みそかの月

悠井すみれ

第1話

 浅草寺の明け六つの鐘を微かに聞きながら、さらさは見世の二階の廊下を歩いていた。初秋の葉月のこと、朝晩はだいぶ冷えるようになった。裸足の足裏から伝わるひんやりとした冷気が、背筋をしゃんと伸ばしてくれる。


 ここは、吉原は江戸町一丁目に見世を構える遊郭、錦屋にしきや。女郎と客が名残を惜しむ密やかな声が、あちらこちらで囁かれるのは毎朝のことだ。一夜の夢を過ごした男たちは、夜が明けるかどうかのうちに大門おおもんを出て、各々の家や生業に帰る。一方の女郎たちは、客を見送った後でようやく朝寝を貪ることができるのだ。


 小さく欠伸を噛み殺すさらさは、でも、寝床に向かっている訳ではなかった。彼女は水揚げ前の振袖新造ふりそでしんぞう、女郎としては見習いの身だ。二度寝の前に、やるべき仕事はまだ多いのだ。


 二階の奥、目当ての座敷に辿り着いたさらさは、内にそっと声を掛ける。


唐織からおり花魁、さらさ、名代みょうだいより戻りいした」

「ああ、お入り」


 涼やかな声に命じられるまま、さらさは襖をすっと開け、座敷の中へといざった。教え込まれた作法はもはや間違えようがない。でも、この座敷に入る時、さらさはいつも息を詰めてしまう。天道様を見つめれば目が潰れてしまうのと同様に、心構えをしておかなければ、襖の向こうに鎮座する眩さに魂を奪われてしまいそうな気がするからだ。


「あの、姉さん――」


 そして、今日もさらさの心構えなど夏の陽の下の氷も同然だった。情人の胸に頭を預け、抜いた襟から白い首筋を覗かせるその人をひと目見た瞬間に、間抜けみたいにぼうっと目と口を開けて見蕩れてしまうのだから。


「ほほ、ぬしはほんにいこと。毎朝毎朝、飽きもせずにわちきに惚れ直してくれるのかえ」


 金箔の屏風に、螺鈿細工の煙管と煙草盆。客に貢がせて誂えさせた豪奢な調度を従えるように、座敷の主は軽やかに笑う。ぎやまんの鈴を転がすような澄んだ声に相応しく、その姿も目を瞠るばかりに美しい。


 座敷付きの禿かむろの世話で、洗顔などは既に済ませているのだろう。その人にね乱れた風情はもうなかった。緋色の襦袢に、金糸銀糸の刺繍も鮮やかな仕掛(しかけ)を無造作に羽織った肩は細く、うなじは白く。かんざしこうがいを抜き取った結い髪の、わずかなほつれが昨晩の情事を窺わせる。朝の爽やかな空気の中でも匂い立つような色気を放つその人こそ、さらさの姉分の唐織花魁だった。


「だって、姉さんでありんすもの。男だろうと女だろうと、惚れずにいるなどできいせん」


 姉分の艶な姿に見惚れて、さらさの声は熱を帯びた。と、その傍らから苦笑混じりの声が掛けられる。


「さらさ、俺には惚れてくれねえのかい?」


 唐織を抱く若者に、悩ましげな流し目を向けられて、さらさの頬にさっと朱が上る。そう、確かに。さらさが見蕩れたのは唐織ひとりにだけではない。むろん、彼女の姉分は吉原の誰より美しいけれど、しなだれかかる情人と並ぶとなおのこと、一幅の絵のように見事な対になる。まるでつがい鴛鴦おしどりのような──しかも、この対は雌のほうも艶やかな羽根を纏うのだ。自然、さらさの答えにも熱がこもるというものだった。


「あい、もちろんきよ様も。惚れ込んだおふた方が並んでいるのでありんすもの。まったく、さらさは天にも昇る心地でございんす」


 錦屋の唐織花魁といえば、吉原でも指折りの名妓だ。天女と謳われる美貌をひと目拝まんと見世を訪れる男は多く、しかし実際に枕を交わせる者はごく少ない。売れっ妓ならではの高慢さと気紛れで、唐織は客をよく選ぶのだ。


