈んでいるのを見かねて、助け舟を出してくれた。唐織を腕に抱きながら、さらさのこともちゃんと目に入れて気に懸けてくれたのだ。それが気紛れでないのなら、今のうちに目をつけてくれたのだとしたら。唐織が身請けされれば、その座敷を継ぐのはさらさかもしれない。あの座敷で、姉分のように清兵衛を迎えることができるのだとしたら。


「唐織の後の稼ぎ頭が必要だからね。楼主おやかた様も、あんたには期待しておられるんだよ」

「あい……あい! 必ず、精進いたしいす」


 姉の座敷で口にしたのと同じ誓いを、先ほどよりもずっと強く述べながら。さらさの頬は熱く紅く染まっていた。

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