 その点この清兵衛せいべえは非の打ちどころがない。若く男前で、実家が大店の呉服屋だけに趣味も羽振りも良く、さらさのような振袖新造やおさないい禿にも気さくで優しい――そんな、出来過ぎたような男でなければ唐織花魁には似合わないのだ。姉を慕うのと同じくらいに、さらさはその情人を好いていた。


「さて、主も言うようになったもの。客人相手でも同じなら良いが。よもや、唐織の名を貶める振る舞いはしておらぬよなあ?」


 自身の前にいざって端然と座ったさらさに、唐織は試すように切れ長の目を細めた。


 姉分の花魁が馴染みの客と過ごす間、名代として他の客の相手をするのが妹分の役割だった。

 三つ重ねた緞子どんすの布団で花魁と睦言を交わすどころか、振られた客は待ちぼうけを食わされる。薄い布団に、大部屋を屏風で区切っただけの割り床で、周囲からは格下の女郎とその客のあられもない声や物音を聞かされて。花魁から声が掛かるか否かで一喜一憂するのも廓の愉しみとはいうものの、たとえ独り寝をかこつことになったとしても、求められる金子は変わらないのだから男としては堪らないだろう。


 しかも、名代の振袖新造に手を付けるのは、廓のご法度なのだ。自然、客も不機嫌にもなろうというもので、花魁はどうした、といきり立つ男どもを宥めるのは、十五のさらさには手に余る。怒鳴られるならまだ良い方で、質の悪い客は品のない冗談を口にして小娘を困らせたりもする。だから、名代を命じられた夜は気が重いことも多いのだけど――


「でも、さらさ、今朝は顔色が良いじゃねえか。首尾は良かったのかい?」

「あい。清様のお陰で、つつがなく……!」


 花魁の肩を抱いた清兵衛に水を向けられて、さらさは今日こそ強く頷くことができた。

「まっこと不思議でありんす。お狐様に摘ままれたよう。清様はいかがしてあの客人のお里を当てなんした……?」


 昨夜のさらさの客は、田舎から江戸見物に出てきた富農だった。見世に響く大声は訛りもきつく聞き取りづらく、廓言葉も通じそうになかった。いつもにも増して憂鬱で、涙を堪えていたさらさに、清兵衛はそっと耳打ちしてくれたのだ。唐織の方を抱いて座敷に入る間際、内緒話のように密やかに。


『やだっぺよ、止めでぐだせえ、と言ってやりな。あとは黙ってりゃあ上手く行く』

 

 どこの訛りとも知れない「台詞」を口にするのは、恥ずかしいと思ったけれど。件の客とふたりきりになってみれば、案の定一語たりとも理解することができなくて、困り果てたさらさは言われた通りのことをなぞったのだ。

 すると、どうだろう。さらさの客は、くわ、と目を見開いて詰め寄って来た。すわ怒らせてしまったか、と肝を冷やしたのも一瞬のこと、その男が浮かべていたのは満面の笑みだった。時間をかけてどうにか聞き取った単語から判じるに、客はしきりにどの村の娘だ、と聞いているようだった。清兵衛が授けてくれた台詞は、その客の郷里の訛りだったのだと、さらさはそうして初めて気付いたのだった。


「何、家の商いで常陸ひたちの奴と話すことがあっただけさ。田舎者は、江戸で同郷を見つけると喜ぶもんだ」

「まあ、何て見事なお手並み……」


 親の名前はとか、幾つで売られたとか、そんなことを――多分、だけど――聞かれては曖昧に微笑んでいるうちに夜は明けた。だって、さらさは江戸の生まれだから相槌の打ちようもない。なのにあの客はさらさの引き攣った笑顔に気付きもしないで、ひと晩中機嫌良く喋り続けて、別れ際には小遣いまで握らせてくれた。手妻のような清兵衛の悪知恵に、さらさは感嘆の息を吐くしかない。


「感心してるだけじゃいけねえだろうよ」


 さらさの尊敬の眼差しを受けて、清兵衛は愉しげに笑った。唐織の手を捕らえ、その整えられた爪先に唇を寄せて。流し目でさらさの胸をどきりと高鳴らせてからひと節吟じる。


「言うだろう? 卵の四角に女郎のまこと、あればみそかに月も出る、ってな」

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